わたしたちの住処をつくる記録

いえづくりについて、できごとと考えたことを記録しておきます

家を勉強する⑤(旧筑波第一小学校)

2015-07-22 20:42:03 | 勉強
 2014年5月3日、設計監理契約の翌々日、茨城県つくば市の「旧筑波第一小学校体育館」(設計:下山真司+増田一真建築構造事務所、施工:眞木建設)を見に行きました。
 『住宅建築』誌に田中文男さんの仕事として安藤邦廣さんのレポートが掲載されており、妻の実家に近いところにその「体育館」があるということがわかったので、見に行ってみたのです。
 筑波山麓を上っていた結構上の方、参道の鳥居のすぐ近くに、「旧筑波第一小学校」はありました。現在は少子化の影響で廃校になり、校舎はつくば松実高校という広域通信制の学校が利用しています。学校は休みのようでしたが、私たちがちょっと駐車場の方へ行ってみると、近所のおばあさんが学校の敷地内を通ってゆきます。どうやら近隣の方々は校地内を散歩コースにしているようでした。

「体育館がすごい建物だと聞いて見てみたくて」とおばあさんと話すと、あそこに先生がいるよ、なんて話になり、話がとんとん進んで見せていただけることになりました。安藤邦廣さんの「板倉」の実践についてテレビ番組が放映されたばかりで、そのなかでもこの体育館が取り上げられたらしく、多くの人が見学に訪れているとか。松実高校の先生は、なれた様子で体育館の木製サッシの鍵を開けて下さいました。

 
 なんと落ち着いた空気。体育館というと鉄骨に明るい水銀灯のイメージですが、経年変化で色の沈んだ木構造が落ち着いた趣を作り出しています。

そして構造材ところどころに見える「込栓」。込栓のある体育館なんてものが存在するのです。贅沢なつくりに、ここで勉強した子ども達がうらやましく感じます。競技のための体育館というより、子ども達が体を使った様々な体験を通して成長するための場という感じがします。もちろん競技も成長の場ではあるのですが、競技以外の時間が大事にされたんじゃないか、という気がします。なによりも、「文化」を感じさせてくれる空間です。
 
 力強くも軽やかな懸け造りに、板倉の色合いが渋みを加え、歴史と文化を感じさせる、かといって寺社建築のような重々しさのない、むしろモダンにさえ見える外観も素晴らしいと思いました。そんなあたり、田中文男さんは伝統的な建築について考えながら、きっと視野は常に未来をむいていた方なんだろうな、と感じます。
 初めにお話ししたおばあさんも、震災の時(3・11)も「ビクともしなかった」とおっしゃっていました。小学生がいなくなった今も、地域の人々のイベントなどに使われ、信頼され続けている現役の体育館です。幾度かの補修を受けつつも、時を経てさらに良くなってゆく建築のひとつだろうと思います。
 1986年の竣工。1985年のプラザ合意を経て円高不況を経験しながらも、実体無き「雰囲気」の消費連鎖だけが価値を持ったかに見えた「バブル景気」という社会に突き進もうという時代でした。どのような経緯でこの建物をつくろうということになったのかは、不勉強で理解していませんが、こうした体育館を作ろうという計画を持った当時の旧筑波町の見識の高さは立派だと思います。


 時を経て、不具合が出てきてもなおす気にならない、建て替えたほうがましだ、というのではさみしい気がしてしまいます。できることならよいものを長く使い、そこに新たな意味を付け加えてゆくのがいいのではないか。そんなことができれば、微力であっても、社会や文化に対する責任を果たすための、はじめの一歩になるのかもしれません。

家を勉強する④(吉村順三「軽井沢の山荘」)

2015-04-30 20:56:52 | 勉強
 どういう経緯だったか忘れてしまいましたが、私たちは、軽井沢にある住宅建築史上珠玉の名作とよばれる建築のことを知りました。
 吉村順三の「軽井沢の山荘」です。
 それは凛として、「格好いい」建物でした。外壁の板張りが古びて、銀色に光っています。ただの木材が風雨にさらされた経年変化なのに、建築の形を与えられて、堂々と自分の役割を果たしているようでした。一見、普通の住宅にはあり得ないようなアンバランスに思えるプロポーションも、実物はとても合理的で、周囲の木々によりそい、風景に見事に溶け込む美しい佇まいが目に飛び込んできます。RC作りの一階に重苦しさはなく、二階を軽やかに宙に浮かせています。

(個人所有物につき敷地内立ち入り禁止です)

 見る限り、ひとつひとつの素材はごくありふれたもの。普通の木材が普通に古くなっているのに、全体からは品格が失われません。豪華さは無いのに品がある。よくある森の中の別荘建築とまったく異質の空気を作っています。大胆なプロポーションであるにもかかわらずほとんど主張がなく、作家性の薄い普通の家に見えます。それでいて、心に残る建築です。いつか中に入ってみたい。
 軽井沢で仕事をするようになってわかったのですが、1階をRCにして居住空間を持ち上げるのは、地元の湿気対策としては一般的なんですね。夏の一時期だけ住むのではなく、1年間住んでみれば、かなり気候の厳しいところです。内陸なのにとにかく湿気がすごい。冬の冷え込みは激しく、地面深部まで凍てつき、常に耕された状態になります。ですから、私は、基礎のRCの立ち上がりが1m以上あったり、RCの柱で浮いている家々を見ては、地理の資料集に出てくる永久凍土地域の住宅によく似ていると思っていました。
 吉村順三の「軽井沢の山荘」の美しいプロポーションの細部には、開口部の取り方と納め方、素材の見せ方など様々なプロの秘密が凝縮されているのだと思いますが、それらを統合したデザインは、湿気対策など大変合理的なものなのだと感じました。(ただ、吉村著の『小さな森の家』によれば当時あまり普及していなかった断熱材を入れたとはいえ、軽井沢の冬ではさすがに寒いだろうとは思います・・・。)



 変なことをせず、合理的であることは、とても大事な要素だと改めて考えます。普通に手に入るはずの素材を、きちっと合理的に使って、気持ちのよい、あたりまえの家をつくることは、民藝の職人たちが、地元の素材を使って、丈夫で長持ちする当たり前の「用の美」を備えた日用品を作るのに似ていると言えば言い過ぎでしょうか。
 
 松井郁夫先生の『住宅建築』誌上における新連載も「古民家-その用と美に学ぶ」ですね。早速読ませていただきました。次号を楽しみにしています。(市井の者が毎回購入するには高い雑誌ですね。古本を探そうか・・・)


構造見学会

2015-04-05 19:08:38 | 勉強
 昨日(4月4日)は設計事務所による「構造見学会」でした。私は3月31日にもちょっと寄りましたので、構造はいつも見ているのですが、改めてきれいな構造に感心しました。壁下地がちょうど格子状に入り、余計に美しく見えます。
 
 
 この日は構造設計をしてくださった悟工房の山中信悟さんも遠路はるばる鎌倉からいらしてくださいました。圏央道がつながりだいぶ早く来ることができたとおっしゃっていましたが、それでも大変遠い道のりを、しかもすぐに仕事があるため日帰りとのこと。家づくりに対する並々ならぬ情熱があり、また建築が大好きな方だと感じました。


 松井先生はいつも「シンプルに見せるのが難しいんですよ」とおっしゃいますが、まさに今回これだけシンプルに整然として美しい架構が実現したのも、山中さんの構造設計サポートによるところも大きいと学びました。
 金物を極力使わないということで、見てみれば土台のホールダウン金物以外は、ほんの小さなものだけしか発見できません。金物がないということがどれだけすっきりすることか。金物がなければ安全ではない、というのは間違いで、場合によっては金物がないと「欠陥住宅」「手抜き工事」だとさえ思ってしまう施主もいるのではないかと想像しますが、本来、民家には金物はなかったわけです。プレカットでつくるようになったから金物で補強しなければならなくなったわけですから、本来のしっかりした構法を採用し、構造計画が間違いのないものなら、もともとは金物がないのが正しい。
 しかし、実際に金物なしの建物を建築基準法に適合するように建てるのは、思ったより簡単ではないようで、きちっとした構造設計が必要なようです。柱を極力少なくし、梁を視覚上も構造上も効果的に配置することを狙うならなおさらで、そうそう真似できるものではないんですね。それで、以前いただいた分厚い「構造計算書」に納得です。さらっと渡されたファイルですが、この厚みは伊達ではなく、じっくり架構が練られた美しく安全な建物であることがこの厚みに現れていると、改めて感じました。

 山中さんは今回は構造設計サポートをしてくださっていますが、普段は住宅を多数設計されている建築家さんです。私たちの家のために、今回建築家が何人関わっているか数えると、実はかなり贅沢です。

 構造見学会では上田市在住の林材ジャーナリストの赤堀楠雄さんにもお会いすることができました。いま林業をめぐって何が起きているのか、私も興味があります。「WOOD JOB」として映画化された三浦しをん『神去なあなあ日常』を読んだとき、なかなか楽しかったのですが、多分実際の林業現場はもっと厳しいものがあるだろう、と思っていました。いまや「森林飽和」(太田猛彦)というくらい森林はあるのに、全体としてはあまり生かされていないわけですから、産業構造的にどんな問題があるのか興味のあるところで、もっと勉強たいと思います。
 赤堀さんは、フリージャーナリストの数がその産業の規模を表しているとおっしゃっていました。たとえば自動車産業、あるいは農業でも、フリージャーナリストの数はかなりになるけれども、林業のフリージャーナリストは2人だか3人だそうです。これだけの森林国で、古来から木をつかって生活してきた日本で、どうしてこうなっているのかは、考えなければならないことがあると感じました。またおあいできたら、もっともっと教えていただきたいと思います。

 夕方は皆さんと夕食会にもご一緒させていただいてしまいました。楽しく、また勉強になるお話の連続でした。皆様ありがとうございました。まだまだお話聞かせてください!

 さてこのようにして、はじめさっぱりわからなかったワークショップ「き」組みの「ワークショップ」の意味がだんだん分かってきました。私は「施主」でお金を払う立場の人間ではありますが、ともに勉強させていただいていることが沢山でてきました。視野の広がる、楽しい経験です。だんだん「施主」であることを忘れてしまいそうです。あぶないあぶない。お金のことをちゃんと考えないと…

家を勉強する③(古本屋の愉しみ)

2015-03-28 23:19:30 | 勉強
 初めて松井郁夫建築設計事務所へ伺った際に見せていただいた本に惚れ込みました。以来私たちは古本屋を巡ってはそれを探し続けています。
 伊藤ていじ(文)、二川幸夫(写真)の『日本の民家』。なんといっても写真の力が相当なもので、一目見て「欲しい!」と思ったのです。二川幸夫さんは私たちが松井事務所に伺った一か月ほど前に亡くなったばかりでした。ちょうどその亡くなった月まで、パナソニック汐留ミュージアムで「二川幸夫・建築写真の原点 日本の民家一九五五年」展が開催されていたのでした。もう少し早く知っていれば、必ず観に行ったと思います。
 パナソニック汐留ミュージアムには思い出があります。昔、「今和次郎 採集講義」展を二人で見に行ったのです。

予想外に面白い展覧会で、小さなミュージアム内を時間を忘れて数時間見入っていた記憶があります。私はつい最近亡くなった赤瀬川源平が好きで、確か『路上観察学入門』(ちくま文庫)を読んで、今(コン)の『考現学入門』(ちくま文庫)を知ったのだと思います。それで、今(コン)のユニークさが好きでしたので、汐留ミュージアムで展覧会があると知って喜んで行きました。今(コン)には岩波新書に入っている『日本の民家』という有名な著作があります。今(コン)の「民家」は、本当に何の変哲もないふつうの人々の家のことで、特に文化的に重要にみえるとか、構造的に重要に見えるとか、そういう視点はありません。とにかく普通の人たちの家をなんでも記録するという「観察」の側面が大きいと思います。「民家」をどう定義づけしていくかを探り始めた時代だったのです。
 そんなことで、私のなかでは今(コン)の『日本の民家』と伊藤ていじ・二川幸夫の『日本の民家』が、パナソニック汐留ミュージアムで出会い、どうにも伊藤・二川の『日本の民家』が欲しくなっていきました。たぶん、内容的には全く関係のない二つの書物が、私の頭の中では非常に大きな出会いとなっていたのです。
 それで、とにかく古本屋探索が始まりました。もともと古書に大変詳しい妻と一緒に、ことごとく古本屋では『日本の民家』を探しました。しかし、いまだに出会えていません。インターネット上では発見していますが、古本屋で見つかったら、さぞかし嬉しいだろうと思います。
 『日本の民家』(伊藤・二川)が見つからないので、私はまず伊藤ていじのほかの著作を手に入れてみようと思いました。それで手に入れたのが、平凡社の『日本の美術21 民家』です。ここには二川幸夫の写真もふんだんに使われています。
 
 箱の写真がまたいい。表紙には倉敷の民家、裏表紙は信州の本棟造り。倉敷にも二人で行ってきたところですし、本棟造りにもなじみがあるのでなかなかいろいろなつながりを考えてしまいます。伊藤ていじの文章がまたなかなか良くて、やや晦渋なところもあるのですが、かなり面白い部類だと思います。伊藤ていじの本は『日本デザイン論』(鹿島出版会)も手に入れました。これも大変勉強になる内容です。『民家は生きてきた』の新版出版記念か何かのインタビューがどこかにあったのですが、伊藤ていじはかなり面白い人で明晰です。八田利也の『現代建築愚作論』のことも知りました。

 『日本の民家』が手に入らないかわりに、「民家」つながりで、こんな本も手に入れました。写真の真ん中あたり。

 『民家型構法の家 理論と実践』、『民家型構法の家づくり 現代計画研究所の試み』です。 これは『住宅建築誌』で田中文男棟梁のことを知って、そこからたどっていたわけです。詳述しませんが知る人は知る、という感じですね! ここに出てくる執筆陣は… となるといろいろ点と線がつながってきます。
 田中文男棟梁関係でいえば、これは新品ですが、INAXブックレットの『継手・仕口―日本建築の隠された知恵』も手に入れました。

私が購入した直後に在庫がなくなったようで、つい最近新版が出るまでとんでもない値段がつけられていました。いまは正常化しています。ここに出てくる田中文男さんの語り口は非常に興味深いものがありますので、お勧めです。

 さて今日最後です。「継手・仕口」という言葉が出てきましたが、極めつけの本に出会い手に入れました。なんといってもこの存在感。そしてこの著者! 清家清『日本の木組』(淡交社)です。
 
 すごい本です。今はこういう本は作れないと思います。

 縷々紹介して、だからなんだという感じですが、ネタバレしてもいけないので中身は書きません。あくまで記録(覚書)としてこのブログに残しておくだけです。伊藤・二川の『日本の民家』が見つからないがために、かわりに様々な本を手に入れることになり、様々な出会いがあったのです。それで、「民家」という文脈に、自分たちが建てようとしている「マイホーム」とやらを位置づけるとするとどうなるか、と考えるのです。すると不幸にも下手な「マイホーム」は建てられないぞ、と意を強くするのです。
 私たちはいつか必ず『日本の民家』が見つかると信じて、これからも古本屋探索を続けてゆくことになるでしょう。そして、きっとまたその周辺の本から刺激をうけて、「民家」の奥深さを知り、「マイホーム」づくりの社会的「責任」を背負おうとしてしまうのです。

家を勉強する②

2015-03-10 23:40:49 | 勉強
 つい最近、川崎市立日本民家園へ行ったときに興味深い話を聞きました。山梨県甲州市にあったとされる広瀬家住宅を見たときです。維持管理や案内をしてくださるボランティアの方々がいらっしゃるのですが、他の古民家と違い、土間に直接「ムシロ」を敷いて囲炉裏を囲んでいらっしゃいました。
 囲炉裏といえば、板敷の居間の真ん中にあるというイメージでしたが、ここでは土間にある。なんでも、この民家のあった場所は山の斜面で、山からの吹きおろしが非常につめたい。だから軒を低くして風を防ぎ、また板敷の床を作らず直接土間にムシロを敷くことで暖かさを確保していたのだそうです。板敷の床は床下を冷気が流れるために冷たいが、土間の上に直接ムシロ(これを「土座」というらしい)の場合はあまり冷たくない。私は、おそらく「地熱」が関係しているのだろう、と思いました。実際に座ってみると、確かにほのかに安心感のある暖かさで、囲炉裏の火があれば十分に冬でも暮せそうでした。

 日本の民家は「夏を旨とする」のが基本で、通気性がよく、湿気のこもらない作り方になっているはずです。しかし、寒冷地では、こうした隙間風の多い家ではつらかっただろうと思います。そうした中で「土座」を利用するというのは、寒冷地に暮す人々の昔からの知恵だったのでしょう。

 2013年の9月に、妻の従妹の結婚式へ出席するために青森を訪れた際、三内丸山遺跡まで足を延ばしました。職業柄とても興味があったのですが、とにかくそのスケールの大きさには驚かされるばかりでした。
  
 一番大きな復元住宅の中は、「竪穴住居」でありながらも、現在でも田舎で見かける「古民家」のような雰囲気が漂っており、数千年も前の様式もそれほど古い様式ではないかもしれない、と直感されました。一方で、実際問題として青森のような寒冷地ではたして生きてゆけるだろうか、という疑問も同時にわきました。これだけの遺跡を残せるだけの一大勢力があったはずなのですが、「竪穴住居」で本当に冬を越して生きてゆけるのか。
 やはり「竪穴」というところが重要なのでしょう。倉庫は高床だが住居は竪穴。竪穴では湿気は避けられそうにありませんが、「地熱」は利用できそうです。雪が積もってくれれば立派な断熱材となり、たき火を絶やさないことで土間が蓄熱し室内の温度を保ったのではないかと想像できます。

 荒谷登『住まいから寒さ・暑さを取り除く』(彰国社)は、住まいの温熱環境について大変勉強になる本でした。冷房・暖房から冷忘・暖忘へ。住宅の温熱環境や断熱というと建材の性能の話になりがちですが、そもそも暖房・冷房とはなんなのかというところから書かれています。

 そのなかに、北海道の先住民であるアイヌの伝統的住居「チセ」が紹介されています。北海道のような極寒の地で、アイヌは昭和初期まで茅葺や笹葺の「チセ」に住んでいたといいます。茅葺や笹葺のような気密性のとれない住居でも暖かかったのは、地熱を利用していたということもあるようです。本州の家づくりを真似して板張りの床をつくった「チセ」は寒かったが、土間に直接葦などで編んだ敷物を敷き、年中囲炉裏の火を絶やさなかった昔ながらの「チセ」は暖かかったといいます。


 三内丸山遺跡の竪穴住居では、地元産の栗の木が使われています。地元で手に入るものを活用するのは当たり前なのですが、こんなところにも古代人のシンプルな知恵を感じずにはいられません。2013年の10月には安曇野市の重要文化財である「曽根原家住宅」を見に行きました。江戸時代の農家で「本棟造」の原型を見ることができる建物ですが、ここの梁は地元を代表する針葉樹である赤松でした。時代はだいぶ異なりますが、いずれも昔の家は地元のものを当たり前にうまく取り入れて暮らしていたのです。地元の気候で育った樹木は、建築となってからも地元の気候に馴染み、数百年を超えて生き続けるのでしょう。


 新建材などなくとも、その土地の気候を読み、自然と対話しながら、地元のものを生かして住まいをつくることが、何千年も前から行われてきたことのようです。私たちは昔の生活に戻ることもできないし、文明を否定する気も毛頭ありませんが、昔からの知恵に学ぶべきことは案外結構あるように思えます。