古代ローマを覇権国家と非難する人でも、現代まで続く法治システムを創造したのがローマ人なのは認めざるを得ない。何もローマ人に限らず他の民族にも法
はあったが、例えばユダヤ人の法とは質を全く異にする。ユダヤ民族の憲法ともいえるモーゼの十戒は、ユダヤの支配階級が議論して作ったものではない。神が
人間に与えた法であり、時代に合わなくなったという理由で人間如きが変えることは絶対許されない。これはシャリーア(イスラム聖法)も同じであり、姦通者を石打で処刑するのは現代でも合法となる。
一方ローマ人は法は人間の作なので、不適当となれば改めるのを当然視していた。法に人間を合わせるのがユダヤのやり方で、人間に法を合わせるのがローマ人だった。世界史のテストにも出る紀元前5世紀に制定されたローマの十二表法も、 改定に次ぐ改定で、二百年も過ぎないうちに十二条の三分の二が行方不明となる始末。ローマ人による法の改め方が、既成の法を改めるか否かの賛否を問うやり 方ではなく、必要と思われることを盛り込んだ新法を提出し、それが元老院で可決されれば、旧法の内でその新法に触れる部分のみが自動的に消滅するという方 法を採用していたからだ。おかげでローマは法律もやたら増えてしまうが、人間に法を合わせるのであれば、当然の帰結だった。
ローマの法には例えば「ユリウス農地法」のように、提案者の名が常に冠せられていた。そのためローマ法では誰が提案し成立させたかが明白だったのも面白い。
作家・塩野七生 氏は著書で人間の行為の正し手を、「宗教に求めたユダヤ人、哲学に求めたギリシア人、法に求めたローマ人」と実に的確な表現で表している。哲学はそれを理 解できる者が少ないという限界がある。宗教となれば、宗教を異にする者には受け入れられないし、異教徒は平等に扱われない。19世紀までイスラム圏では、 たとえ正当防衛でも異教徒がムリスムを殺害すれば、改宗でもしない限り死刑が適用されたし、逆にムスリムが異教徒を殺害してもさして罪にも問われず、賠償 金を払うにせよはした金だった。だから現代でもシャリーア導入となると、ナイジェリアのように非ムスリムと内戦状態となる。敬虔なムスリムにとって、日本 の平和憲法など罰当たりの多神教徒の法なので、豚肉同然の価値しかない。「神の法」により、自縄自縛に陥っていても、改正を叫ぶ者は神の敵となるのだ。
先週、河北新報で「ナショナリズム-私の視点」という特集が組まれた。8月29日付けで経済同友会終身幹事の品川正治 氏(東大法学部卒)が論文を載せていたが、その中にこんな文句があった。
「本来、平和憲法を持っている国に敵はない…平和憲法を掲げる国として、経済のあり方もきちんと議論しなければならない」
この発言だけで、いかに国際社会の現実に盲目であるか、如実に表すものはない。こんな人物が経済同友会終身幹事を務めているとは、何とも暗鬱にさせられ る。品川氏に限らないが、護憲派ブロガーの意見を要約すると、憲法とは人間に合わせるのではなく、憲法に日本人が合わせよ、となるのが結論。モーゼの十戒 やシャリーアと同じだ。
塩野氏は憲法改正について、こう助言している。
「一部の日本人が主張するような、普通の国になるための憲法改正ではなく、普通の憲法とするための憲法改正を勧めるでしょう。日本人はユダヤ教徒ではない。日本国憲法は神が与えたものではありません。故にそれを死守するのは、自己矛盾以外の何者でもない。この自己矛盾から抜け出すのが、まずは先決されるべき課題ですね。
憲法改正には国会議員の三分の二の賛成を必要とし、さらに国民投票で過半数を得る必要があると定めた第96条を、国会の過半数さえ獲得すれば改正は可、とするように改めるの です。これにも国会議員の三分の二の賛成と国民投票での過半数が必要になるのは、もちろんのことです。しかし、憲法改正条項である第96条の改正がなって はじめて、ユダヤ教徒でもない日本人が、神が与えた訳でもない憲法に触れることさえ不可能という、非論理的な自己矛盾から解放されることになる。第9条を 改めるか否かは、その後で議論されるべき問題と思います」
ローマ人によって打ち立てられた法の精神は、現代まで受け継が れることになった。意外なことにローマには成文憲法がなかったが、その利点もあった。法律を条文の修正という形で対応すれば、どうしても過去に引きずら れ、最小限の改革に留まるようになるが、新しい法律を作るのであれば、過去は気にせず、現代と未来を考えるようになる。ちなみにローマと同じく成文憲法を もたなかった国家にヴェネツィア共和国と大英帝国があった。現代は不明だが、'80年代までイスラエルも同様に成文憲法を作らなかったという。
※参考:「ローマ人への20の質問」文春新書、塩野七生 著
◆関連記事:「素晴らしきかな、日本国憲法」
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一方ローマ人は法は人間の作なので、不適当となれば改めるのを当然視していた。法に人間を合わせるのがユダヤのやり方で、人間に法を合わせるのがローマ人だった。世界史のテストにも出る紀元前5世紀に制定されたローマの十二表法も、 改定に次ぐ改定で、二百年も過ぎないうちに十二条の三分の二が行方不明となる始末。ローマ人による法の改め方が、既成の法を改めるか否かの賛否を問うやり 方ではなく、必要と思われることを盛り込んだ新法を提出し、それが元老院で可決されれば、旧法の内でその新法に触れる部分のみが自動的に消滅するという方 法を採用していたからだ。おかげでローマは法律もやたら増えてしまうが、人間に法を合わせるのであれば、当然の帰結だった。
ローマの法には例えば「ユリウス農地法」のように、提案者の名が常に冠せられていた。そのためローマ法では誰が提案し成立させたかが明白だったのも面白い。
作家・塩野七生 氏は著書で人間の行為の正し手を、「宗教に求めたユダヤ人、哲学に求めたギリシア人、法に求めたローマ人」と実に的確な表現で表している。哲学はそれを理 解できる者が少ないという限界がある。宗教となれば、宗教を異にする者には受け入れられないし、異教徒は平等に扱われない。19世紀までイスラム圏では、 たとえ正当防衛でも異教徒がムリスムを殺害すれば、改宗でもしない限り死刑が適用されたし、逆にムスリムが異教徒を殺害してもさして罪にも問われず、賠償 金を払うにせよはした金だった。だから現代でもシャリーア導入となると、ナイジェリアのように非ムスリムと内戦状態となる。敬虔なムスリムにとって、日本 の平和憲法など罰当たりの多神教徒の法なので、豚肉同然の価値しかない。「神の法」により、自縄自縛に陥っていても、改正を叫ぶ者は神の敵となるのだ。
先週、河北新報で「ナショナリズム-私の視点」という特集が組まれた。8月29日付けで経済同友会終身幹事の品川正治 氏(東大法学部卒)が論文を載せていたが、その中にこんな文句があった。
「本来、平和憲法を持っている国に敵はない…平和憲法を掲げる国として、経済のあり方もきちんと議論しなければならない」
この発言だけで、いかに国際社会の現実に盲目であるか、如実に表すものはない。こんな人物が経済同友会終身幹事を務めているとは、何とも暗鬱にさせられ る。品川氏に限らないが、護憲派ブロガーの意見を要約すると、憲法とは人間に合わせるのではなく、憲法に日本人が合わせよ、となるのが結論。モーゼの十戒 やシャリーアと同じだ。
塩野氏は憲法改正について、こう助言している。
「一部の日本人が主張するような、普通の国になるための憲法改正ではなく、普通の憲法とするための憲法改正を勧めるでしょう。日本人はユダヤ教徒ではない。日本国憲法は神が与えたものではありません。故にそれを死守するのは、自己矛盾以外の何者でもない。この自己矛盾から抜け出すのが、まずは先決されるべき課題ですね。
憲法改正には国会議員の三分の二の賛成を必要とし、さらに国民投票で過半数を得る必要があると定めた第96条を、国会の過半数さえ獲得すれば改正は可、とするように改めるの です。これにも国会議員の三分の二の賛成と国民投票での過半数が必要になるのは、もちろんのことです。しかし、憲法改正条項である第96条の改正がなって はじめて、ユダヤ教徒でもない日本人が、神が与えた訳でもない憲法に触れることさえ不可能という、非論理的な自己矛盾から解放されることになる。第9条を 改めるか否かは、その後で議論されるべき問題と思います」
ローマ人によって打ち立てられた法の精神は、現代まで受け継が れることになった。意外なことにローマには成文憲法がなかったが、その利点もあった。法律を条文の修正という形で対応すれば、どうしても過去に引きずら れ、最小限の改革に留まるようになるが、新しい法律を作るのであれば、過去は気にせず、現代と未来を考えるようになる。ちなみにローマと同じく成文憲法を もたなかった国家にヴェネツィア共和国と大英帝国があった。現代は不明だが、'80年代までイスラエルも同様に成文憲法を作らなかったという。
※参考:「ローマ人への20の質問」文春新書、塩野七生 著
◆関連記事:「素晴らしきかな、日本国憲法」
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「憲法」は未読ですが、「サイレント・マイノリティ」は楽しく読みました。
塩野氏の「民主主義は、欧米の輸出する最後の宗教か」の皮肉が利いてますね。同席した日本人は動揺したそうですが。
民主主義も一種の“宗教”とする見方は日本で少数派でしょう。
いわゆる護憲派といわれている者は、「目的」と「手段」を取り違えているように思えます。現憲法を守るのは、平和を守る「手段」の一つであって、「目的」ではないはずです。ましてや、竹島・北方領土いう領土侵犯、北の拉致やミサイル発射など、国民の生命・財産、安全保障の問題など、現憲法の不具合を露呈しています。すぐに改正するべきかは別として、その議論さえもタブー視するのは、思考硬直といわれても、仕方がないでしょうね。
「民主主義は、欧米の輸出する最後の宗教か」とかいえば、確かにそうかもしれませんが、よりベターな政治体制がないのも事実でしょう。「民主主義」の最大の欠点は無能な者をリーダーに指名してしまう事でしょうが、「独裁政治」や「賢者による政治」とて同じでしょう。まして、指名した事に責任が持てない政治体制よりは、いくらかまし、ではないかとも思います。が、指名する側が責任を持って、自らの無知をも恥じない者が多いのを見ると、「民主主義」を手放しで褒め称えられない気持ちもあります。
(ローマにしても、後に独裁政治となりましたね。また、ナチスにしても、最初から独裁ではなく、民主的にも選ばれていました。「民主主義」の裏に「独裁政治」があるのかもしれませんが、、、。無知蒙昧な私には、理解不能です。)
私はいわゆる護憲派の連中には、抜き難い愚民思想観があるのだと思います。
愚かなる日本の大衆如きに、イニシアチブを取らせない事が真の目的なのでは?と勘ぐっています。彼らがよく言う「憲法九条は暴走しやすい日本人への歯止めとなっている」など、これほど日本人を愚弄した意見もないのではないでしょうか?
先日エントリーにしたF.フォーサイスの小説『第四の核』での英国左翼も、口では民主主義を唱えて大衆に民主主義体制政党と思わせながらも、実は一部の同志が支配する体制を目指していた事が記されてます。つまり、非民主主義賛同者なのです。
ナチスも正式名が「国家社会主義ドイツ労働党」と社会主義政党の看板を掲げてましたが、実は極右でした。だからその反対に保守派や民主主義擁護を気取る極左があっても不思議はない。憲法の国民投票に反対したがる政党を思えば、大いにありえます。
人間性はあまり進歩しないから、国民の食と安全を保障する体制なら、民主主義でも独裁政治でも一般国民には大差ないとすら思えてきますね。
から選ばれているという自覚があるかぎりは上手くいくと思います。
中国の皇帝や騎馬民族のハーンでも名君であれば、民あっての位だと
良く分かってました。
ただ、民主主義は政権交替が合法的に担保されていることと為政者が
失脚しても生命財産の保障があることが他の政体より優れています。
他の多くの政体は革命でしか政権交替ができず、非合法の革命は権威
の失墜をまねき次の革命を起こりやすくしてしまいます。
失脚後の保障がなければ為政者は永久的独裁者にならざるを得ません。
すなわち民主主義の基礎には法治主義があります。独裁とは人治です。
イスラムや儒教などの原理主義があるところには民主主義は成立しません。
欠点のない人間などいない様に、民主主義体制も様々な欠陥がありますが、仰るとおり為政者の政権交代を流血を見ず平和裏に行えるのが特徴ですね。政権交代がスムースに行けば、社会も安定が保障されます。
今のところ、民主主義より優れた政治形態を人類は生み出してませんよね。かつては鳴り物入りで持てはやされた共産主義も崩壊した後は、新たな政治体制には警戒の念が強いと思います。
民主主義の最大の弱点は世論により国内が分断されたり、まとまりを欠くことです。その点良くも悪くも原理主義の支配するところは一丸となり団結力が強い。反体制派は粛清か追放、亡命となるので。問題なのは、国が内憂外患状態となった時も民主主義体制で機能できるのか、危うい点があります。