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日本以外の村八分

2006-09-05 21:13:29 | 歴史諸随想
 日本史の教科書では封建時代の因習として、必ず挙げるのが村八分だ。私もこの因習を知った時は、その非人道性に強い憤りを覚えた。現代でも有識者はこの悪習が日本に残っているとお叱りされる。だが、世界の「村八分」は、日本のように火事と葬式の二分は例外とするような手ぬるいものではなく、文字通りの絶交となるのだ。

 現代でもイスラム圏には“名誉の殺人” という恐るべき因習がある。家族の名誉を汚したと見られた女を親兄弟が殺害するものだ。何故これ程惨いことが行われている背景には、不始末をしでかした家族を生かしておけば、その家族は文字通り村八分ならぬ村十分になり、村では生きられない。神の掟に背いた家族は村に住めず、都市に移住する他ないのだ。自らが“名誉の殺人”の被害者だった女性の『生きながら火に焼かれて』の本には、不義を犯したと思われた女の兄が妹の首を切り落とし、首を持って村中に見せ回った話もあるが、一家の名誉を保つための行為なのが分かる。

 インドにも「村八分」的な習慣が見られるが、これまた日本よりも苛酷だ。女盗賊プーランもこの村八分を体験しているが、その理由は婚家から追い出されたからであり、ふしだらな女と見なされた彼女は盗みの濡れ衣や井戸を使わせてもらえないといった迫害を受ける。
 インドで最も厳しいのは「村八分」ならぬ「カースト十分」というか、カースト追放である。自分が属するカーストから追放されると、保護も受けられず、死亡しても葬儀さえされないのだ。これは同カースト間の相互扶助を基盤とするカースト制社会では生存権さえ危ぶまれるほどのものだ。この決定を下すのが各カーストの長老であり、何も不始末を働いた者ばかりではなく、己の権力維持、反対者封じ込めのため、伝家の宝刀を駆使することもある。

 インドのカースト追放はヒンドゥーばかりか、ムスリム、シク、キリスト教徒までも行うことがある。外来民族であるゾロアスター教徒のパールシーですら、長老がこの決定を下す時もあった。カースト追放となったパールシーはもはやその土地に住めず、どこか他所の地で野垂れ死にしても葬儀も出してもらえない。団結力と相互扶助精神の強さでは定評のあるパールシーだが、仲間同士の掟を破った者への制裁は苛烈だ。訪印した西欧人の記録にも、自分たちで石打や溺死撲殺、時には毒殺といった死刑執行さえ秘密裡に行っていたことが見える。「このような重罪は、彼らの間ではほとんど起こらない」と記録には付け加えられているが、処刑に値する重罪には私通や姦通も含まれていた。江戸時代の日本も姦通は死刑対象だったが、我国の村八分など何と甘っちょろいことか!

 以上のような例を挙げると、第三世界の特殊事情と思われる方も少なくないだろう。だが、欧米も遠くない時代に魔女狩りが横行していたのを、西欧人は無視しがちだ。我国の“出羽の守”が最も引き合いにしたがるアメリカも、魔女狩りと無縁ではない。アジア、アフリカの女性の地位の低さを槍玉に挙げる欧米知識人は、早々に己の過去を忘れているようだが。
 アメリカの文学に『緋文字』(著者ナサニエル・ホーソーン)という物語があり、映画化(邦題スカーレット・レター)もされている。私は映画は未見だが、本を読んだ時はいかに時代設定が17世紀でも惨いと感じた。不義の子を身ごもった女主人公は、牢獄の前の広場のさらし台に三時間立ったのち、生涯を通じて、“Adultery”―姦通を意味する“A”の文字を縫い付けた服を身に付けなければならない刑を受けたのだから。この“A”の文字も目立つように緋色と定められ、緋文字の題もここから来ている。文字を縫い付けた服の着用を義務付けられるとは、ナチスドイツ下のユダヤ人への黄色い「ダビデの星」強制を髣髴させる。
 アメリカは20世紀になっても、禁酒法や赤狩りを行った国でもあるのを、忘れるべきではない。

 こうして日本以外の「村八分」を並べてみると、いかに他国では処罰が凄まじいか、知れるだろう。村八分をもって我国の後進性を指摘したがる学者さんたちの意見が的外れなのか、分かっていただけたら幸いである。

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4 コメント

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似た記事見た記憶をたどったら (岩手の田舎人)
2006-09-10 02:06:10
ここでした。

日本の歴史や文化を愛する方のブログです。

http://wanokokoro.seesaa.net/article/16858849.html



“出羽の神”やら、過去の日本を非文明・野蛮といった視点で語る”偉そうな人々”は心が貧しいなぁと感じる今日この頃。

もし、そんな教師に教えられたりしたら青少年は確実にグレますね。(笑
他にもありましたか! (mugi)
2006-09-10 21:32:47
>岩手の田舎人さん

とても楽しくためになるブログの紹介をありがとうございました!このようなブログもあったのですね。

この方も私と表現は異なっても、“出羽の神”たちの日本の村八分への的外れな視点に反論されていたのは喜ばしい限りです。



私がインド、中東史に関心を持ったのも、生来のへそ曲がりばかりではなく、やたら欧米を讃える“出羽の神”の視点にうんざりさせられていたからです。私の学校時代の教師もその類でしたが、幸い父が本好き歴史好きだったので、影響をあまり受けませんでした。



“出羽の神”とは、結局日本も欧米も理解できない連中です。心よりも知性の方が貧しい人々でしょう。
コメントありがとうございました (rino)
2007-05-21 22:40:36
こちらにTB頂いたようですね?
えと・・私は歴史等に無知な故、ここでのコメントは少々抵抗がありますが・・

mugiさんは悪に対する厳罰、村八分は肯定されていらっしゃるのかしら?
私は何かと何かを比べて何が優れているという思いはなく、私は私の思いを持っています。
だからmugiさんはmugiさんの思いのままでよろしいと思いますよ。
そもそも悪と善なんてもの自体、個人の判断で決めることでしょう(^^)
ちなみに私は「死」を悪だとは思っていません。
これこそマイノリティー?(爆)
TB&コメントありがとうございました (mugi)
2007-05-22 21:14:25
>rinoさん
理不尽な村八分は時に人間集団を維持する上で、効果を発揮してきた面があるのは確かです。不条理の極みですが、人間そのものが不条理な生き物です。私が肯定しようが否定しようが、この先も人間社会は民族宗教を問わず“村八分”が繰り返されるでしょう。

>>悪と善なんてもの自体、個人の判断で決めることでしょう
必ずしもそうとは言えないでしょう。もし、個人の判断だけで善悪を任せられるなら、村八分や虐殺も善の判断がOKとなりますね(笑)。
「人間」の言葉どおり、人は人の間でしか生きられない存在ですから。

「死」を悪と思わないのは別に珍しくもありませんよ。自爆テロも彼らからすれば、天国に行ける「殉教」、つまり善となる。
そのような類は、人間性に狭量、無知な者で、理想主義に騙されやすいタイプが大半。生きている限り避けられない「死」を善悪で判断すること自体、ナンセンスだと思います。

ちなみに私もマザーテレサの映画は見ています。あの映画は彼女の伝記映画でバチカンお墨付きですから、美化された面はあるでしょう。http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/ba9d876c28e6023a9020a669fff98a1e
マザーに批判的な在日ドイツ人のHPを発見したのは、その後でした。