goo blog サービス終了のお知らせ 

【ノスタルジックじゃつまんない?】

2003年12月生まれ(7歳)
2008年6月生まれ(2歳)の娘の父親です。

46【ウィーン】

1990-02-04 | 【イタリアに恋したわけ】
夕方、ザルツブルクの駅で別れた。

彼女は一泊ここで滞在した後、フランスへ戻るらしい。

お互い、住所を交換した。
初めて目にするハングル文字の住所だ。

キヨシと同じく2月の終わりには帰国するらしい。
キヨシは大韓航空で帰るのでソウルで乗換だ。

もし良かったら連絡してね。と電話番号を付け加えてくれた。

そっか、そろそろ日本へ帰る日が近づいてきているのか・・・。
もう、一人旅も後半戦なんだな・・・。

終わってしまえばあっという間なんだな・・・。

何とか、今夜中にウィーンに到着する列車を見つけ、キヨシはウィーンを目指すことにした。
夜行ではない夜の車窓はつまらない・・・
しばらく、イタリア語の勉強に没頭した。

ウィーンに到着すると、急いで安宿を探さなければならない。
少し離れたところにユースホステルがあったので、そこに決めた。

翌朝、ウィーンの街を散策していると、日本人らしきご夫人に声をかけられた。
「観光ですか?」

一人旅のいきさつなどを話しすると、興味を持っていただいたようで、「カフェ」にご招待された。
「ウィーンに来たからにはこれを食べていって欲しいの」とすすめられた難しい名前のケーキをご馳走になった。

久しぶりに口にする甘いものだった。

ウィーンに来たら、いつでもいらっしゃいねと電話番号をもらった。
どうやら、オーストリアの有名な音楽家と結婚して、ウィーンに長く住んでいるらしかった。

ご夫人に、丁寧にお礼を言って再び街を散策していると、妙な違和感を覚えた。
どことなく、日本を思いださせるような風景だった・・・。

あ!信号だ!歩行者用の信号が日本のと似てる!

そんなウィーンを後に、キヨシはミラノへ向う列車に乗り込んだ。






45【ザルツブルク】

1990-02-02 | 【イタリアに恋したわけ】
駅に到着すると、インフォメーションで地図をもらった。

なるほど!モーツアルトの生まれた家があるのか!
モーツアルトの曲・・・どんなのがあったっけかな?

そう言えば、音楽室に絵が飾ってあったよな・・・。
どのヘアスタイルの人だったっけ・・・。
行けば思い出すさ!

そんなことを考えながら、旧市街へ向うバスを待っていると、一人の女性がこちらを見て会釈している。

「こんにちは!」

久しぶりの旅のお供だと思い、キヨシの方から声を掛けてみた。

「アンニョン・・・」

どうやら韓国の人だった。

片言の英語で、お互い自己紹介をした。
その彼女はフランス語を勉強していたらしい。ドイツ語は全然ダメとのこと。

ここオーストリアで心細くなっていたらしい。

キヨシよりも英語は達者なようだが、「もっと英語も勉強していればよかったんだけど」と謙虚なことを言っている。

言葉に自信がないから、食事はファーストフードで済ますことが多いらしい。
それならば、一緒にレストランでも行こう!と誘ってみた。

言葉の通じない国での心寂しさはよく実感できたから、少しでも役に立てればと思った。

レストランで食事をしてから、モーツアルトの生家へ足を運んだ。
彼女はモーツアルトについて詳しかった。
この生家を見るために、わざわざ言葉の通じないオーストリアまで来たらしいのだ。

モーツアルトの顔も思い出せないキヨシは少し小さくなった・・・。

どうやらここは観光地らしい。日本人の団体客がちょうど入場するところだった。

はた目から見るとキヨシとその彼女は「同じ国のカップル」に見えただろう。
しかし、その日本人団体客のガイドアナウンスをキヨシはつたない英語でその彼女に「通訳」している。

周りは不思議そうにこちらを見ていた。

44【その後・・・】

1990-02-01 | 【イタリアに恋したわけ】
ストックホルムを後にしたキヨシがデンマーク・コペンハーゲン、オランダ・アムステルダム、ベルギー・ブリュッセルと足を伸ばした。

イタリア・スペイン・ポルトガルに比べて北ヨーロッパは物価が高い。
安宿もあまり探しきれなかった。

旅行資金が危うくなってきたので、いったんドイツへ戻ることにした。
言葉が通じる分、安宿探しも少しは楽になるだろう。

思い切って夜行列車で南下し、フユッセンにしばらく滞在した。
ノイシュバンシュタイン城がとても印象的だった。

スイスへも再度足を運んだ。
できるだけドイツ語圏をとインターラーケンの安宿に滞在した。
ユングフラウヨッホの山が大きく見えた。

ホテルの部屋で洗濯し、窓の外に干した洗濯物は見事に凍っていた。

モーリンの家を後にしてから2週間あまり、誰の家に滞在することもなく、寂しい一人旅となっていた。

ミラノにいるカルラとエレナに電話してみた。
うまく連絡がとれた。

翌週会うことになった。

よし、この際、オーストリアまで足を伸ばすか!
ザルツブルクまでの列車に乗り込んだ。

スイスからオーストリアへ入ると、小奇麗な車窓が、田舎風な車窓へと変化していった。

ザルツブルク・・・何があったっけな・・・?


43【モーリンとのお別れ】

1990-01-25 | 【イタリアに恋したわけ】
極寒の北欧一人旅も終わりを告げ、再びモーリンの家に戻ってきた。

フィンランドの後、モーリンの家ヘ一時帰し、今度はノルウェーまで足を伸ばした。
フィヨルドに驚いた。
ノルウェーの森は・・・森というより林のような印象だった。

とにかく極寒の一人旅だった。
フィンランド、ノルウェーから帰ったキヨシをモーリンの家が、暖かく迎え入れてくれた。

ここスカンジナビアではたくさんの親切な人と出会った。
乗る列車が判らずにマゴマゴしていると、自分の乗る列車を一本遅らせてまで、キヨシの乗る列車のホームまで案内してくれた人もいた。

極寒の中での暖かい経験だった。

1月も半ばを過ぎ、そろそろイタリアに向けて出発するため、今日はモーリンとのお別れに日となった。

モーリンは何度も何度もキヨシを抱きしめた。
イタリアに行っても日本に帰っても忘れないでね。
と目に涙をためて、そう言った。

翌朝、モーリンはストックホルムの駅まで見送りに行く!と言ってくれたが、哀しみが増すので、ここでいいよ。と家を出た。

外は、涙も凍るほどの寒さだったが、とても暖かい涙だった。

42【初めての体験】

1990-01-23 | 【イタリアに恋したわけ】
とにかくとびきりの寒さだった。

それもそのはず・・・真冬のフィンランド。
ヘルシンキの中心街まで出てきてみると寒いなりに人は賑わっていた。
デパートの屋上には気温を示すデジタル表示がある・・・

-20℃

寒いわけだって・・・!

とにかくデパートに入った。
恥を忍んで、あるものを購入した。

あ~あのときクリスティーナに使い捨てカイロ全部あげるんじゃなかったかな・・・。
スペインとはえらい気温の違いだ。

さて、トイレに入り先ほど購入したものを身に付けてみる。

暖かい!

そう・・・パンストをはいてみたのだ。

こんな経験、生まれて初めてだよ・・・。

でも寒さに恥はかえられない・・・。

一気に寒さが和らいだ。
ほっ!

さて、帰りのフェリーの時間までブラブラしようか!
やっと動けるようになったので、例によって駅のインフォメーションで地図を手にした。



41【超豪華客船内】

1990-01-20 | 【イタリアに恋したわけ】
見るものすべてが珍しい。

3等客室は「ざこ寝」だった。
空調もきいていて快適だった。

さて、今は18時。翌朝6時にフィンランドへ到着だ。
ここでも1時間の時差があったが、船内の時計の短針は2つついていた。
もう、ポルトガルのようなことはないぞっ!

船内見取り図を見る。
エレベータが3機ある。
ディスコテーク、レストラン、プール、カジノ、スーパーマーケット・・・何でもあるんだね。

甲板にもでてみた。
「甲板」というより「屋上」という感じだ。

寒い!!!

しかし辛抱して、夜空を見上げた。
満天の星空だ。
こんなにたくさんの星をみたことは今までになかった。

それにしても寒い!!!

キヨシは眠る間を惜しんで船の中を探検した。

途中、ゲームコーナーでポーカーゲームをやってみた。
じゃらじゃらじゃら〜!!!

おお!直接お金が出てきたよ!

そのお金でフィンランドのウォッカ「フィンランディア」を買った。

ちょいっと一杯ひっかけて、おとなしく3等客室へ戻って熟睡した。

翌朝、なにやら船底から「ゴンッゴンッ!」と響くような音がしたので、「屋上」へ出てみた。
そとはまだ夜だったが、うっすらと港の明かりが見えていた。

着いたんだ!

それにしてもさっきの音はなんだったんだろう・・・。
海面に目を移すと・・・え???

この海凍ってますけど・・・

凍った海の氷をかき分けるようにこの船は港へ向っていた。

氷山じゃなくて良かったね。
それにしても寒い!!!

ヘルシンキへ到着したキヨシは人生で初めてのことを経験することになる。
まさか、あんなことになろうとは、この船上では考えもしなかった。

ただただ・・・ものすごく寒かった。

40【北欧満喫】

1990-01-20 | 【イタリアに恋したわけ】
せっかくスウェーデンまで来たんだ!フィンランドもノルウェーも見てみたい。

そんなことをモーリンと話しながら「北欧満喫一人旅」の計画を立てた。
どうやら、ストックホルムからフィンランドへは船があるようだ。しかもキヨシのパスで「タダ乗り」ができるらしい。

まず、フィンランドまで、「夜行客船」で向って、また「夜行客船」でストックホルムに戻ってくる。
翌日にはノルウェーへ列車の旅。フィヨルドも見に行こう!

モーリンも一緒に行きたがったが、学校があるのでこればかりはどうしようもない・・・。

ほとんど手ぶらにちかい状態で北欧満喫一人旅を開始した。
まず、モーリンとストックホルムまで出てきた。
モーリンは、ちゃんとキヨシひとりで帰ってこられるかしら?と心配していた。

ストックホルム市街ブラブラ散歩した。
とても冷たい空気が透き通った都会だった。

キヨシがタダで乗れるその「夜行客船」の船乗り場まできた。

本当にあれに乗れるの???!!!

とふたりしてビックリした。

とてもとても大きな超豪華客船だった。

アインス・・・ツヴァイ・・・ドライ・・・

モーリンと一緒に窓の数を数えた。
もちろん縦に数えた。

10個!!!

要するに10階だてじゃないか~!
ホントにこの船にタダで乗れるの???

二人とも口をぽか~ん。だった。

受付までモーリンがついてきてくれた。
やはり現地人がそばにいてくれると心強いもんだ。

心配はしていたが、キヨシのパスで乗船することができた。
ただし、3等客室のみだそうだ。
キャビンへは立ち入ることができません。ということだ。

キャビンってなんだ???

そんなことはどうでも良かった。こんなに大きな客船に乗れるなんて!!!
そんな気持ちでいっぱいだった。

タイタニックで旅に出るような気分だ。
モーリンとはしばしのお別れだ。

モーリンは船が出るまで見送ってくれた。



39【湖のステップ】

1990-01-19 | 【イタリアに恋したわけ】
翌朝、太陽が昇る前に目が覚めた。

ぐっすり眠れた。
さすがに2度目の27時間の列車はキツかったのだろう。

「何時かな・・・」

時計を見て飛び起きた!10時半過ぎてる!
なのにまだ、「未明」の景色だ。

こりゃ、白夜の逆だな・・・

リビングへ行くと、モーリンは退屈そうにキヨシを待っていた。
 「おはよう!よく眠れた?」

「ゴメンゴメン!寝過ぎちゃったよ!」

今日は、モーリンと森を散歩する約束をしていたのだ。

太陽が昇り始めた頃、ソリを手にしたモーリンとキヨシは森の「湖の上」に来ていた。
完全に凍ってしまった湖の上でソリ遊びをした。

「一生ここで暮らしてもいいな」

スウェーデンの郊外にあるその湖はキヨシをそんな気持ちにさせてくれた。
スウェーデンの森にはひょっとして妖精なんかがいるんじゃないかな?とまで思った。

少し遊んだだけなのに、もう、夕暮れだ。太陽はあっという間にしずんでしまう。

モーリンのウチに帰ると、キヨシは、レスリーからのエアメールならぬ「トレインメール」をモーリンに渡した。

その夜、キヨシとモーリンはレスリーに手紙を書いた。





38【またもや27時間】

1990-01-16 | 【イタリアに恋したわけ】
わけもわからない涙をたくさん流した成人の日。
孤独と焦りに負け、泣き疲れて眠った。
翌朝、「前へ」進むべくストックホルムへ向う列車に乗った。

また27時間かかるその列車・・・道連れとなる旅の人はいなかった。
北へ向う列車内はだんだんと冷えてきた。
比較的暖冬だったヨーロッパの冬も、さすがに堪える。
この日は寒くてぐっすりとは寝つけなかった。

元気を取り戻すには友達がいちばん!
この27時間を耐え抜けば、モーリンが出迎えてくれる!

ストックホルム駅には、定刻通り到着した。
まだ、午後になったところだというのに辺りは薄暗く、夕方から夜になろうとしていた。

列車を降り、駅の出口へ向おうとしたとき、懐かしい声がした。
 「キヨシ!」
モーリンが待っていてくれたのだ。
駆け寄ってくるモーリンの目には涙が浮かんでいた。
恥ずかしそうに、モーリンは涙を拭くと、力いっぱいキヨシを抱きしめた。

嬉しい歓迎だった。
物静かなモーリンのお父さんはドイツ語で「よろしく!」と握手してくれた。

わざわざ、数10キロも離れたモーリンのウチからわざわざ車で迎えに来てくれていた。

車の中で、モーリンはキヨシに元気を分けてくれた。
たとえ日本でキヨシが取り残されてしまっても、今の経験はきっとキヨシのためになる。浦島太郎にはならないぞ!と訳の判らない不安な気持ちを封印することにした。

モーリンのウチにつくと夕方だというのに完全に「夜」になっていた。
北極星がすごく高い位置にあった。

モーリン一家の夕食は日本食に近いものだった。
モーリンのお母さんがキヨシのために日本食を頑張って作ってくれたらしい。

モーリンのお父さんもお母さんもドイツ語でコミュニケーションをとろうと頑張ってくれた。

その気持ちがありがたくて涙が出た。
ここのところ涙を流してばかりだ・・・。


37【パリへそして・・・】

1990-01-13 | 【イタリアに恋したわけ】
リスボン駅で、次の目的地を探していると、いいのがあった。一気にパリまでいけそうな列車があった。夕方ここを出ると、夜にはパリか・・・意外と近いんだな・・・。

とりあえずこれに乗るか!パリでホテル探してもいいし、夜行に乗って一気にストックホルム目指してもいいし!

そんなお気楽な調子で列車に飛び乗った。
始発なのでコンパートメントはがらがらだった。
座席に置いてある運行表を眺めていると・・・

え?????

パリまで「数時間」と思って乗った列車は走り始めていた。
パリまで「1日と数時間」だったのだ。

27時間以上もかかるのかよ・・・
そらそうだわな・・・パリは遠いよな・・・。

乗ってしまったものはしょうがない。
わかったよ!行ってやるよ!待ってろパリ!翼よ!あれがパリの火だ!って翼ないしな・・・オレもこの夜行列車も・・・。

少々壊れ気味だったキヨシのところへひとりの女性がやってきた。

 「こんばんは」

いきなり日本語だった。

 「ここいいですか?」と不安そうに聞く。

「いいですよ!どこまで行くんですか?」と聞くと、ポーまで行くのだという。
彼女はそのポーというところでフランス語の語学留学に来ていて、小旅行中だという。なんでもアフリカ・モロッコまで行った帰りらしい。

どうやら、幾度となく列車で危ない目にあったらしい。それで、日本人のいるコンパートメントを探していたそうだ。

いろんな人と出会うものなんだな・・・旅って。

お互いの足取りなど、話をしているうちに、いつの間にか眠っていた。

翌朝まだ暗いうちにコンパートメントの物音で目が覚めた。
どうやら、彼女の降りる国境の駅に到着したようだ。

 「おかげで安心して眠れました。ありがとう」と言って彼女は降りていった。

さて、これからまだ・・・朝が来て、昼が来て、夕食食べてもまだパリには着かないのか・・・。

少々うんざりしながら列車の出発を待っていた。

拷問か罰ゲームのような列車の長旅はようやくパリというゴールまでたどり着いた。

寝て、起きて、もっかい寝て起きてもまだ車中・・・いいかげんうんざりしていたので、パリでは少し滞在することにした。
しばらく列車には乗りたくない!そう思ったからだ。

パリの安宿にはテレビがついていた。久しぶりに見るテレビだ!
チャンネルをコロコロかえていると、なんと日本のアニメを放送していた。

もちろんフランス語に吹き替えてあるが、日本のアニメだ。懐かしかった。

翌朝、連泊予定のホテルに荷物を残し、ちょこちょこっと小奇麗にして、シャンゼリゼーを歩いてみた。
おお!シャンゼリゼーだ!
ラ・セーヌだ!
凱旋門だ!
エッフェル塔だ!

と少々ミーハーにパリを楽しんだ。

あ、そうだ!パリへ来たからには、あの人の作品に会っておかなければ!
ミーハーついでにルーブル美術館へ行くことにした。レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリサを見るために。

翌日、ルーブル美術館を満喫し、パリをウロチョロしていると「日本人会」なるものが目に入ってきた。
あてもなくそこへふらりと立ち寄ると日本雑誌が閲覧できるように置いてあった。

一冊手に取ってみる・・・。
見なければよかった・・・。
たった数ヶ月日本から離れただけなのに、「取り残された」という焦燥にかられた。

衝撃的だった。
知らないところで日本が変わっていく・・・
そんなくだらないことを真剣に考えていた。

1990年1月15日・・・キヨシの「成人式の日」だった。
パリの凱旋門で、たったひとりの忘れられない成人式だった。



36【種子島とポルトガル】

1990-01-11 | 【イタリアに恋したわけ】
やる気のないずっこけバックパッカーズはとりあえず安ホテルを探した。
ここポルトガルではフランス語が重宝する。

オーストラリア人のDJが頑張って安ホテルを押さえてくれた。
ドイツ語担当のキヨシには出番がなさそうだ。

三人で港まで向った。そこのモニュメントには日本のことも紹介してあった。歴史でならった年号が地面に記されていた。種子島に来たときのものだ。
おお!ちゃんとこちらでも歴史になっているんだね!
この港から出港したのかな・・・?

そんなことを考えながら、大西洋を眺めた。
東の果ての国から19歳の少年が西の果てにやってきたのだ。

どうだ!といわんばかりにふんぞりかえってみた。

カナダ人のマイケルとオーストラリア人のDJにはどうでもいいことだったらしい。

なんとも古めかしい城壁を見学し、適当に食事をとった。
何とも塩の味が濃かった印象しかない。

ホテルへもどるとキヨシは自分宛に絵ハガキを書いた。
400年以上も前に、ここから日本へやってきた人もいるんだな・・・この絵ハガキも日本へ招待してやろう!と思って書いた。
実家の自分宛に。

-----
しかしこの絵ハガキは永遠に日本へ来ることはなかった。未だに到着しない・・・。400年以上も前の船でも、いいかげん到着してるだろうというのに・・・。
-----

夜になるとマイケルとDJは何やら昼間買ったものを取り出しライターの火で炙っている。

おいおい、なんだよそりゃ・・・!

どうやら、要するにいけない麻薬らしい・・・。ここでは合法なのか?そんなことはどうでもよかった。

こいつらと一緒にいると、面倒なことになるな・・・と思い、「電車酔い」のせいにして、そうそうに眠ることにした。

翌朝、ずっこけバックパッカーズは解散した。それぞれ次の目的地が異なったからだ。

さあ、またひとりになったぞ・・・どこへ行こうかな・・・。

言葉が通じないのはつらい・・・かといってフランスを素通りしてモーリンの待つスウェーデン・ストックホルムまで行けるはずもないし・・・。

35【西の果てへ】

1990-01-10 | 【イタリアに恋したわけ】
あのやる気のないホテルに戻り、休むことにした。

マドリッドは「ゲルニカ」だけでお腹いっぱいになってしまった。

翌朝早く、マドリッドの駅を後にした。
向った先は・・・西の果て?ポルトガルだ。

大西洋を見に行こう!と思いそう決めた。

終着駅リスボンまでは実に遠かった。
とにかく遠さを感じた。

昼間の移動は拷問だな・・・こりゃ。

車窓からの風景は魅力的だった。
どこか南米を思わせる雰囲気だ。
しかし南米など行ったこともない・・・。
なのになぜか南米っぽさを感じた。

母を訪ねて3000里のマルコがいそうな風景だった。

しかし永遠と続く同じ南米的景色にスグ飽きてしまった。

さて、昼間の移動が精神的限界に近づいた頃、時計を見ると到着まであと1時間程だ。
同じくマドリッドから乗ってきたカナダ人のマイケルとオーストラリア人のDJも、やっと到着するよ・・・と、ホッとした表情だった。

キヨシには珍しく?今回の旅の道連れはこの野郎どもだ。
なぜかカナダ人ではなくオーストラリア人のDJの方がフランス語を話す。この二人も適当に知りあった道連れだそうだ。

なんとかかんとか英語でコミュニケーションをとっていたが、さすがにネイティブと話すのは疲れる・・・。
英語も勉強しないとな・・・。

さぁやっとこさ到着の時刻が近づいてきたぞ!
そう思ったが、列車はまだリスボンに到着する気配がない。
相変わらず南米の景色の中を突っ走っていた。

それもそのはず・・・ポルトガルとスペインの間には1時間の時差があった・・・!
スペイン時間に合わせた時計が到着時刻を示していても、到着地のポルトガルではまだ一時間前だ・・・。ややこしい話だ。

なんてこったい!!!
ずっこけ3人組は笑うしかなかった・・・。

時計をポルトガル時間に合わせた。

34【マドリッドのあの人】

1990-01-10 | 【イタリアに恋したわけ】
列車は終点マドリッドに夕方に到着した。

クリスティーナから言われていた。スペイン国内の鉄道はあまり治安がよくないからできるだけ昼間に移動した方がいいよと。

なんでも、ここのところ鉄道あらしのような事件が頻発しているらしい。
用心にこしたことはないので、できるだけ昼間の移動にスケジュールを変更した。

さて、とりあえず安いホテル安いホテル・・・っと。
駅のインフォメーションでもらった地図を頼りに安そうなホテルを探し歩いた。

クリスティーナに教わったスペイン語が役に立った。
ものすごくやる気のなさそうなホテルを見つけた。

値段を聞いてみると案の定、安かった。
 「2泊するならもう少し安くするよ」
と言ってくれたのが判ったので、連泊することにした。
やはり現地語で話すと少しは対応がよくなる。

今日は列車疲れがひどかったので、部屋でゆっくり休むことにした。
スペインに入ってからどうも列車の揺れが大きいようで、珍しく列車に酔ってしまったようだ。

シャワーは共同だった。
部屋を出て、シャワー室を探してみるが見当たらない・・・。

フロントに降りてみたが、やる気のなさそうな係の人の姿が見当たらない。
フロントの奥の部屋から物音がする。

ドアのないその奥の部屋をのぞき込むように声をかけた。
「シャワーどこですか?」と!

そしたら、「ここじゃない!!!!!」と大きな怒鳴り声が。

なんと、そのフロントの人は奥の部屋で、「ラブラブ真っ最中」だった。
バスローブのようなものをはおってフロントから出てくると、さっきは大きな声を出してゴメンナサイ。シャワーはこっちよ!と恥ずかしそうに教えてくれた。

どうやら宿泊客はキヨシひとりだけだったらしい。
部屋が余ってるんなら、ちゃんと部屋に鍵をかけてラブラブしてくださいなっ!

そんなホテルでも翌朝の朝食はきちんと用意されていた。
やる気のないフロントにプラド美術館への行き方を尋ねるてみると、意外にも親切に教えてくれた。

そんなこんなでやって来ました。プラド美術館。
あの人のあの作品を探さねば!

そう。ピカソのゲルニカを探しにきたのだ。

それは、なかなか見当たらなかった。
あれ?ここじゃなかったのかな・・・?
と大きな広間で一息ついていたとき突然それは視界に飛び込んできた。

でかい!

その作品の大きさにしばしぼう然としていた。
伝わってくるよ!ピカソ!

素晴らしい絵を描いたね。
意味はよくわからんが、伝わってくるよ!

実に偉大なものを見つけた気分になった。


33【寂しいバルセロナ】

1990-01-09 | 【イタリアに恋したわけ】
クリスティーナの街タラゴーナから1時間ほどでバルセロナ駅に到着した。
なんとも寂しいバルセロナだ。

キヨシはひとりで駅のインフォメーションに向かい、地図をもらった。

二晩、キヨシはクリスティーナの部屋でグッスリと眠った。
クリスティーナはお母さんと一緒に眠った。

夜遅くまで話し込んでいたのが悪かったのか、今朝のクリスティーナはぐったりしていた。
完全に風邪をひいてしまったようだ。

熱っぽい顔をしている。
 「おおキヨシ・・・わたし風邪をひいてしまったわ・・・」
甘いクリスティーナの声はさらに甘くなっていた。
つぶらなクリスティーナの瞳はさらにウルウルしていた。
タラゴーナの駅まで迎えに来てくれたときのその甘い声は風邪の前兆だったに違いない・・・。

残念だけれど、キヨシはひとりでバルセロナに来ていた。

母カルメンは安いホテルを調べてくれて、予約をとってくれていた。
ありがたいお母さんだ。グラシアス!カルメン!

今日はここで一泊することになった。

バルセロナといえば・・・オリンピック!!!
2年後の1992年バルセロナオリンピックをひと足先に見物するんだ!
とサグラダファミリアの存在すら知らなかったキヨシはオリンピックスタジアム建設現場へと向かった。



つまらなかった。



確かにそんな建設中の競技場を見ても楽しいわけがない・・・つまらなかった。

適当にバルセロナの街を散策しながら思った。
こんなことならタラゴーナにいればよかった・・・。

トボトボ歩いていると大きな教会が見えた。
かっこいい教会だな~!とぼーっと見ていたのが後で知った「サグラダファミリア」だったとは・・・。

明日は、マドリッドに行こう。
たしか、あの人のあの絵がある美術館があったはずだ・・・!


32【クリスティーナとの再会】

1990-01-08 | 【イタリアに恋したわけ】
お昼前にバルセロナで乗り換えた列車がタラゴーナという駅に到着した。

ここだ!クリスティーナの駅だ!

あやうく乗り過ごしてしまうところだった。
ターミナル以外の駅では注意していないと、アナウンスも適当なのでホントに乗り過ごしてしまいそうになる。
ここの駅でもやはり恒例の地図をもらった。
もう、何枚たまったかな・・・。

駅を出ると初めて感じる雰囲気だった。
そうだ。スペインへやってきたのだ!

「情熱の国」というよりは歴史深い国を感じた。
両替を済ませ、クリスティーナのウチへ電話した。
いつのまにか、各国の電話から平気で電話できるようになっていた。手慣れたもんだ。

電話にはクリスティーナのお兄さんらしき人が出た。
片言のスペイン語で「あたしはにほんじんよ。キヨシです。クリスティーナ?」

後で教えてもらったが、どうやらこのときのキヨシのスペイン語は女性言葉だったらしい。

しかし難なくクリスティーナに代わってもらい、駅に来ていることを伝えると「迎えに行くわ!駅前のカフェで待ってて!」とキヨシの訪問を歓迎してくれた。

ここ、タラゴーナはローマ時代からの由緒ある港町のようだ。しかし日本人はほとんど見かけない・・・。

カフェを飲むお金も節約だと思い、カフェの外で地図を眺めながらしばらく待っていると、一台の車がやって来た。

プップ~!「はろーキヨシ!!」

懐かしいクリスティーナの甘い声だ。甘い声に磨きがかかったように聞こえた。
助手席に乗り込み、タラゴーナの古い街を抜け、しばらく行くとクリスティーナのウチに到着した。

家に入るとさっき電話にでた兄が出迎えてくれた。
その兄は、ひとしきりスペイン語でキヨシに話しかけた後、「カムイン!」と家の中に案内してくれた。

クリスティーナは何やらこの兄にスペイン語で話をしている。
スペイン語を話すクリスティーナを見たのは初めてだった。
兄ほどではないにしろ、クリスティーナもかなりの早口だった。

キヨシはスペイン語が判らないんだから、ゆっくり英語で話さないとダメよ!って言ったじゃない!というようなことを兄に話しているようだった。

ダイニングではクリスティーナのお母さんが出迎えてくれた。
クリスティーナの顔をチラチラ見ながら、ゆっくりとスペイン語で自己紹介してくれた。

母の名は「カルメン」といった。
自己紹介中にも母カルメンはフラメンコの振り付けを見せてくれた。
情熱の母カルメンはとても素敵なお母さんだった。

ちょうど、お昼ご飯を用意していたところだったらしく、急遽キヨシの分まで作ってくれた。

昼間からなんとも豪勢なメニューだ。パエリアも用意されていた。

クリスティーナが通訳になってくれ、情熱の母や兄たちと楽しく会話できた。
手ぶらで泊めてもらうというわけにもいかなかったので、日本からのお土産はその都度持参していた。
といってもたいしたものではなく、折り紙や、千代紙、和紙などの軽いものばかりだ。

この折り紙を「カルメン」はとても気に入ってくれたようだった。

クリスティーナには使い捨てカイロをいくつかあげた。
開封して、もみもみすると温かくなるよ!と説明しても納得できないようだったので、実際にひとつ開封して持たせてみた。

もんでいるウチに暖かくなった使い捨てカイロに驚いたのか、兄やカルメンに見せては説明していた。
そんなに気に入ってもらえるならとありったけの使い捨てカイロをあげることにした。

随分とキヨシの荷物は軽くなった。
(このときひとつでも残しておくべきだったと後悔することをキヨシはまだ知らない・・・)

夜、クリスティーナパパが帰宅すると、一家団欒がさらに賑やかになった。

翌日、クリスティーナはタラゴーナの古い街を案内してくれた。途中、カフェでコーヒーをご馳走になりながら、スペイン語も教えてもらった。
これからしばらくスペイン滞在が続くだろうから、スペイン語も必要なんだ。
ドイツ人用のスペイン語会話ブックの重要なところをマーキングしてくれた。

ウチに戻ると、また豪勢な昼食を、母カルメンは用意してくれた。
クリスティーナから教わったばかりのスペイン語でカルメンと会話してみた。
 「発音がいいじゃない!通じるわよ!」とほめてくれた。

翌日には、クリスティーナは一緒にバルセロナを案内してくれる話になった。

やった!クリスティーナとデートだ・・・!

どおだエンリコ!うらやましいだろ~!