トーキング・マイノリティ

読書、歴史、映画の話を主に書き綴る電子随想

個を認めない社会

2010-01-27 21:17:44 | 世相(日本)
 よく日本は個を認めない社会と言われる。確かに島国という地政学的な環境もあり、皆に歩調を合わせるという横並び志向が日本人に異様に強いのは否めず、スタンドプレーよりも控え目が求められる。その点では確かに日本は「個を認めない社会」だが、これは日本に特異なものだろうか。そもそも、個を認める社会など世界全般からすれば、欧米のごく一部に過ぎないのではないか?

 日本社会の集団性や没個性を非難する文化人は、殆どと言ってよいほど比較対象は欧米、殊に後者なのだ。日米比較文化論を試みるのは結構だが、アメリカは歴史の極めて浅い移民国家であり、伝統社会のしがらみも薄いという、むしろ世界では稀なケースである。しかも、キリスト教国家で、根本的に国家原理も違う。比較対象として取り上げるなら、欧州の方が相応しいと私は思う。
 欧州でも西欧と東欧、北欧と南欧では、同じ白人のキリスト教国とは思えないほど社会や文化面も異なっており、欧州全体が個を認める社会なのか、疑問も湧いてくる。欧米生活皆無の私だが、あの自己主張の強そうなイタリア人もイタリア映画を見る限り、結構家父長制でコネ社会に感じられる。

 平成11(1999)4月、イタリア在住の作家・塩野七生氏は読者との夕食会で、実に面白いことを語っていたので、一部紹介したい。
女の子が「恋愛すると自分の個性が失われるからイヤ」というでしょう。私は男と恋愛して失われるような個性だったら、個性じゃないと思います。「死んで生きる」という言葉がありますが、男女関係もそうです。ほんと言うと、私はセックスの冥利というのはこれじゃないかと思っています。女性が個性を大切にすると言い続ける限り個性は貧弱になるばかり。ちょっと喋りすぎたかしら(笑)。

 昨年、拙ブログに「どこでも村社会」のタイトルでのコメントがあり、海外生活の長いブロガー「ブルガリア研究室」氏は欧米の個人主義を次のように述べられている。このようなことはネットをしてなければ、日本在住の田舎モノには分かりえなかった。
「欧米は個人主義と言うが、それは逆に言えば、個人対個人として、濃厚につきあっていなければ、ただの他人であり、なんら好意を示してはもらえない」と言うことなので、「社交、つきあい」を軽視してはいけない。それに欧米の方が、個人的なコネが効果を発揮することが、日本社会より多い、ということ。
 キリスト教の宗派も重要で、どの教会・会派に所属していて、教会の福祉活動にもどの程度参加しているか、などまでが上司によってチェックされている場合もある…


 その「ブルガリア研究室」に先日、海外在住を自称する人から興味深いコメントがあり、以下はその一部引用。
-「自分で考えたり、意見を発表するのを禁じられて育った」と感じています。また自己表現をすると、村八分になっていじめられるので、極力kyにならないよう、常に迎合姿勢を保たなければならない、というのが生育過程でも実際の社会生活でも求められて来たと感じています。羊の群れに埋没して生きるよう育てられているので…

 件のコメンターがどのような生い立ちをしてきたのか不明なので憶測になるが、これは周囲の環境だけでなく、当人の性格もかなり反映されていると私には思える。村八分への恐怖から周囲への迎合姿勢を続け、それが社会生活への強迫観念として根付いてしまったような。常に迎合姿勢を保ったり、羊の群れに埋没して生きるのもまたある種の“個”でもあるが、それを選んだのは本人なのだ。組織において必ずしも常に迎合しない者もいるし、面従腹背する人もいる。
 日本社会は若者を型にはめ過ぎる、型にはまらない者を排除すると言う人もいる。しかし、若者を勝手に放任させていたり、或いは手厚く面倒を見る国など、まずないのではないか。改革者や宗教の開祖も従来の型から外れた者だが、彼らもまた苦難や迫害は避けられない。羊の群れを率いる者は極めて一部であり、大半の凡人は群れの一部に過ぎないのだ。

 かつて進歩的文化人達が挙って讃えた共産圏が、いかに個を認めない社会だったのか、現代ではとうに分かっている。インド、中東世界は自己主張が衣を着て歩いている社会だが、同時にカーストや血族・部族絶対社会であり、己の属する集団から離れた自由な意見や行動をすることは極めて難しい。日本の言論人の間で何故か評判のよい米国大統領ケネディは、就任演説で国民にこう語っている。「祖国があなたに何をしてくれるかを尋ねてはなりません、あなたが祖国のために何をできるか考えて欲しい」。つまり、国に期待せず、国に貢献せよと呼びかけていたのだ。

 気のせいか、日本社会は個を認めないと批判する者ほど、個性が薄いように思える。周囲に己の“個”を提示して、認めさせる尽力もせず、その気概もない者による、周囲への責任転嫁の口実か、と書けば意地悪か。

◆関連記事:「村社会
 「日本以外の村八分

よろしかったら、クリックお願いします
   にほんブログ村 歴史ブログへ

最新の画像もっと見る

39 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
だって、「個」を認めないのは…… (のらくろ)
2010-01-27 22:23:47
>日本社会は個を認めないと批判する者ほど、個性が薄いように思える。周囲に己の“個”を提示して、認めさせる尽力もせず、その気概もない者による、周囲への責任転嫁の口実か、と書けば意地悪か。

意地悪どころか全くそのとおりでしょう。「個を認めないと批判する者」がどこでそれを発表してきたか、新聞、テレビなどのマスメディアなどではないですか。新聞社への寄稿が記事になる、テレビ出演できるコメンテーターになれるということは、その新聞社のデスクやテレビ局のプロデューサーに迎合しなければならないことぐらい、もうmugiさんはもちろん、ブログ寄生虫の私ですらお見通し。かつては本音トーク番組だった「朝まで生テレビ」ですら、20年をへて田原やプロデューサーに同調した意見しか取り上げられない「シナリオ番組」へと堕落してしまった。

いまどきテレビ、特に生番組でない収録もので出演者がその人の個性を発揮して本音トークしているなどとは思わない方がいい。特に東京キー局の番組については。某宗教団体や某芸能事務所が牛耳っている現状からすれば、それらに非難がましい発言などできるわけがないし、よしんばそういう発言をする豪気な出演者がいても、編集でカットされるのは自明の理である。
個性というよりおしゃべり (室長)
2010-01-28 10:20:22
mugiさん、海外在住年月通算25年の小生の感じで言うと、日本人は没個性というより、やはりおしゃべり下手が多い、というのが結論です。しゃべることにこそ、その人の価値が分かると考える西欧社会との違いもあるのでしょうが、ともかく日本人は、学校でも、意見を述べるとか、自分の議論を皆にぶつけていく、という習慣が薄いのが欠点と思う。

 外国人も、必ずしも個性尊重、個人主義という意味で我々と大きく違うようには見えないけど、社交という場での「おしゃべり」に、どの程度の意義を認め、いかに振る舞うか、という点において、若干差異があると思う。おしゃべりこそは、人生の楽しみとして、友人、家族との会話に、一番の意義を認める、この故に食事を共にする友人達との「社交」の場と、その場における気の利いた「おしゃべり」ができるかどうかが、重要視される。
 おしゃべりで主導権を取ったり、時局を見事に分析して見せたり、何しろ皆を感動させうる議論を展開できてこそ、皆から尊敬されるのが、西欧社会だと思う。衣食住足りてその後は、会話を楽しむ!

 例えば伝統社会のアイルランドでは、各人は、どこそこの村の○○家の三男坊、などという記号がまず周囲で認知されます。従って、同じコミュニティー(教会を同じくする村人)の人が、同じパブに集まって、酒を飲みつつ議論するときに、その議論の中で発言しても、年長者から「○○家の○○坊や」としてたしなめられ、その議論を一言の下で却下されることは、ありうる。村社会では、家柄で序列が決まっているから。
 それでも、三男坊殿は、必ずしも黙るわけでもないし、次の日も議論を蒸し返すかも知れない。とはいえ、また長老で、名家の別の人間と議論しても、相変わらず周囲から、まあ出しゃばるなよ、という扱いを受けたり。
 ともかく、田舎では序列が決まってはいるけど、必ずしも黙る必要もないし、議論し、喧嘩しつつも、結構毎晩仲良くわいわい!
 まあ、こんな感じでしょうか。

 日本でも同じで、頭さえ良ければ、村社会の中で徐々に頭角を現していけると思う。とはいえ、昔からの家柄がものを言う場面も多い?現代社会が進展する中で過去の家柄に伴う、金銭的格差も、社会的権威も弱まりつつあるし、下々だった昔の階層も、教育のおかげで頭脳とかでも上の階層と対等に渡り合える時代となってきて、家柄が悪いから黙る、という時代でもなくなった。英国でも、アイルランドでも、ますますそういう傾向にあると思う。

 他方で、中東とか、東欧のジプシー社会では、部族長的な人が、富も権力もほぼ独占しているので、部族長に従順に振る舞わなければ、仲間内から追放され、明日から食うにも困る。羊のごとくおとなしくなるのは、そういう社会的背景だと思う。
 昔、シリア人(35歳ほど)が、「自分は今でも親父が世界で一番怖い。親父の前では、何時も冷や汗をかいている。未だに、すぐに殴られる」と、中東の家父長制社会のあり方を述べていました。幼児から、「怖い親父」が頭に刷り込まれていて、今でもパブロフの犬のごとく、親父からの折檻への恐怖で、父親の前では萎縮してしまうのだ!
 
 今の日本で、そういう昔の徒弟制度とか、家父長制時代のような、羊のごとく黙って従う必要性などは、あまりないと思うけど、そういえば、医師の世界では、一昔前まで、大学病院の教授などが、凄い権威で、部下の医師らが奴隷のごとく奉仕していたのだったかな?テレビドラマでそういうのがあったような。

 日本人が無口なのは、往々にして、自らが日頃から頭を使って考えて、自分の意見を持つという、そういう訓練をしないからだと思う。なぜ意見を持たないかというと、社交の場で発言して、皆を説得できるような議論をできるようになるべき、という、そういう社会的背景がそもそも無いからだと思う。もっと日本人は、おしゃべり好きになりましょう。

 そういえば、日本では、テレビのバラエティー番組が発達していて、島田紳助などが、時折凄く気の利いた発言をするけど、まあ社交の場での気の利いた議論とは、ああいう感じのものだと思う。やはり、自分自身の頭で、日頃から考えて、自らの思想をまとめていかないと、生きた言葉が生まれない。
ヘキサゴン効果 (室長)
2010-01-28 10:47:06
mugiさん、
 また少し経って思い出したことがあるので、連投で申し訳ないけど、続けさせていただきます。
 我々関西人(注:三重県人ですから、関西の「辺境」というか、最近は、名古屋圏の「辺境」なのですが)としては、ヘキサゴンというフジテレビの番組が楽しくてしょうがないです。
 なぜかというと、自ら「おしゃべり」を自認する島田紳助のおしゃべりに促されるように、出演する「おバカさん」芸人、芸能人達が、どんどんしゃべれるようになって、それなりに気の利いた発言をできるようになってきているから。そういう、お馬鹿さん芸能人の成長過程を見守れるというか、そういう感覚にさせてくれるのが、この番組の楽しみです。

 日本社会も、皆が自分自身に自信を持って、自らの言葉で「会話」に参加し、自分のおしゃべりで皆を楽しませようとか、自分もそれなりに自分の頭で考えたことをしゃべれば、まあまあ良い感じでしゃべれるではないか、と気づいて、おしゃべりになってくれれば、もっと陽気で明るい日本になると思う。

 左翼のおばちゃん党首だけが、何時も自信満々で、陽気な笑顔だったのは、何かおかしいとは思いませんか?保守の我々も、陽気に笑顔で暮らしましょう!!
個性と性格と文化 (ap_09)
2010-01-28 14:18:29
>「自分で考えたり、意見を発表するのを禁じられて育った」と感じています。・・・常に迎合姿勢を保たなければならない、というのが生育過程でも実際の社会生活でも求められて来たと感じています。

どうも。当エントリーの“肴”にあがった本人です。

>周囲の環境だけでなく、当人の性格もかなり反映されていると私には思える。

それはその通りですね。

私は女なものですから、物心ついたころから「理屈をいうんじゃない」ということで、学校の勉強はモノを覚えることはあっても、思考を鍛えるところじゃありませんし、男の人のように議論したり政治を論じたりする体験や場所もありませんでした(左翼の人は違うなんて知らなかったですね)。これに反発して、自論を雄弁に語れるように非常な理屈屋になろうと努力する女性がいるとしたら、意志が強いと言うより、かなりの変人なんじゃないでしょうか。

価値観とセットになった行動様式にチャレンジする場合というのは、
1. その価値観に疑問を抱かせるような体験をする
2. 異なる価値体系に触れる。
3. 青年期の脳内ホルモンのアンバランスが生み出す精神状態。
4. 高度な知性がその価値観には問題があると気づかせる。

というのが大体思いつくところですが、日本にいたころの私は1. に当てはまりますが、個人的にどのような行動を取ったかというと、これはやはり性格によるところが大きいようです。

強迫観念と言うのも確かにありますが、女性が社会的にしゃしゃり出るというのは、実際にはかなりのペナルティーが実在します。これは個性の問題ではなくて、私にとっては単なる差別、あるいはそれが望ましいこと、良いことだと、共同体の大多数のメンバーが信じて共有している考えなので、文化です。自分が文化の破壊者であるという自覚は、あまり愉快なことではありません。

私は医師ですが、医学部に行っては、「お前みたいなやつらのせいで有望な一人の男の将来が奪われる」と言われてみたり、兄弟は学生の時分から、各種医局や教室から青田買いよろしく引きてあまたでしたが、私はお声がかかるどころか、母校の半数くらいの医局は女は入局させないという状況でした。

これに反旗を翻すのに、人権運動家がやるような運動をするのも一つの手には違いないんですが、そんなことをして時間を潰すより、横からでも曲がってでも、どこかに逃げ道がないかと言うことを考えました。なにしろ訓練(教育)させてもらえる場がなければ話になりませんからね。

今、医局制度はなくなったそうですが、当時は入局させてくれる医局があったり、大学で教官になれても、女性はいろいろとイチャモンつけられてやめさせられましたよ。他にも差別的なことに対して正面切ってさからって玉砕しちゃう先輩の女医などいろんな例を見てますから、同じ轍は踏むまいと思った私は、出る釘と思われないよう、しかし自分の有能さを証明すればいいんだと、どうやって羊の群れの中を上手に泳ぐか腐心する毎日でした。

たまたまアメリカ人の夫と知り合い、仕事はいくら頑張っても都合よく利用されるだけで、自分の生きている間には本流に加えてもらえる機会は来ないと悟り、ある時点で見切りをつけて日本を出て行きました。

偶然にも私の義母も日本人なんですが、日本女性らしく正面切って物を言わなかったときに、米国生まれである義兄姉が“Mom is manipulative.”と言うのを、非常に悲しい思いで聞いたことがあります。欧米の価値観では「悪徳」というのはそういう意味です。

アメリカは過酷な社会ですが、私のような者にも惜しみなく機会を与えてくれる素晴らしい国、人生に夢を持つことができる国です。日本人は一人一人が粒ぞろいに優秀なのですから、より良い国に、皆が生き生きして暮らせる国になれるはずですし、なって欲しいです。

ところで、ネタにまでされてますが、mugiさんは文章が上手でらっしゃいますし、目の付けどころが他の人とは違うので、ここまで言われても愛読しちゃう私は、かなりのマゾなんでしょうかね?
塩野七生氏の『死んで生きる』までには、まだまだのようですが、旦那に聞いてみます
はじめまして (伝次郎)
2010-01-28 17:01:38
欧米の人は個人個人のコミニュケーションや、宗教を通して自我が強くなっていくんだろうと思いました。
日本人の場合は、私が思うに人と人の間に歴史(共同体、先祖、ふるさと、国家など)がありその下支えのおかげで、個人は未熟でもやっていけるのだと思います。
しかし、敗戦、GHQの占領政策によりその土台が壊されたため、個人の弱さ、脆さが出て右往左往してるうちにアメリカ型の個性に飛び付く過ちをしたと思います。
小泉八雲は日本を「死者の国」といいましたこれは、今生きている人だけが生きているのではなく先祖や歴史も一緒に生きている、と言うことではないでしょうか?
お邪魔しました。
Re:だって、「個」を認めないのは…… (mugi)
2010-01-28 22:08:01
>のらくろ さん、

 私も以前は「朝まで生テレビ」を見ていましたが、見なくなってしまったのは何時の頃だったのやら。おそらく、本格的にネットをする前から疎遠になってきたような。スタジオに対座している一般参加者も、意図的に選ばれているのでしょうね。おそらく少なからぬ視聴者も、田原やプロデューサーによる本音トーク番組と銘打った“ヤラセ”と見ているのかも。

 テレビの生番組でも、予めリハーサルがあって本番はどう報道するのか、プランを作っているのかもしれませんよ。特にスポンサーのご意向には逆らえず、大口広告企業なら不祥事も報じないでしょう。コメンテイターの顔ぶれも各局似たようなものだし、同じ人物が何度も出たりする。不都合な発言なら編集でいくらでもカットできるし、「シナリオ番組」でないトークショーなど、ありえないのではないでしょうか。
「日本社会は個を認めない」と大上段に言うテレビ関係者ほど、他人の個性を認めないのは皮肉というか…
Re:個性というよりおしゃべり (mugi)
2010-01-28 22:11:13
>室長さん、

 日本人にもお喋りな人はいますが、どうも日本の“おしゃべり”と西欧のそれは違うようですね。特に日本の場合、男のおしゃべりを卑しむ傾向が強いような。かなり前の某ビールのCMで「男は黙って○○ビール」なんてものが流行りました。そのCMに出演していたのが三船敏郎。高倉健もそうですが、三船も寡黙で男らしいイメージで人気がありました。もっとも、おしゃべりなジョン・ウェインも考えられませんけど。

 今は違いますが、かつて日本の食卓では「黙って食べろ」というのが普通だったのではないでしょうか?食事中にお喋りすると、親父に怒られる…なんて家庭も少なくなかったはず。家族との会話も重視されたとはとても思えないし、食卓の場でもこの有様なら、社交が育つのは絶望的です。
 学校でも生徒が教師に積極的に質問することは殆どないし、逆に質問するような生徒を教師は煩がるかもしれない。そのような生徒はクラスメートからも揶揄されることもあり、それに負けずに質問する生徒はかなり少なく、大半は授業中に黙っている。

 アイルランド人のおしゃべりは面白いですね。以前、ジャック・ヒギンズの小説を読んだ時、イギリス人がアイルランド人に、「そのアイルランド人特有の多弁を止めてくれ」という台詞がありました。U2が来日した際も、「イギリス人はケチだから言葉も出し惜しみするけど、アイルランド人は気前が良いから」と、予定時間をオーバーしてインタビューに答えていたのです。同じ島国でもアイルランドとイギリスはかなり違うようですね。

 日本の医師を描いたテレビドラマとは、もしかすると「白い巨塔」ではないでしょうか?とかく大学病院の教授が絶対、若い見習いなど逆らうのは考えられない世界でしたね。教授のご意向で出世が決まり、結婚相手まで決められる。
 昔は日本でも親父が子供を殴るのは当り前だったし、「地震、雷、火事、親父」の諺もありました。それでも、日本の家父長制は中東に比べれば、その権威はとても及ばない。中東では親父ばかりか、母親も子供を思い切り叩きます。もちろん家庭にもよりけりで、妻や娘には毎日手を上げていた親父が、1人息子だけは大事にしていた家もあります。

 私はバラエティー番組は滅多に見たことがありませんが、心なしか司会者に逆らう意見が少ないような。島田紳助のような司会者に迎合する発言が多いように思え、社交的で気の利いた議論が成り立ちにくいように感じられました。これも芸能界の上下関係のため?
Re:ヘキサゴン効果 (mugi)
2010-01-28 22:12:30
>室長さん、

 関西人と違い、やはり東北人はクラい傾向がありますね。関西の芸人が東北に来たがらないのも、受けが悪いからだとか。実際、私もある大阪の芸能人の芝居で、あまり面白くないと感じたし、その芸能人も不満気味でこう言っていました。「なんや、仙台のおばちゃん、笑うのはたった5秒だけ?大阪のおばちゃんなど、20秒も笑いこけていたのに…」
 ひょっとすると、関東と関西の文化の違いでしょうか?個人的に上方漫才は面白いと思いませんが、東京の寄席は好みです。東北人は東京文化への憧れが強いのです。申し訳ありませんが東京が第一、関西を軽視する傾向があるのです。

 左翼のおばちゃん党首が自信満々で陽気な笑顔なのも、責任もなくアタマを使ってないからですよ。無茶苦茶な詭弁で世渡りしてきたへの自信もあるはず。この党の看板“娘”も、大阪出身でしたね。元ピースボート代表で彼氏は赤軍派。陳腐なスローガンやドグマを繰り返すのは安易ですが、精神的に楽なのです。それに対し、考える保守はやはり陽気から遠ざかりがちになる。
 しかし、暗い顔で悲観していても何も変わらないので、笑う角に福来る、顔で笑って心で泣いて、の精神で暮らしたいものです。
Re:個性と性格と文化 (mugi)
2010-01-28 22:15:00
>ap_09さん、

 あなたは女医だったのですか!私はてっきり男で、以前、海外ニート君を擁護されていたので、実は同類かと疑っていたのです。ハンドルを複数使っているとも書かれていたので、ますますその疑いを強くしました。男社会で苦労するのは女医に限りません。女として最高の技能と地位を持つ職に就いておられるなら、何処でも通用すると一般人はイメージしますが、女医ならではの苦労の実態は知りませんでした。

 ただ、女も色々ですから、一部にせよ議論したり自論を雄弁に語る類の“変人”もいるのは確か。記事にもした塩野七生氏は文科系ですが、まさにそのタイプであり、塩野氏は自分の読者を「アペルタ」、つまり、少し外れたところがある人だと語っていました。現に私など「アペルタ」というより、かなり外れたところがあると思います。
 そもそも、インド、中東のような普通の日本人が無関心なところに興味を示す者は、私も含めかなり変人ですよ。だから、他人の目など気にしてはやっていけない。変わり者扱いに鍛えられるため、我も強くなってくる。

 あなたが先に海外ニート君のファンだとコメントされていたので、もしかすると海外生活が長くて、“沈没”してしまった人ではないか…と想像していたのです。そのようなタイプは日本への不平不満を並べつつ、いざとなると日本大使館に駆け込んだり、病気になれば成田から日本の病院に直行したりする。タイにはその類の日本人が多いそうですが、途上国の方が「人間らしい暮らしをしている」と現地の生活を絶賛するくせに、いざとなれば日本の医療福祉にすがる。
 ずっと日本暮らしをしている私からすれば、日本と途上国とのよいとこ取りの優雅な生活としか見えないし、どちらの国にも貢献せず、渡り鳥のような暮らしをしているとしか思えない。途上国で技術支援をしている日本人は尊敬しますが、“沈没”者には侮蔑しか覚えません。保険料も納めているか疑問な者に、日本の医療福祉サービスを受けさせるのも不愉快です。

 私は医者になれるような頭脳は持ち合わせてない分、逆に気楽だったかもしれませんね。日本の医療体制での女医さんの苦労は想像も出来なかったし、あなたが何故日本から見切りをつけて出て行った理由がやっと分かりました。
 私は口も性格も悪い群れの羊の一匹ゆえ、この記事はさぞ不快だったでしょう。日本から出て行った背景も知らず、大変失礼致しました。 こんな偏屈ブログに見切りを付けられても、文句は言えませんし、拙ブログを存分に“肴”にして下さっても結構です。

 それにしても、あなたのお義母様も日本人だったとは、アメリカも広いようで狭いのやら。私は米国の習慣は無知ですが、義兄姉の“Mom is manipulative.”はよく分かりません。人を操るなら、アングロサクソン、殊に英国人が長けているように思えるのですが…
Re:はじめまして (mugi)
2010-01-28 22:20:24
>伝次郎さん、はじめまして。コメントを有難うございました。

 人間は環境によって左右される生き物であり、長らく異民族、異教徒と付き合いの薄かった辺境の島国という環境こそが、日本人の精神文化に影響を与えたのは確かでしょう。日本のような国なら、個人は集団の中の一員であり、自己主張をする必要もなかった。

 戦前まではそれでよかったのですが、仰るとおり、戦後はその土台が否定、破壊されたゆえ、個人主義なるものをよく理解しないうちに早急に真似をして飛びついたのは否めません。文化背景も異なる土壌に西欧型の個人主義を持ってきても、巧くいかないのは確かです。ちょうど21世紀の米国が、中東に民主主義を広めようとしても失敗しているように。
 それでも、戦前型の家族制度に今更戻るのは無理なので、アメリカ型個人主義でもない、新たな日本の指針が求められます。