わたしたちの住処をつくる記録

いえづくりについて、できごとと考えたことを記録しておきます

家を勉強する③(古本屋の愉しみ)

2015-03-28 23:19:30 | 勉強
 初めて松井郁夫建築設計事務所へ伺った際に見せていただいた本に惚れ込みました。以来私たちは古本屋を巡ってはそれを探し続けています。
 伊藤ていじ(文)、二川幸夫(写真)の『日本の民家』。なんといっても写真の力が相当なもので、一目見て「欲しい!」と思ったのです。二川幸夫さんは私たちが松井事務所に伺った一か月ほど前に亡くなったばかりでした。ちょうどその亡くなった月まで、パナソニック汐留ミュージアムで「二川幸夫・建築写真の原点 日本の民家一九五五年」展が開催されていたのでした。もう少し早く知っていれば、必ず観に行ったと思います。
 パナソニック汐留ミュージアムには思い出があります。昔、「今和次郎 採集講義」展を二人で見に行ったのです。

予想外に面白い展覧会で、小さなミュージアム内を時間を忘れて数時間見入っていた記憶があります。私はつい最近亡くなった赤瀬川源平が好きで、確か『路上観察学入門』(ちくま文庫)を読んで、今(コン)の『考現学入門』(ちくま文庫)を知ったのだと思います。それで、今(コン)のユニークさが好きでしたので、汐留ミュージアムで展覧会があると知って喜んで行きました。今(コン)には岩波新書に入っている『日本の民家』という有名な著作があります。今(コン)の「民家」は、本当に何の変哲もないふつうの人々の家のことで、特に文化的に重要にみえるとか、構造的に重要に見えるとか、そういう視点はありません。とにかく普通の人たちの家をなんでも記録するという「観察」の側面が大きいと思います。「民家」をどう定義づけしていくかを探り始めた時代だったのです。
 そんなことで、私のなかでは今(コン)の『日本の民家』と伊藤ていじ・二川幸夫の『日本の民家』が、パナソニック汐留ミュージアムで出会い、どうにも伊藤・二川の『日本の民家』が欲しくなっていきました。たぶん、内容的には全く関係のない二つの書物が、私の頭の中では非常に大きな出会いとなっていたのです。
 それで、とにかく古本屋探索が始まりました。もともと古書に大変詳しい妻と一緒に、ことごとく古本屋では『日本の民家』を探しました。しかし、いまだに出会えていません。インターネット上では発見していますが、古本屋で見つかったら、さぞかし嬉しいだろうと思います。
 『日本の民家』(伊藤・二川)が見つからないので、私はまず伊藤ていじのほかの著作を手に入れてみようと思いました。それで手に入れたのが、平凡社の『日本の美術21 民家』です。ここには二川幸夫の写真もふんだんに使われています。
 
 箱の写真がまたいい。表紙には倉敷の民家、裏表紙は信州の本棟造り。倉敷にも二人で行ってきたところですし、本棟造りにもなじみがあるのでなかなかいろいろなつながりを考えてしまいます。伊藤ていじの文章がまたなかなか良くて、やや晦渋なところもあるのですが、かなり面白い部類だと思います。伊藤ていじの本は『日本デザイン論』(鹿島出版会)も手に入れました。これも大変勉強になる内容です。『民家は生きてきた』の新版出版記念か何かのインタビューがどこかにあったのですが、伊藤ていじはかなり面白い人で明晰です。八田利也の『現代建築愚作論』のことも知りました。

 『日本の民家』が手に入らないかわりに、「民家」つながりで、こんな本も手に入れました。写真の真ん中あたり。

 『民家型構法の家 理論と実践』、『民家型構法の家づくり 現代計画研究所の試み』です。 これは『住宅建築誌』で田中文男棟梁のことを知って、そこからたどっていたわけです。詳述しませんが知る人は知る、という感じですね! ここに出てくる執筆陣は… となるといろいろ点と線がつながってきます。
 田中文男棟梁関係でいえば、これは新品ですが、INAXブックレットの『継手・仕口―日本建築の隠された知恵』も手に入れました。

私が購入した直後に在庫がなくなったようで、つい最近新版が出るまでとんでもない値段がつけられていました。いまは正常化しています。ここに出てくる田中文男さんの語り口は非常に興味深いものがありますので、お勧めです。

 さて今日最後です。「継手・仕口」という言葉が出てきましたが、極めつけの本に出会い手に入れました。なんといってもこの存在感。そしてこの著者! 清家清『日本の木組』(淡交社)です。
 
 すごい本です。今はこういう本は作れないと思います。

 縷々紹介して、だからなんだという感じですが、ネタバレしてもいけないので中身は書きません。あくまで記録(覚書)としてこのブログに残しておくだけです。伊藤・二川の『日本の民家』が見つからないがために、かわりに様々な本を手に入れることになり、様々な出会いがあったのです。それで、「民家」という文脈に、自分たちが建てようとしている「マイホーム」とやらを位置づけるとするとどうなるか、と考えるのです。すると不幸にも下手な「マイホーム」は建てられないぞ、と意を強くするのです。
 私たちはいつか必ず『日本の民家』が見つかると信じて、これからも古本屋探索を続けてゆくことになるでしょう。そして、きっとまたその周辺の本から刺激をうけて、「民家」の奥深さを知り、「マイホーム」づくりの社会的「責任」を背負おうとしてしまうのです。