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<2010年トピックス> 『伊能図フロア展えひめ』in 伊予市 ― 大盛況!

2010-12-28 23:39:05 | 日記・エッセイ・コラム

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  伊予市しおさい公園・市民体育館で開催された『伊能図フロア展えひめ』は、8
5日から8日の日程で、県内外から7800人を超える入場者を得て大成功した。

www.inopedia.jp/index.asp?patten_cd=12&page_no=844 

今回のフロア展は、伊能忠敬が測量を開始して今年で210年になることを記念した四国・愛媛で初公開となる全国巡回展。アメリカ議会図書館・国立国会図書館をはじめ内外各地の優良な「大日本沿海輿地全図」の大図214枚と中図8枚、小図3枚を最新技術によって復元・彩色し、原寸大で体育館アリーナに展示をするという大がかかりなミュージアム事業。P1040228
  会場には横約
50メートル、縦40メートル、畳約1畳分のプレート255枚が敷きつめられ、地図の上を歩きながら測量隊の足跡を体感できるというユニークなものだった。来場者は、江戸時代の地名や海岸線・町並みの絵図をたどり、写真を撮るなどして200年前の伊能測量隊の業績に大きな感動。
 
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  今回の伊予市での開催には、伊能忠敬が投宿した宮内小三郎家が現存しており、「灘町・宮内邸を守る会」など地域での伊能測量隊の調査研究や学習が背景にあった。伊能忠敬測量隊は、文化
5(1808)729日に上灘村(双海町)から森海岸を測量し、宮内小三郎家に投宿。大雨のため灘町に滞在し、翌日には再度、森海岸から本郡村・吾川村を測量し、松前・三津へと足を運んでいる。 

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  こうした地域の歴史をたどる体験学習として、68日には伊予農業高校の生徒による伊予市・森海岸での測量体験が行われ、当時の測量器材の複製を作成して海岸線を測量するというプレイベントも実施。松山市内でも74日には、愛媛大学付属中学生らが当時の伊能図に沿って道後・城北地区を歩く体験学習も行われるなど、次代を担う青少年をふくめ測量隊の偉業やかつての愛媛に思いをはせる「学習参加型」のミュージアム事業が実現できた。

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伊予市には、愛媛県下で唯一、伊能忠敬が投宿した本陣・宮内小三郎家が奇跡的に現存している。森海岸を測量した足跡をたどり、完全復元した伊能図が、その森海岸にある「しおさい公園・市民体育館」で200年の時を超えて現代に伝えられ、公開された。伊能忠敬は、完成した伊能大図のすべてを見ることはなく天命を遂げた。天国にいる伊能は、この様子をどのように眺めているだろうか。

灘町・宮内邸の保存とあわせた「郡中ミュージアム」建設時には、伊能忠敬の記念碑とともに、愛媛の足跡・伊能忠敬コーナーをぜひ実現したいもの。夢は広がる。

 



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20周年を迎えた長浜「黒壁」のまち再生

2009-04-04 00:09:40 | 日記・エッセイ・コラム

 P1020258_edited 滋賀県長浜市にある「黒壁」。市民が設立した会社による中心市街地の再生の事例として広く知られている。3月の初旬、「黒壁20周年事業」特別常設展の見学をかねて、ぶらりと町を歩いてきた。「まちづくり三法」ができる十数年前から何度となく訪れている「黒壁」のまちだが、昨今の不況の影響か、やや寂れた印象があった。

 P1020339_edited 株式会社「黒壁」が設立されたのは1988年。バブル経済の真っ只中であったが、明治33年に建築された第百三十銀行長浜支店、「黒壁」の愛称のあったこの建物の保存運動からまちの再生がスタートした。市民有志で資金を出し合い、第3セクターの会社を立ち上げ土地・建物を買い上げ、世界のガラス製品を扱う「黒壁ガラス館」をオープン。旧北国街道沿いの空き店舗を次々と「黒壁」関連店舗や工房に再生した経験は、あまりにも有名である。当時の専務・笹原司郎さんに話しをお聞きしたこともあったが、「ガラス」と「国際性」というコンセプトとの出会いを熱っぽく語っていたことを思い出す。P1020265_edited 1980年の北陸自動車開通を前後したバイパス沿いの西友・平和堂などの郊外型ショッピングセンターの進出計画を背景に、長浜の旧市街地の活性化を模索した青年会議所やロータリークラブの会長、地元銀行など企業経営者のリーダーたちが動いた。笹原氏も倉庫業の経営者であり、町なかで商売を営んでいたわけではない。パトリオティズム(愛郷心)に燃える起業家たちだった。

 P1020316_edited 「まちづくり三法」は、「黒壁」の経験からTMOという事業手法を採用したものの、手厚い制度支援があった全国のTMOは行き詰まり、新しい「まちづくり三法」のもとでも中心市街地活性化の道のりは厳しい。市民ディベロッパーとしての先駆者「黒壁」から学ぼうとする視察者は、今でも全国各地から後をたたない。

 P1020320_edited 「黒壁」の成功を評価する視点として、西郷真理子氏らは、中心市街地における町づくり会社のビジネスシステムである「合意形成のシステム」(プラン)と「開発のシステム」(プログラム)が不可欠としている。合意形成やビジョン・プランづくりに時間がかかり実践に至らないケースは、とりわけ中心市街地の商業者・地権者の権利関係の複雑さに起因している。福川裕一千葉大学教授は、土地の所有と利用を分離し、合理的な土地利用を実現していくことが中心市街地活性化の成否を握るとしている。そのためにも地権者とともに一定の開発利益を保障しつつ再生を担うディベロッパーとしての町づくり会社が必要になる。「黒壁」では中核施設を市民資本で取得・経営し、その他の事業は借り上げ、テナントをシーリングして好循環をつくり、エリア全体を戦略的に開発した先進例だという。

 P1020314_edited 「黒壁ガラス館」入館者は、年間約300万人、借家法式による「黒壁グループ協議会」のネットワークは30をこえ、一種のテーマパークビジネスとして観光客を集客している。しかし、小売業を観光型に移行させても、地元の居住者を支援する商店街振興との関係は依然として課題が残されている。旧北国街道の東側にある二筋のアーケード街や大通寺の表参道も基盤整備事業がなされているものの、シャッターの閉まった店も目に付く。

 P1020273_edited そのなかでも「プラチナプラザ」というシルバー世代が経営する野菜工房・おかず工房・リサイクル工房、「まちづくり役場」という金物店の町屋を借り受けたインフォメーション・センターなど様々な市民主体のまちづくり活動が、空き店舗を活用して展開されているのも「黒壁」ならではである。「まちづくり市民事業」の創造性・自発性に支えられていることが、「黒壁」のまち再生の成功要因なのかもしれない。

 P1020256_edited 私は長浜「黒壁」の市民力には、歴史的な蓄積・伝統と自治的な起業風土を抜きに語れないと考えている。秀吉が築城した長浜城と「楽市楽座」、絹織物・浜縮緬の特産地として栄えた歴史、長浜八幡神社の曳山まつりや子供歌舞伎、江戸時代からの北国街道沿いの歴史的町並み。地域固有の歴史的文化的環境が今日の市民力を育んできたのだと思う。2008年4月からの「黒壁20周年事業」では、長浜城歴史博物館の学芸員による「長浜と黒壁」の出前講座が1年間にわたって開催されていた。

P1020377_edited  「黒壁」保存運動からまちの再生へ。長浜には1984年に市民が主体的にまとめた「博物館都市構想」がある。株式会社「黒壁」は、その実現をめざしているのだという。20年の節目を経て、これからも長浜「黒壁」の市民力の発展について定点観察の旅を続けてみたい。


2009年新春 正月番組『鶴瓶の家族に乾杯』 -翠小学校・宮内邸を全国紹介

2009-01-03 22:22:25 | 日記・エッセイ・コラム

 P1010441_edited 2009年がスタートした。新年早々うれしいことに、1日のNHK正月SP番組『鶴瓶の家族に乾杯』で、伊予市の各地域が全国へと紹介された。双海町・下灘駅の「日本一海に近いプラットホーム」から古田敦也前ヤクルト監督と歩く伊予市出会いの旅。古田氏が訪ねた翠小学校は、愛媛県下で一番古い現役の木造校舎。「いい学校やなあ」と感激するこの学校は、一昨年前から環境省・エコ改修モデル校として環境学習に取り組みながら、21世紀型の地域の学校をいち早く実験している。次期アメリカ大統領オバマがめざす「グリーン・ニューディール」に示されているように、世界は環境エネルギー革命へと大きく転換をはじめているが、日本の動きはまだ鈍い。00241454_021 こうしたもとで翠小学校の取り組みは、全国初の木造学校のエコ改修であり、愛媛県で初めての事例として注目されている。番組の中でも、全校生徒30名の小さな翠小学校への「誇り」が、子どもたちの生き生きした姿として溢れ出ていた。地球環境時代における将来の学校のみならず公共建築のあり方を伊予市から発信しているのだ。詳しくはhttp://www.ecoflow.go.jp/blog/17/を参考にしてほしい。

 Img_0017_edited もう一つ、伊予市の「宝」・宮内小三郎家も全国ネットで紹介いただいた。「立派な家やなあ」と、カメラが鶴瓶とともに江戸時代の主屋の内部に入り、奥の庭を通って新隠居の玄関から真澄さんに声をかける設定。主屋の一角を借りている散髪屋のカドタさん夫婦と宮内家の愛娘まひろちゃん、後のビデオメッセージでは真之助君の家族も再登場した。郡中のまちづくりの歴史的象徴でもある灘町・宮内邸。「今年はギャラリーを開きたいので協力して」と、真澄さんからうれしいメッセージが届いた。若い後継者の家族によって、町の歴史が受け継がれていくことを願いたい。世界的不況の影響が懸念されている中でも、今年は何か幸先が良さそうな予感がする。2009年新春の「家族に乾杯」。


伊予市出身のノンフィクション作家・城戸久枝さんの受賞作、来春NHKドラマ化

2008-12-31 00:14:14 | 日記・エッセイ・コラム

 P1010317_edited_21 2008年の秋は文化行事が目白押しだった。今年の4月、厚生年金事業振興団の施設であった「ウェルピア伊予」を伊予市が取得したことにより、市民の総合文化施設としてどのように活用するのかが問われた1年目。11月8・9日には「いよし市民総合文化祭&ふるさとフェスティバル」が開催され、子ども美術展・アートフェスティバル・障害者ふれあいのつどい・郷土芸能のつどい・ふるさと芸能大会・国際交流フェア・文芸大会など実行委員会による多彩な文化行事が開催された。

 Img_0251_edited_5 11月23日には、『あの戦争から遠く離れて-私につながる歴史をたどる旅』(情報センター出版局)で今年度の第39回大宅壮一ノンフィクション賞・講談社ノンフィクション賞・第7回黒田清JCJ新人賞の三冠を受賞された、伊予市育ちの城戸久枝さんの講演会がもたれた。中国残留孤児の父幹さんの半生を描いたルポ。中国に取り残された孤児たちの集団訪日調査が始まったのは81年だったが、70年に文化大革命のさなか帰国を果たした父親の数奇な半生に向き合い、自分につながる「歴史」の記憶を今日に引き継ぐ感動的な作品である。城戸さんは、からたち幼稚園、郡中小学校、港南中学校から松山南高へと伊予市で育った。転機は徳島大学3年生の夏、中国・大連市でのホームステイだったという。街の至るところに旧満州時代の名残りがあるのに自分は何も知らない。残留孤児だった父の生きていた中国を知ろうと、吉林大学に国費留学を決意した。Img006_2 卒業後、出版社勤務などを経て2005年からフリーのライターに。「日本生まれの中国残留孤児二世」として残留孤児、残留婦人、二世・三世への取材活動や国家賠償訴訟を追い続けてきた。そして10年の年月をかけて取材を重ね、長編『あの戦争から遠く離れて』が昨年7月に出版され、新聞・雑誌の書評欄でも大反響を呼んだ。 父幹さんと養母・淑琴との愛情と波乱に満ちた時代とともに、娘・久枝さんが父の足跡を現地に訪ね、歴史をたどる姿は、多くの感銘を与えてくれる。好きな言葉は「車到山前必有路」(困難があっても進めば必ず道は開く)。中国留学中にお父さんから受け取った手紙の中の一節だそうだ。Img_0269_edited 講演会でも紹介いただいたが、この作品を原作としたNHKのドラマ化が決定した。ドラマのタイトルは『遥かなる絆』。2009年4月から毎週土曜日に6回放送される。演出は『大地の子』を手掛けた岡崎栄さん、久枝さん役は『がんばっていきまっしょい』の鈴木杏さんとのことだ。八幡浜市や伊予市などでのロケもスタートしたという。これとは別にNHKドキュメンタリー番組(3月6日P8~放送)も企画されていると聞いた。

 Img_0328_edited_2 この日の文化講演会に続いて、25日には母校・港南中学校で全校生徒を対象に「夢を実現すること」と題した講演会が開かれた。 城戸さんの姉で音楽活動をしている一江ウタカさんの演奏や中国の「植樹歌」も披露してくれた。城戸久枝さんの作品と来春のNHKドラマ化によって、日本と中国の悲しく複雑な歴史を振り返り、家族の「絆」、日本と中国の「絆」へのメッセージとして全国に発信されていくことを期待したい。「車到山前必有路」-愛媛・伊予市発、日本・中国へ。


郡中三町独立200年・佐伯矩博士のこと

2008-12-27 17:20:07 | 日記・エッセイ・コラム

 Img004 2008年は、伊予市の歴史資源からみて記念すべき年であった。まず「郡中三町独立200年」。文化5年(1808)8月、灘町・湊町・三島町が町の発展を背景に、これまでの米湊村・下吾川村の郷(村方)から独立することを幕府に認められ、自治による町政が始まって200年目にあたる。この独立協定書である『郷町引離二付為取替証文』(8月11日)、湊町の安政『大地震記録』がこのたび発見され、伊予市指定文化財に指定された。奇しくも同じ文化5年7月29日、伊能忠敬測量隊が上灘から郡中の測量のために本陣・宮内小三郎家に投宿していた。

   この200年前の出来事を再現すべく、7月28・29日、宮内家で『郡中町方文書』『伊能忠敬測量日記・米湊図』『宮内家・幕府巡検使文書』などの展示と愛媛県歴博主任学芸員・安永純子さんを招いたギャラリートークを開催。伊能の弟子・東寛治の描いた『大洲領海岸実測図』なども紹介され、伊予の測量技術の高さや矢野玄道家に残された測量道具など、宮内家との所縁についても興味ある話を聞くことができた。伊能忠敬らの直前の時機を得た投宿が、宮内家など町方による「自治都市・郡中」を祝う意味さえあったのではと推測される。

 Img_0009_5 栄養学の創始者・佐伯矩博士もまた、伊予市の「宝」である。11月3日、灘町・栄養寺で佐伯矩博士の顕彰碑設立除幕式が開催された。2008年が博士の没後50年であることを記念して、その業績を称え、食育や食文化など今日的な意義を問い直すことを目的に事業が行われた。博士は3歳のとき、医者であった父卓爾、母シンとともに北山崎・本郡に移り住み、松山中学から第三高等学校(現岡山大学)医学部、京都帝国大学医科学教室に進み、北里研究室では野口英世とも親交を深めた。エール大学大学院で学位を取得し、世界で初めての「栄養学」創始のために尽力し、大正9年(1920)には念願の国立栄養研究所が開設され、初代所長に就任した。注目すべきは「栄養」という公用語も佐伯博士によるものだ。当時使われていた「営養」を「栄養」に改定したのは、少年時代に親しんだ「栄養寺」の寺名にあったと思われる。

  顕彰碑の製作には、砥部・里山房の矢野徹志さんにご協力いただいた。Img_0060 庵治(あじ)石には陶板で焼き付けた博士の肖像画がはめ込まれた。碑文の作成には、佐伯矩博士を研究した日下部正盛先生をはじめ地元の思いが込められている。佐伯栄養学校の卒業生であり元愛媛県栄養士会副会長・合田徳明さんからは、博士の人柄や思い出を話していただいた。東京慈恵医大付属病院の柳井一男栄養部長による記念講演では、科学としての「栄養学」を基本とした「食」が健康には不可欠と提言された。Img_0040_edited 来年の1月京都で行われる日本病態栄養学会の学術集会でも佐伯博士の顕彰企画が予定され、2月の愛媛大学の学術講演会でも愛媛大学大学院医学系研究科・恩地森一教授が基調講演を行うことになっている。郷土・伊予市で育った佐伯矩博士の半世紀ぶりの顕彰事業が、食育・食文化のまちづくりへと発展していくことを期待したいものだ。

 「灘町・宮内邸を守る会」が事務局となって実施してきた2008年の活動。百年・二百年と近世・近代の歴史をひも解きながら、「郡中まちぐるみ博物館」構想による「まちなか再生」へ新たなステップにしていきたい。