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ハレム―女官と宦官たちの世界 その二

2022-10-14 21:30:31 | 読書/中東史

その一の続き
 本書で最も興味深かったのは、第六章「内廷の住民たち」の三部「啞者静謐の担い手」。内廷とはスルタンの生活の場で、ここの住民はスルタン、スルタンの身の回りの世話をする小姓、小姓を監督する白人宦官に加え、小人や啞者もいた。基本的にはスルタンが私的生活を送る場が内廷であり、そのため内廷も広義では「ハレム」と呼ばれることがあるそうだ。

「古今東西の王宮で小人が活躍していることに比べて、啞者を抜擢して宮廷で用いたという王朝はまれである」(210頁)、と著者が述べているように、オスマン宮廷を訪れた西洋人は自国の宮廷では見られない啞者の存在に驚く。当初は偏見を抱いていたあるイギリス人は、彼らと交流したのち、その機知と洗練された知性を称賛したという。

 さらにオスマン宮廷では、啞者のみならず、スルタンと宮廷人たちも手話の技術を身に付けたそうだ。静謐なやり取りを可能にする手話は、威厳を保つ技術のひとつとされていたのだ。啞者の東洋と手話の利用は、オスマン宮廷の特徴であると言えるだろう、と著者はいう。オスマン宮廷に仕える啞者の場合は、生まれついてのものだったようで、機密保持のために舌を切り取られたのではなかったのか。
 啞者の多くは奴隷として購入されたと考えられていて、彼らの民族的出自は様々で、少数だが女性の啞者や小人もいたことが知られている。啞者が何時から登用されたのかはハッキリしないが、メフメト2世の宮廷では4名の啞者が働いていたことが記録に載っている。また、啞者を雇ったのはスルタンの宮廷だけではなく、スルタンに倣ったのか、地方総督も啞者を雇った例がある。

 啞者たちは手話で意思疎通を図っていた。そのため静謐を重んじる宮廷において、啞者は適役と見なされたのだ。啞者たちは簡単な意思疎通だけではなく、物語や宗教的な話題すらも手話により表現することが出来た。高度に発達した手話は、年上の啞者が若い啞者に教えることで、何代にもわたり受け継がれていたものだった。
 但し、手話そのものの具体的なやり方については伝わっていない。彼らが使う手話と、現代のトルコやアラブで使われている手話との関係も定かではないそうだ。

 手話の技術はスレイマン1世の時代に確立したという解釈もあり、この時代には啞者ではない他の宮廷の者たちも手話を用いることが奨励され、啞者は彼らに手話を教えた。こうして宮廷において、スルタンの周りの静けさは保たれた。スルタン自身もある程度手話を使いこなし、言葉を発することなく彼らに命令を下す。声を発することなく近習を使いこなすスルタンは、厳かな雰囲気をまとっていた。
 一方、17世紀前半に即位したムスタファ1世は精神を病んでいたためか、手話を覚えることが出来なかった。そのため彼は声を出して近習に命令を下したが、これはスルタンの威厳を損なうものと見なされたという。
 
 啞者には、もうひとつ重要な役割があり、それは処刑人としての責務だった。スレイマン1世は、後継者と目されていた王子ムスタファを突然処刑したが、この時啞者が処刑に関わったとされる。新スルタン即位時の兄弟殺しにおいて、スルタンの幼い弟たちに手を下したのも、やはり啞者だった。貴人の処刑を啞者が担ったのは、静謐を選ぶ必要性から選ばれたと考えられている。
 啞者の登用は19世紀になっても続き、オスマン帝国政府の中心である大宰相府で働く啞者も現れた。機密保持の観点から、彼らが適任と見なされたらしい。19世紀末から30年に亘り専制政治を布いたアブデュルハミト2世は、秘密の通信のために啞者や小人を用いたという。

 近習、処刑人問わず、一定の期間、職務を務めた啞者は望むならば、年金をもらって引退することが出来た。しかしそれを望まない者たちは、そのまま宮廷に残ることもあったようだ。中には不適切な振る舞いが元で、地方に流刑になった啞者もいた。
 こうして啞者や小人はオスマン帝国末期まで、宮廷における役割を果たし続けた。現代の障碍者雇用や福祉を先取りしていたと取れなくもないが、処刑人としての重要な責務もあったので、やはりハレムの世界の住民だったのだ。

 ハレムの他の職種と同じく、啞者の間にも厳格な階級が存在していた。ハレムには啞者の妻妾もいたというが、彼女らについてはあまりよく分かっていないようだ。
 それにしても、啞者を積極的に抜擢、宮廷で用いたオスマン帝国は異色だ。文化圏を問わず、障碍者への差別や偏見が当たり前だった前近代から啞者が宮廷で職を得ていたのは改めて驚く。
その三に続く

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