わたしたちの住処をつくる記録

いえづくりについて、できごとと考えたことを記録しておきます

設計管理契約と高円寺の家

2015-07-16 21:44:14 | 依頼先決定まで
 2014年5月1日、設計監理契約のため上京しました。
 茨城の妻の実家へゆく予定だったので、その足で松井事務所に寄ったのです。重要説明事項等のお話を聞き、特に悩むことなく、すんなりと契約を交わさせていただきました。当時は妻が身重で、説明を聞いている途中でちょっと体調が悪くなり車で休んでいてもらったことをよく憶えています。
 契約後、松井先生親子の案内で私たちが一度は拝見したいと思っていた「高円寺の家」へ。駅から少し入ったいかにも都会の密集した住宅街のなかに、突如として桧張りの明るいファサードが現れたときはびっくりしました。完全にモダンでおしゃれな住宅。かといって、人目を引くような奇抜さはなく、板目が美しく優しい穏やかながら、とにかく「きれい」な建物でした。
 中にお邪魔すると、松井事務所のページでは連載エッセイでおなじみの加藤木さんがあたたかく迎えて下さいました。内部は「なにこれ!」の連続でした。悪い意味ではなく、思わず「なにこれ!」と言いたくなる素晴らしさばかりだったのです。延べ床20坪に満たないのに、なにこれこの開放感。二階には庭園。木製建具も美しく、一つ一つの開口部の気分がいい。寝室の落ち着きっぷりも格別。ちょっとしたところにガラスが入っていたりして繊細な技が随所に見られ、小さくとも趣のある日本庭園の張り出したデッキと緑とのバランスのいいこといいこと。在来のお風呂もささやかな庭が見える、どこかの高級温泉宿のように品のある空間。しかしその辺のおしゃれ建築的な作り込み感、鉄筋コンクリートのビルなんだけど木をふんだんに使って内装に凝りました的な温泉宿によくある偽物感がなく、すべてが理由有る合理的デザインなのだと感じました。つややかな漆喰の平滑面は単純な塗装と全く質感がことなり、素材感があたたかく同時に凛とした空間を作り出していました。桧の木肌も明るく同時に落ち着きがあり、変な外材とはやっぱり質感が異なります。細部がすべてとてもきれいに合理的にまとめられており、妻は「残念なところがひとつもない」と感心していました。これがデザイン面だけでなく、構造・機能・性能、ついでに加藤木さんのお人柄、すべての面が調和した上での話ですから、私たちには到底手の届かないとてつもなくハイレベルな家だと思いました。
 松井匠さんは「○○(私たちのこと)さんのお宅もこうなります」と何度もおっしゃいました。私たちは信じられませんでした。今でも半分信じていません。何しろ建築コストが違うだろう、と思っています。予算が少ないのにいい家をつくってほしいなどと無茶なお願いをしてしまい、とても申し訳なく感じています。けれども、半分は信じさせて下さい。すこしだけ夢をみさせてください。
 高円寺を後にし、茨城の妻の実家へ向かう道すがら、ずっと興奮が冷めませんでした。「いいもの見せてもらった」、「見せてもらって本当によかった」「勉強になった」と、ずっと頭のなかがいっぱいになっていたような気がします。

事例を見に行く

2015-02-25 23:11:40 | 依頼先決定まで
 2013年3月31日に「き」組のTSさん設計施工による東御市のお宅を拝見しました。外壁は「そとん壁」で、すでに見慣れた雰囲気の美しい佇まい。玄関に入らせていただくと、木の香りが一気にやってきます。「こういうのを木の家っていうんだ」と第一印象。結構広いお宅で、開放的な間取りと、とにかく自然素材に徹底的にこだわりながらも、気を張らず自然に暮らされているようでした。お子さんのお友達が沢山遊びに来るそうで、確かにこの優しい無垢のフローリングで駆け回って遊ぶのは気分がいいだろうな、と納得。お子さんが明るく元気で、車で行った少し離れたところからお住まいの外観を拝見したときも、ウッドデッキからこちらまで届く大きな声で「バイバーイ」と手を振って見送ってくれました。「お子さんが元気で健やかに暮らしているから、この家は間違いない!」とは妻の言。私もまったくその通りだと思いました。子どもは感じやすくまた正直なものですよね。

(TSさん設計施工の別のお宅が表紙になっている「き」組のパンフレット)

(転載禁止)

 4月13日には東京へ行き、「き」組代表のM建築設計事務所を訪ねました。そのころはまだ結婚前で、妻は東京に住んでおり、私が東京を訪ねるのに合わせて伺うことにしたのです。当日は道に迷ってしまい、約束の時間をだいぶ過ぎてしまいましたが、M先生は気さくにお話ししてくださいました。ビルの一階の事務所に一歩入ると木組みの枠組みが迎えてくれます。建築模型やパネル写真に囲まれた雰囲気だけで、わくわくする空間でした。歩いて行ける範囲にある、設計事例のお宅を拝見させていただくことになっていましたが、その道すがら、周りの町並みについて話すM先生の熱中ぶりをみて、こんな言い方は大変失礼ですが「少年のような心」を持った方だと思いました。芸術家肌で、探究心と好奇心むき出しで好き嫌いのはっきりした行動的な方だと感じ、それだけで「信用できる」と思いました。
 拝見したお宅は、二世帯住宅。外観もインテリアも「端正」で、ひとつひとつのつくりがピシッとして美しい。繊細で、まじめな、というか、当たり前だけれど「まともな」家だと思いました。「まとも」だとは語弊があるかもしれませんが、帰り道には街に並ぶほかの「普通」の家がとても「まとも」だとは思えなくなっていたのです。どうやらM先生の話を聞いて、貧乏人にとっては致命的な「凝り性」というくすぶっていたはずの持病が、思っていたよりだいぶ悪化してしまったようでした。

 これはまだ結婚前ですから、普通に考えれば全く気の早いことなのですが、当たり前のように話を進めていました。ただ、さすがにこの後自分たちの結婚へ向けての準備の方が忙しくなり、すこしマイホームのことは横に置いておく期間がありました。
 そのあいだに、予定外のことがおきたのです。
 私たちの狙っていたあの土地が、売れてしまったのです!


ワークショップ「き」組に出会う

2015-02-22 21:58:18 | 依頼先決定まで
 「刻み」はすでに進んでいますが、これまでの経緯を思い出しながら書いています。

 2013年の3月のこと、アトリエ○○○さんの完成見学会で「自然素材」という考えを知って以来、依頼先についてはいろいろな可能性を検討する必要があると感じた私たちは、「住まいNET信州」という雑誌を見たりして、資料請求を片っ端から行っていました。コストをかければいい家ができるのは当たり前なので、どうすれば予算の範囲内で良い家ができるのかも調べたりしました。分離発注方式とかそんな選択肢も勉強したりしました。また、独立した建築家にお願いするのも、意外とコスト管理できるということも知りました。インターネットでも様々な情報に触れ、見ては資料請求の繰り返しでした。
 そんな中、出会ったのがワークショップ「き」組でした。
 サイトを見てもさっぱりわかりませんでした。「ワークショップ」の意味が。独立した工務店でもないし、一人の建築家でもない。ただ、建てている家はちょっといいかも、と思えるものでした。決して主張しすぎないデザイン。やや和風。そして目についたのはあの街並みにマッチする「越屋根」でした。昔の「民家」に学んでいる、ということがよく分かったのです。東京に事務局を置きながら、上田や東御での実績がいくつかあり、一つの候補になると思いました。そして、なんといっても金物に頼らない「木組み」という職人技を売りにしている、というのにも心惹かれるものがありました。

 2013年3月16日に、資料請求。10日後に事務局Tさんより電話。仕事中だったため、あまりうまくお話しができず、「○○万円でどの程度できるのか」という質問に終始してしまいました。Tさんの答えの雰囲気はなんとも歯切れの悪いもので、要約すれば「予算にあわせてつくります」というもの。そりゃそうだけど、予算に合わせて、いったいどの程度のものができるのかが知りたいところだったわけで、なんとも要領を得ない会話になってしまいました。いま考えればTさんのお話は当然で、その頃は私が全く勉強不足でした。

 実は資料請求の日からお電話をいただくまでの10日間に、「き」組のことを様々調べていました。そして、ある建て主さんのブログに行きついていました。そのブログを拝見し、一言でいえば「感動」していました。木が主役でありながら陰影のある室内、柔らかく傷のつきやすい杉のフローリングのあたたかい質感、都内でありながら大きな窓から見える森の木々の美しさ、宙に張り出したウッドデッキを駆けまわりながら落ち葉や雪に触れるお子さんたちの笑顔。ああ、こんな家があるんだ、と一人ほんわかしていました。豪華な最新設備とか、「メンテナンスフリー」の新建材とか、そういったものとは別世界の、穏やかで健康的でかっこつけすぎない「住処」を見た気がしました。
 その方のブログで『住宅建築』誌を知りました。建てられた家が掲載されているということなので、アマゾンですぐに古本を注文。届いた本からは現代棟梁田中文男さんのことなど、多くを学びました。
 

 そんなことを学んでいたつもりだったのに、電話で予算の話ばかりになってしまいいけなかったな、と思った私は、家に帰りメールしました。
「…たてものを拝見させていただければと思います。」
「き」組に興味を持った理由として、
「…どうせなら、ちゃんとした“本物の家”に住みたい」云々。
すると主宰のM先生よりメールが来ました。
「…ご希望日を何日かお知らせください。こちらで日時を調整したいと思います。」
このようにして、ワークショップ「き」組との関わりが生まれていったのです。


街並みに調和する家を

2015-01-27 22:19:23 | 依頼先決定まで
 いよいよ「刻み」が始まるという段階ですが、なんとかこの進行中に追いつくように、ここまでの経緯を思い出しながら記録していきたいと思います。

 2013年の春、例の安くて広い第一候補の土地について調査を始めました。実は土地のすぐ脇に水のない沢があり、ちょっと気になっていたのです。雨が降った時に氾濫したりしないのかどうか。周辺の住人のみなさんにいろいろお話を伺うと、大昔に一度氾濫したことがある、と仰るおばあさんがおられました。でも、その後治水工事によって氾濫することはないとのこと。とはいえ、一度氾濫したことがあるとなると、こればっかりはちょっとわからないなあ、と思いつつ、教えてくださった方々が親切な方ばかりで安心しました。
 旧街道の古い町並みは、わりと私たちの好みだったと思います。30分ほどいったところにある「海野宿」のような整然と保存された町ではなく、本当に昔の山沿いの小さな集落ですが、土壁が続く道は趣があり、路地には猫も多そうです。

 この辺りは真田氏の時代から養蚕が盛んで、明治から大正にかけては蚕糸業の全盛期だったといいます。私たちが目を付けた土地のすぐ近くには有名な紬工房があり、中を見学させていただいたこともあります。手仕事の息づく街でもあったのです。家々の小屋裏ではかつて蚕が飼われていました。暑さに弱い蚕を守るため、屋根には必ず「気抜き」という工夫がありました。いわゆる越屋根です。

 観光地化することなくこういった建物がたくさん残っていたのがこの集落でした。東北大学の先生方がこの集落の歴史を研究した書物がいくつかあり、私はそれを取り寄せて読んでみたりもしました。歴史あるこの集落に興味をもち、この土地はやっぱりなかなかいいのではないか、と意を強くしたものです。今考えると、本当に変わり者です。ふつう、平地で車の交通にも便利な、もっと新しい「分譲地」を選びますよね…。

 ところで、ここにどんな家を建てるか考えると、ちょっと迷いが生じました。やはりここには「ローコスト」というわけにはいかなそうだ、と思いました。周囲の伝統ある町並みの景観を壊すような家を建てるわけにはいかない、そう考えるようになっていました。一体どんな家がいいのか、もっともっと片っ端から情報を集めてみようと思い立ったのです。




ものづくりのこころにあこがれ

2015-01-24 20:17:26 | 依頼先決定まで
 益子の旧濱田庄司邸や参考館に二人で行ったのをよく思い出します。私は古い民家で育ったわけでもないのですが、深い軒の縁側のある和室に二人で腰を下ろすと、適度に抑えられた空間の広がりの効果なのか、とても落ち着いて緩やかな気持ちになったのを覚えています。ちょうど冬が終わり、春を迎えようという季節で、暖かな日差しが柔らかく部屋に入って来ていました。古くとも残っているものには独特の空気がながれており、大抵は私たちの心をおだやかにさせます。それは、それを作った人たちの心意気や高い技術によって、私たちの文化そのものを表現しているからなのかもしれません。文化そのものだから、永く美しく残っているのでしょう。

(旧濱田庄司邸)


 私は、結構古いものが好きで、初めて買った車はClassic MINIでした。何度も故障し、そのたびに自分で修理して、しまいにはエンジンを下ろしてミッションを交換して…などとずいぶん道楽をやっていました。性能は決してよくありませんでしたが、修理を繰り返すうちに、愛着がわき、またこれを作ったエンジニアたちの心意気も感じるようになっていきました。どのような設計が使う人にやさしいのか、修理して長く使うにはどういう部品であるべきか。いろいろなところに、目に見える工夫がありました。
 一方で、家具にも興味がありました。大学時代、イームズなどの「ミッドセンチュリー」が流行り、それに乗って雑誌をみたりしていましたが、すこし歳をとって落ち着くと、今度はそれらを手に入れたいと思うようになりました。ただ、その時には北欧アンティークに興味をもっていました。イームズなどの純粋な工業製品とちがって、少しだけ「職人魂」が見えるところに惹かれたのでしょう。
 ハンス・J・ウェグナーやフィン・ユール、はたまたミース・ファン・デル・ローエに関する本を読みふけったりしていました。その中でも、はやりウェグナーが好きです。近代(モダン)なんだけど、ちょっと職人くさいんですね。ちょうどそんな頃に信濃美術館で開催された「世界の椅子」展でも、ウェグナーの「The chair」がうやうやしく鎮座していましたが、なんてことはない、現在でも手に入る工業製品です。しかし、本で学ぶにつれ、工業製品でも工房の職人たちの技術力に支えられているというのが面白かった。お金さえ出せば買えるものだけれど(もちろん私にはそんなお金はないけれど)、表に名前のでてこない職人たちの、唯一無二の職人技がそれを支えているという感覚が大変興味深い。自分はそんな名のない職人になればよかったな、とさえ思ったことがあるほどです。
 そんな私が妻から学んだのは、「民藝」という世界でした。今、ちょっとしたブームのようになっているようですが、ブームにとらわれない「民藝」を知り、ずいぶん感心しました。仕事柄、様々な思想家を知らねばならないので、柳宗悦という名前だけは知っていました。しかし、その思想がどの様なものかは、教科書的な知識しかありませんでした。そんな私に、妻は民藝の実際を見せてくれました。益子や鎌倉でみせてもらったのもそうだし、さまざまなお店や本、実際の「モノ」をとおして、民藝運動の潮流をしったのです。私のこれまでの「マテリアル」に惹かれる感覚に、民藝はマッチしていました。あくまで芸術というつもりはない、職人たちが手仕事でつくる日用品に、確かに「美」があり、ひとのこころが入っている。そんな美しいものを、沢山教えてもらいました。
 旧濱田庄司邸へ行ったとき、いつかこんな家に住むのもいいな、と感じたのは事実です。同時に、こんな立派な古民家はとてつもないお金持ちの家で、私たちが住めるようなことはない、とも思いました。それでも、自分たちが家を建てよう、となったとき、私の心の片隅にはあの職人技光る古民家が、ちょこっとだけひっかかっていたのです。

 「自然素材」という考え方に触れ、家づくりに「コスト・パフォーマンス」以外のものも求めていいかもしれない、と直観してしまった私は、いつのまにか家づくりに「職人のこころ」を夢見始めていたのです。2013年の春を迎えようという季節のことでした。