イワオヌプリ奥の硫黄川に、廃鉱がありますよね。秋にそこへ行った時、「ここで採掘した硫黄を、どうやって麓へ降ろしたのかな?」と疑問に思いました。人力で担ぎ降ろしたのかな?
そのことを思い出し、職場の上司で地質に詳しい人に聞いてみました。上司は、「当時は人が住んでいただろうし、近くに温泉もあったからねー。あ、その温泉は今は無いよ。鉱山と温泉と倶知安を結ぶ、きちんとした道があったんじゃないの?馬かロバでも使ったのかねー?」と推理していました。
翌日、その上司が「あったよー。」と1枚の紙をくれました。「地形図ですか?」「いやいや、地質図。もう、古本屋でしか売ってないからね、これ。」と、ちょっと得意気。
さすが上司!なぜこんな古い物をお持ちだったのか、そのマニアックさの方が硫黄鉱山より気になるところですが、ありがたくいただきました。(もらったのは原本ではなく、もちろん複写です。)この方、地質のプロで、何でも気さくに教えてくれる良い人なのです。
(地)質調査所の字体が古い!なにしろ、昭和30年でございます。(左下の書き込みは上司のもの)

↑ さて問題のイワオヌプリのあたりです。現在、硫黄川に沿って廃屋の跡がぽつぽつある所には、画像では見づらいけれど、かなり多くの建物があったことがわかります。また、「岩雄登鉱山」からは硫黄(S)が、「岩雄鉱山」からは鉄(Fe)とマンガン(Mn)が採れたこともわかります。ちゃんと2つを呼び分けていたんですね。
硫黄川下流には「小川温泉」の文字。これが「今は無い温泉」ですね。調べてみると、かつてあったヒュッテワイスホルンの源泉だったみたいです。ただ、道らしきものは見あたりません。地質図だから道は表示されていないのか、もとから道は無いのか、道が無いとしたら硫黄搬出の方法は?疑問が残りました。
これも調べてみると、「搬出用索道(リフト)が倶知安市街と元山を結んでいた」とのことです。つまり掘り出した硫黄はリフトで倶知安に降ろされていた、ということですね。でも、距離がかなりありますよね。どんなリフトだったのかな?それと、この鉱山はなんと江戸時代末から掘られていたそうです。ま、江戸時代はさすがに人力搬出でしょうね。
それと、「ヌプリ」には「登」の漢字を当てていたんですね。いろんなことがわかっておもしろいなー。(私が知らなさすぎるだけ?)

↑ ん?この町名は何?狩太? これまたさっそく調べたところ、なんとニセコ町の旧名でした!知らなかったよー!(私だけ?) 「ニセコ」は、ニセコアンヌプリから付けた名前なのでした!