トーキング・マイノリティ

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人倫なき言論人 その②

2009-02-16 21:24:55 | マスコミ、ネット
その①の続き
 今は人倫がないと言う辺見氏ゆえ、さぞ人倫あるモラリストかと思いきや、コラムからそれがかなり稀薄な印象が浮かび上がる。正義や道徳を口にする者ほど、非道徳家なことが多いように、彼の文章からは他人への薄情さを強く感じる。言っていることとやっていることが違うのは氏に限ったことではないが、大上段に人倫の言葉を使うえげつなさはいただけない。
 派遣村への感想、「どうしようか、カンパでもしようかと。自分のことだけ考えていいのかと思い始める。そういう動揺が希望だと思う」から、氏はカンパもしていないことが知れる。著名人として氏はカンパを求められることを想定、動揺しているのではないか。おそらく未だにカンパなどせず、弱者を肴にするジャーナスリトの、自己中心性が滲み出るしみったれ根性が改めて分った。

 今月十日、また「水の透視画法」が掲載され、見出しは「歩くこと、書くこと」「意識に先行する実存」。5年前、辺見氏は脳出血で右半身麻痺となり、さらに別の病気(新聞に病名はなかったが、wikiに大腸がんを公表したとある)にも侵され、今回はそのリハビリ生活を綴っている。氏はリハビリと言わず、「自主トレ」と名付けているそうだ。「利き手が麻痺して使えない」彼は、「全て左手で作業」、それでも5年間ほぼ毎日駅ビルの階段で上り下りの自主トレを繰り返しているという。氏が自主トレ中に出会う老婦人がおり、彼はその女性をこう描写している。

3階まで息をきらして上っていくと、視線の先にとても小さな老婦人がぽつねんと座っている。白髪に金つぼまなこの、一見すると冷たく、意地悪そうで、表情の薄い女性だ。エレベーター・ホールで手相及び人相見と四柱推命をやっている。5年間、1度も口をきいたことがない。私と眼があうと、顔は少しも崩さずに金つぼまなこがいつも1、2回まばたきをする。会釈をしているつもりかもしれないが、単に私を無視しているだけかもしれず、ひょっとしたら私の顔に運命がまたも激しく変わる兆しを見ているのかもしれない。
 運勢に私は関心がない。それより、彼女がそこにいつも置き物のように座っていること、ただそこに在ることに安堵し、静かに感動するのである。私は占い師に所謂<在るものであるところの存在>を感じる…


 私は件の占い師を見ておらず、辺見氏の描写を信用する他ないが、新聞に載った彼の顔写真も「金つぼまなこの、一見すると冷たく、意地悪そうで、表情の薄い」男性だった。病み上がりで写真写りが悪いこともあろうが、5年間、老女と1度も口をきいたことがないのだから、単に照れ屋とは言えない。物書きは総じて気難しい面があるにせよ、彼自身から会釈をしたことはおそらくないだろう。「私を無視しているだけかも」の見方は、有名人のオレを知らないのか、という気持の表れかと勘ぐりたくなる。

 辺見氏の具体的なリハビリ描写は、同じ立場にある人なら共感するだろうが、読み手より書き手に軸を置いている。つまり己自身を奮い立たせる目的と、リハビリを続ける自己満足が行間からただよう。利き手が麻痺して使えず、全て左手で作業するのは健康体からすれば大儀だが、何もこのような苦労をしているのは辺見氏だけではない。彼のファンなら感動するだろうが、物書きの楽屋裏を見せ付けられたようで白ける。プロの記者なら私事より世相を鋭く斬り込むコラムを書いてもらいたいものだ。

 先月の拙ブログにも辺見氏のコラムを取り上げており、「ユウスケ」さんはコメントで歯に衣着せず氏を一刀両断されている。「甘ったれた理想主義者の戯言にしか思えなかった」「被害者気取りの詐欺師もいいとこ」「社会に貢献している活動家や、社会に抗いたいという気持ちがある同僚を肴にした、いわゆる知的インテリゲンツァのマスターベーション」…
 その文章は「じとじと湿っぽくて、自己憐憫に浸りきり」、私も全く同感で実に痛快だった。「社会正義なんて、本当は欺瞞と真実の混合物でしかない」の指摘も鋭く、新聞の愚にもつかぬコラムより余程ためになる。

 辺見氏は昨年9月の「水の透視画法」で、「ファーストフード化するジャーナリズム」と題し、日本のメディアのファーストフード化を危惧していた。「百年来はじめてという大変動が兆しているにもかかわらず」、「精神のイナーシア(慣性、惰性)が支配している」と言う。そして、「これまで自明と見なされてきた欧米的な価値概念の基本も、実は一部ではつとに疑われ始めている」と述べる。
 その欧米的価値概念を疑いもせず、さも自明と喧伝していたのこそ、辺見氏のようなジャーナリストではなかったのか?その半年前、EUが既に廃止した死刑制度を日本はまだ存続させていると書いていたものだ。

 社会の実相に迫るジャーリストに限らず、言論人は人倫など必要としない職業である。人倫と文才は別物であり、求められるのはよい記事や文学を書くことのみ。他人には人倫と反省を求める一方、自分自身は己のことだけ考えているのも結構。だが、独り善がりで感銘もない文章を書くようでは、文筆家として終わりなのだ。

 欧米的な価値概念の基本に、言論、表現、思想の自由がある。辺見氏はそれらも確かなものと思っているのだろうか。こちらも疑われ始めているかもしれず、その時言論人はどう対応するのだろう。大衆から離れた言論人など、大衆も見捨てる。特権化した言論人の受難など、庶民には所詮他人事。真摯な検証も怠り、その場しのぎの価値観と感性のみで書くなら、ジャーナリストではなくアジテーターであり、責任を負わない分ポピュリスト政治家より始末が悪い。

◆関連記事:「新聞記者の孤独感

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3 コメント

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お久し振りです。 (ユウスケ)
2009-02-17 00:39:10
 そんなこともありましたなぁ。(笑)

 辺見さんとやらの文章に関しては、こちらで紹介されたものしか存じ上げないのですが、まぁ、どこぞの総理大臣と同じように発言(の根幹)が二転三転しておるようですから、その場凌ぎで、ちょこっと気の利いた文句を並べておるだけなのでしょう。古舘氏の無意味かつ無駄に重苦しいニュース番組での発言のように言葉を小手先で弄んでいるだけ。(笑)

 私は何も「欺瞞」そのものを否定しようというのではないのですよ。品行方正さ、他者優先の自己犠牲など、人間的美徳と呼ばれる行いや発言などは、生命の本質からすればすべからく「欺瞞」なわけです。どの道、われわれは発情期の野良猫たちのように、自然に戻ることはできないのです。ならば、むしろ、欺瞞を貫き通すということこそ、人間が人間的尊厳を守るということだと、私は考えています。

 けれど、どちらにもつけず(もしくは、つかず)、いたずらに生半可な正義を振りかざす輩の言動ほど、いかがわしいものはありませんね。そして、さも自分たちの中途半端な正義が真実であるかのように、吹聴する輩の正義ほど厄介なものはありません。なんと言っても、彼らに「悪意」はないのでしょうから。

 素直で真直ぐ清廉な言葉を並べ立てると
返信する
長すぎた!?(笑) (ユウスケ)
2009-02-17 00:49:23
※切れたみたいなので続きです。失礼しました。(笑)

 素直で真直ぐ清廉な言葉を並べ立てるというのは、一見すると甘美ですが、おっしゃる通り、実際には真実や正義から遠く隔たっています。かと言って、デモーニッシュな現実直視もできてはおらず、欺瞞としても二流、三流。

 真実は自ずから存在しうるが、欺瞞はわれわれの介在なしには存在しえない。どちらの態度を取るにしても、確固たる信念がなければなりません。
 ですから、辺見さんとやらは、小綺麗な服を着た犬儒主義者みたいなもんでしょうな、きっと。(笑)
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Re:お久し振りです (mugi)
2009-02-17 22:11:37
>ユウスケさん

貴方の前のコメントがお見事だったので、記事でも引用させて頂きました。今回も痛快な論評を有難うございます。

 wikiの辺見氏の経歴を見ると、1944年宮城県生まれで早大卒とあり、氏の年齢で地方から東京の私立名門大を卒業しているだけで、恵まれた育ちだったことが分ります。どこぞの総理大臣よりは落ちるにせよ、要するにお坊ちゃん育ち。折りしも学生運動の盛んな時代、「実存」の言葉から当時流行っていたサルトルでも引用したのでしょう。格好付けたいお坊ちゃんの手段。

 氏は共同通信社のエース記者だったそうですが、かつてはこの手の論調がもてはやされたのでしょうね。見る者を暗くさせる陰気くさい文体など、もはや時代遅れとなっているのに、己の記事はスローフードと勘違いしている独善性。当人に言わせれば、「資本の運動へのメディア側による未だかつてなく従順な投降」「世の中の狂(たぶ)れ心と暴力に闘わずして屈した」、つまり、活字媒体が衰退したのは世の中が悪い、ということ。メディアなど資本がなければ潰れる他ないのに、何を思い違いしているのやら。反省皆無の言論人の典型です。

 欺瞞と偽善は人間社会で必要な作法であり、犬儒主義を貫くにせよ、半端では鼻持ちならないでしょう。確固たる信念もない者は、絶えず自分を持ち上げるメディアに甘えきって「正論」を叫ぶ。
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