「現代(20世紀)の聖女」と謳われたマザー・テレサは、その奉仕活動でキリスト教嫌いの異教徒からも敬意を払われている。キリスト教信者数が人口の1%そこそこにも係らず、日本のマスコミがこの修道女や前ローマ法王ヨハネパウロ2世に溢れるほどの好意的報道をするのは、異様でもある。私も以前は臨終の貧者に奉仕する彼女の姿勢は見事だと思った。だが、在日ドイツ人ハウプト・ホルガーさんはHPで「マザー・テレサ、スーパー物乞い」と、痛烈に批判した記事を書いている。
キリスト教会を激しく非難するホルガーさんは、マザー・テレサにも容赦しない。「マザー・テレサは偉くない。教会の中の犯罪者の一人に過ぎない」 と一刀両断。彼女に膨大な寄付した者にハイチの独裁者デュヴァリエや、同じくアルバニアの独裁者エンヴェル・ホジャもおり、大口寄付者である彼らを支持し ていたという。詐欺を働いた米国の銀行頭取チャールス・キートンも125万ドルをマザー・テレサに寄付し、彼を「グッド・クリスチャン」と擁護する始末。 もちろん彼女は騙された小口預金者に金を返すことはしなかった。
私の父は役所で用地交渉の仕事をした事があるが、用地売買に応じない難 物を「1.後家、2.坊主、3.先生」と呼んでいた。先生は屁理屈をこね、後家は女特有の頑なさでとかく理が通じない。坊主は寄付されるのに慣れているの で、自ら寄付をすることに大変苦痛を感じるらしい。聖職者が頂き物を絶対帰さないのは、洋の東西変わりないようだ。
特に私が興味深いと感じたのは、ダイアナ妃とチャールス皇太子との離婚成立時、「ダイアナの結婚は幸せではなかったからよかった」と述べた点だ。マザー・テレサが常に妊娠中絶、離婚はもちろん婚前交渉まで批判的だったにも係らず、神の前で誓った結婚を破ったダイアナの行為は「よかった」で済ませている。来日時彼女は日本における妊娠中絶を厳しく非難し、「物は豊かでも、心が貧しい国」とこき下ろしてから出国している。もし、ダイアナが妊娠中絶をしていても、「この妊娠は幸せではないからよかった」と擁護しただろう。
ホルガーさんは「貧しい者の足を洗う代わりに、セレブのブーツにキスというところか」と皮肉っているが、大口寄付者には原理原則をいとも簡単に曲げる宗教人の本性を見た思いだ。
いかにいかがわしい人物が寄付したにせよ、そのカネを有効に使うなら問題はない。だが、マザー・テレサは「私は120ヶ国に修道院を設立した」と豪語する 一方、彼女のカルカッタの施設は荒れ果てたままだった。彼女の施設ではテレビ視聴さえも禁じられていたから、まるで日本の刑務所と同じレベルだ。
さらに施設に医療品が寄付されても、人間が苦難を味わってこそ罪が清められるという中世並みのキリスト教思想から、薬や鎮痛剤には批判的で、病人にそれら の薬を与えなかったという。ここに至っては日本の刑務所の方が人道的だ!マザー・テレサ自身は病気になった時、一流の専門家医師に薬や鎮痛剤をたっぷり 使った治療を受けている。先ず隗より始めよ、の諺には無縁の人物だったようだ。
ホルガーさんの結論は実に鋭い。
「神を信じる人にとっては神や宗教が常に人間より優先され、信者は他人に良い事をしても、それは自分の信仰を広げ、神を喜ばせようとするための行為に他ならない。マザー・テレサの行為は突き詰めれば、イスラム教のテロリストの動機と同じく天国へ行くための点稼ぎなのだ。それは無神論の私が記事を書く行為とは異なり、最も利己的な行為である」
とかく日本人はボランティア活動を行う外国人を疑いもせず聖人視する傾向がある。特にノーベル平和賞受賞者となればなおさらだ。だが、人気ブログ『マイネ・ザッヘ』さんの記事「軽くなるノーベル賞」はこの平和賞の実態を見事に暴いている。そして日本の音楽雑誌では「社会派バンド」とかなり称賛されるロックバンドU2のボノも、「ボノは偽善者か?」の記事では、母国に税を拠出させながら己は税金逃れに勤しんでいた事実が浮かび上がるのは面白い。私も昨年ボノを非難した「日本を食い物にするロックスターたち」という記事を書いているが、ますます軽蔑に値する有名人だと感じさせられた。
マスコミが大々的に取り上げる奉仕活動を行う著名人は、そのイメージを鵜呑みにしない方が賢明なのかもしれない。「公共への奉仕こそ、わが信条」と言ったのはアル・カポネだった。カポネは貧者への福祉活動もしており、それを好意的に報道したマスコミもあったという。
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とにかく思い込みの強い婆さんで 知人が日本人だと挨拶しても、 その顔立ちはインドの山岳民族だと ひとの話を聞かずにまくし立て、
面倒になり不承無承頷くと
ほら、私の目に狂いは無いととても得意げになった、 と。
さて、アル・カポネはギャングです。 しかし、マザーテレサみたいにたかりでは無いですし
カポネが勧進元となった無料給食により多くの人が餓死を免れました。
どちらが正しいか偉いかは私にわからない、 しかしカポネの方が犯罪や殺人を犯しても人間味がある気がします。
ヤソ坊主やシスター・修道女は立派というより視野が狭い 世間知らずが多いです。
乱文にて。草々
マザーテレサに会われた知人のお話は実に面白いですね。
インド人歴史家も「地球上のあらゆる人種の特徴が見て取れる」と書いていたように、インドは人種の見本市の国ですから、日本人と似た顔立ちの山岳民族がいても不思議はない。
ただ、このような類だと、不承無承頷くとますます増長しますよ。日本人の曖昧な態度では、反って付け込まれる危険性があります。
カトリック聖職者が視野が狭い独り善がりだけならまだしも、本来は己の宗教を押し付けるのが目的なのです。
私も在日ドイツ人のHPを見なければ、マスコミの礼賛報道に騙されたままだったでしょう。
確かに、布教などは天国へ行くための点稼ぎの一つになるかもしれません。けれども、その点稼ぎをするために、彼女がどれだけ苦労したか私たちには計り知れないのではないでしょうか。
ボランティア仲間が、活動後ホテルに戻る際、修道士が道端で寝転ぶ男性に話しかけているのを見たそうです。その男性の足は腐りかけていて蛆が這いまわっていました。それを見た修道士は、すぐさまその男性に何か言葉を告げ、急いで施設へと戻ったそうです。
翌日、寝ていた男性はいなくなっていました。
私は、恐らく施設へと運ばれたのではないかと思っています。
もし、道端の男性がこの修道士に声をかけられなかったとしたら、一体誰がこの男性に声をかけるでしょうか。
たとえ、点稼ぎの一つにしても、この男性は少しでも自分に対して気にかけてもらえ、嬉しいと感じるのではないでしょうか。ただ蛆に蝕まれていくのを待つ人生より、1人の人間として扱ってもらえる人生の方が良いと私は思います。
考え方は人それぞれですが、信仰がすべてではないことは信仰者が一番理解していると思います。
>>けれども、その点稼ぎをするために、彼女がどれだけ苦労したか私たちには計り知れないのではないでしょうか。
仰るとおりですが、その苦労する選択をしたのはマザーですし、その道を選んだからといえ、殊更敬意の念を求めるのは筋違いではないでしょうか?ま、クリスチャンからすれば神の御意志とでもなるのでしょうけど。
同様にあなたがボランティア活動をされたのは立派です。しかし、その体験を振りかざし、マザーや修道士の行動の賛辞を求めるのは、尊大以外の何者でもない。人は誰でも己の行為が認められるのを求める気持がありますが、あなたの仰ることは半ば賛辞の強制です。
あなたが引き合いにした件の男性ですが、その死は運命であり、その前に親切を施されたのもまた運命です。日本の諺にも「捨てる神あれば、拾う神あり」がありますね。宣教師たちはインドその他で善行を施すこともありましたが、同時に欧米植民地支配の尖兵的存在でもありました。
ちなみに私がキリスト教に不信を持つようになった原因は、子供時代の体験にあります。宣教する者全てがこの姿勢ではないでしょうけど、基本的にキリスト教のような一神教は全世界をキリスト教一色にする目的を持つのを、私は知らない訳ではありませんよ。イスラムも同じですが、だからこそ聖戦、十字軍のような「聖絶」をした過去をお忘れなきよう。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/49eebeb580b12b5758a6f8b9f150f664
日付が古いので返信が来ないかと思っていたのでとても嬉しいです。
私は、マザーの賛辞を求めたわけではありません。
私はキリスト教徒ではありませんし、宗教の類は信用していない無宗教者です。ただ、宗教にすがる人々の心境に興味がある一般人です。
mugiさんがおしゃるように、いまだに行われている世界各地の聖戦には反対です。存在の有無もわからない神を購う行動は、人それぞれの価値観の違いがあるので仕方のないことですが、それを人に強要するのは良くないと思います。
ただ、Unknown ((^-^)風顛老人爺)さんのマザーの行動については、本人の性格上の問題なのでそれを議論してもしょうがない気がします。
また、mugiさんが幼少期に体験されたことを私も体験したら、恐らく同じようにキリスト教に対して不信感を持つと思います。けれども、すべてのキリスト教徒がそのような人だとは思って欲しくありません。
ブログというものは、このページを見た全ての人に対して影響力があると私は思っています。ですから、個人の考え方は自由ですが、ただ非難を煽るだけでは終わらせたくなくコメントを残しました。
もし出来るのであれば、mugiさんに施設に行って頂き、どう感じたかを聞きたいです。
コメントありがとうございました。
>>もし出来るのであれば、mugiさんに施設に行って頂き、どう感じたかを聞きたいです。
やはり、これがあなたの本音だったのですね。
私はあなたと違い、2度もカルカッタ(現コルカタ)に行きボランティア活動をするほど、生活に余裕はありません。
ボランティアをするしないも本人の選択の自由であり、あなたがコルカタに行ったからといえ、他人にもそうしろと求めるのは狭量で傲慢な姿勢の典型です。体験を披露したい気持は分りますけど。
そして、施設で活動されたのなら、その時の思い出や画像を載せたブログを開設したら如何でしょう。リンクなし、匿名で他人のブログで発言するよりはるかに説得力がありますよ。
キリスト教に限らず他宗教も、様々な人がいます。しかし、キリスト教を信じない者は地獄に落ちる、というのが教義の基本。これはイスラムも同じであり、多神教は邪教ゆえ、邪教に囚われた魂を解放、真の信仰に導くのが教徒の務めなのです。
「タダより怖いものはない」と言いますが、路上生活者にタダで手を差し伸べるのは、無償の親切ばかりではない。彼らは親切を施されたので、信徒になろうとするでしょう。現に布教しないマザーは、上部から非難されていたとか。
風顛老人爺さんのマザー評に、「本人の性格上の問題」と仰いますが、このブログもまた私の「性格上の問題」があります。
「非難を煽るだけ」と見るのはご自由ですが、私は上に挙げた在日ドイツ人ホルガーさんのHPを見て、マザーに対する見方が変わり、この記事を書きました。それも認めたくないのなら、言論に対する抑圧であり、これはあなたの「性格上の問題」ですね。
マザー崇拝者にホルガーさんの指摘は不快でも事実であり、事実の提示を非難と混同するべきではありません。異論を排斥するのこそファシズムであり、これは聖戦に繋がる源です。宗教人は昔から言論の戒めを常としていたのもお忘れなく。
私がとても感銘したマザーの言葉をお返しします。
「インドに来るよりももっとも身近な近くの人を助けなさい。愛しなさい。家族、友人…」
突然の書き込み失礼いたします。
以前から、マザーテレサの施設でのボランティア経験について披露する知人たちの話に欺瞞を感じてしまう人間として、ブログを読ませて頂き、共感できる部分もあり、自分なりに納得できました。
「インドに来るよりももっとも身近な近くの人を助けなさい。愛しなさい。家族、友人…」
昔、この言葉を知って、マザーの施設には行かないでおこうと決めました。
そしてマザーのことを悪く言うひともいて何故かほっとしています。
そういう私はカトリック信者です。
考えるにマザーは良心あるシスターの面と、経営者としての狡猾な面と清濁併せ持ったすぐれたベンチャービジネスの先駆者のような方だったのでは?と思います。
経営者としては、施設に投資されるお金が汚かろうと、綺麗であろうとシスターにとっては関係なかったのかもしれません。
もしマザーが男としてこの世にうまれていたらやり手の起業家にでもなっていたのではないでしょうか?
利用できるものは悪人でもメディアでも何でも利用する。そういう意味では、スゴイ方なのかもしれません。
私はそういう部分にダライ・ラマ14世法王とも共通点があると思います。
以下のサイトをみてそう思いました。
http://kimuratakeshi.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_5425.html
今では、創世記を信じている信者やシスターはほとんどいないし、信じないと救われないと思っている人も少ないと思います。
聖書講座でもそういう思想を教えたり強制はしないんですよ。教会にもよりますが。
「信じるものは救われる」という教義は、そういうことにしとかないと信者が増えないから仕方ないんでしょうね。
商売と同じだと思います。
信じる人が「救われた」と思ったならそれはそれでカトリックの存在意義もあるのかななんて思います。
どんなものにもいい面悪い面があるし、信者としてはそういう矛盾に折り合いを付けていかないといけない面倒なことは確かにあります。
コメントを有難うございました。
カトリック信者のあなたにはあまり面白くない記事だったかもしれませんが、マザーよりとかく彼女を聖女と持ち上げ、負の面を報じない日本のマスコミに不快を感じていました。上記のホルガーさんに限らず欧米人の方がマザーに厳しい目を向け、批判も辞さない姿勢と好対照です。西欧には「宗教は賢い者は利用し、愚かな者は信じる」との諺もあるとか。
興味深いブログのご紹介、有難うございました!
エコノミストがマザーの手腕を豪腕と絶賛しているのは面白いですね。昔から宗教くらいビジネスになるものはありませんし、しかも巨大ビジネス。宗教と名のつくところにカネは不足しないので、それをいかに有効に活用するかで、教会での地位が決まるのではないでしょうか?
バチカンの枢機卿に取材した経験のある作家・塩野七生氏は彼らは並みの政治家より頭が切れると言っていますし、そうでもなければカトリックのトップにはなれないでしょう。もしマザーが男だったなら、枢機卿か法王になったかも。
以前私は「経済学者」という記事を書いてますが、現代の経済学者は昔の僧侶と同じと評した人物がいます。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/f3e5dc9eeee92179939dc07d502bf452
カトリックに限らず、信仰して心身ともに救われるなら結構なことだと思います。
ただ、ビジネス面を異様に重視すれば、教義の硬直化、組織の堕落と腐敗は免れませんよ。そうして潰れていく宗教も珍しくない。
どの宗教でも個人で信仰するのは問題ありませんが、 組織化されれば絶対世俗面に介入してくるのが宗教者なのです。
レスをありがとうございます。
たしかに!マザーは男だったら、すごい野心でもって法王にもなれたでしょう。
>ビジネス面を異様に重視すれば、教義の硬直化、組織の堕落と腐敗は免れませんよ。そうして潰れていく宗教も珍しくない。
>どの宗教でも個人で信仰するのは問題ありませんが、 組織化されれば絶対世俗面に介入してくるのが宗教者なのです。
これはおっしゃるとおりだと思います。
どんなに純粋な意志から始まった宗教でも組織が大きくなればそうなってしまいまうんですね。某学会みたいにカルト化する恐れもあります。カトリックもそういう歴史を繰り返しているし、神父による子供への性的虐待など問題が後を絶ちません。
中絶や、避妊の禁止など時代遅れなことも言っています。
自分は狂信的に神を信じて、負の面を見ない人間にはなりたくないので、あえて批判は受けながらクリスチャンのくせにと後ろ指をさされないように努力しようと思いました。
こちらこそ、再びのコメントを有難うございました。
カルトとそうでない宗教の明確な区別は無く、狂信と篤信の違いも微妙だと思います。
数ある中には不心得者の聖職者もいますが、自浄精神が働くか否かで、その宗教の歩みは違ってくるのではないでしょうか?絶対権力は絶対腐敗する、の諺どおりに不始末をした聖職者への批判が許されないようでは、中世並みでしょう。
以前、自称カトリック聖職者のブログで、「民主主義は人民操作」と現代の政治体制を認めない記事を書いていたのを見た時、ゾッとしました。もちろん、民主主義もある種の宗教と言えなくもないし、こちらも問題はありますが、宗教法がまかり通る社会はゴメンです。
法王庁の共産主義対策は見事でした。共産主義もまた宗教の一つですが、さすがカトリックは強かった。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/4c2ba0c2d025842540957fd079df2931