日本列島旅鴉

風が吹くまま西東、しがない旅鴉の日常を綴ります。

晩秋の大地を行く 続編 - デジタルの功罪

2015-10-06 11:36:00 | 東北
11時半の上り列車を見送って、午前の部はひとまず終了です。改めて駅の周囲を見渡すと、やはり稲刈りは大分進んでいて、見渡す限り黄金色の絨毯だった去年とは大きく違う趣です。しかし、天日干しのはさ掛けが点在しているところもそれはそれで様になっており、撮影の題材として不足はありません。引き続き忙しくなりそうです。
ちなみに、本日はデジタルだけでなくフィルムも使って撮影しています。その場所で一本しか撮れないとすれば、時代の流れでデジタルを使うのが現状とはいえ、何本も撮影できる状況なら、全く同じものを複数撮っても意味がなく、むしろフィルムでも記録しておきたいと思うからです。

フィルムで撮ったことにより、今更ながら気付いたことがあります。デジタルでは機材の性能に頼り過ぎ、集中力が鈍るということです。
フィルムで撮影する場合、ファインダーに列車が飛び込んできた瞬間、その列車の動きを見極めつつ、狙った位置をいつ通過するかを予測し、それに合わせてシャッターを切らなければなりません。人間の反応時間に一瞬の間が開く以上当然のことです。そしてシャッターを切った後はすぐさま顔を上げ、撮った列車が走り去るのを見届ける。自分が三十年近く撮り続けてきた列車写真とは、本来そのようなものでした。
ところが今はどうかといえば、列車がある程度の位置まで接近すると、そこからままよとばかりに高速連写し、顔を上げた瞬間には列車ではなく撮った画像を見ています。五感を研ぎ澄ませて一瞬を切り取ることこそ列車撮影の醍醐味だったはずが、デジタルという文明の利器に頼って堕落し切った現状を自覚したとき、思わず愕然とするしかありませんでした。
画質の鮮明さ、取り扱いの容易さにおいて、デジタル写真がフィルム写真を超えてから久しく、フィルムの生産は年を追えば追うほど縮小されて、今や一部の物好きだけがフィルムを使っているのが現状です。しかし、フィルム写真にはデジタルではおよそ味わえない楽しみがあることを、今回再発見したとでも申しましょうか。今や一本撮れば二千円に達するフィルムではありますが、ここぞという場面では引き続き使って行きたいものだと思います。

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