~(a)よりつづき
「・・・城にもどらなければ・・・」
「あい」
「でも私は亀之丞殿以外に嫁ぐつもりはありませんから!」
「ふふふ・・・・強情なところは変わってましぇんね(苦笑)」
「ええ、妾のそれは父上譲りですから!(笑)」
昔の姫が戻ってきました。
お家元は真っ直ぐ城に戻らずに、まず龍泰寺に寄るように姫に勧め
姫もその提案を受けました。
夜になっても姫の安否を気遣いながらお家元からの報せを待っていた南渓は
「この莫迦者めが!心配掛けおって・・・」
「申し訳ありませぬ、南渓様」
姫の様子が昨日までとは変わっていたのに南渓は直ぐに気付きました!
まるで憑き物が落ちたように映っていたからです。
南渓は寺の若い僧に姫の無事を知らせるよう城に向かわせました。
おそらくじき直盛が駆け付けるはずです。
庵で南渓と向き合った姫は開口一番に言いました。
「私を尼にさせて頂きとう存じます、南渓様!」
「なに!?尼にじゃと?」
「私は亀之丞殿以外に嫁ぐ気はありませぬ。
それが叶わぬのなら、この世に未練はありませぬ故
どうか尼に、南渓様!」
「・・・・・よくよく考えての事か?」
「勿論にございます!」
梃子でも動かない強さが今の姫には蘇っており
それは嬉しい事でもあり、辟易してしまう事でもありました。
直盛が駆け付けたのは正にその時です。
着くなり姫は父にも同じ嘆願をしました。
「尼になるじゃと!?
ならん、ならぬぞ、斯様な真似を儂が許すと思うてか!
それでは亀之丞が晴れて戻れた暁にはどうする気じゃ!」
直盛はそう言いつつも我ながら空虚な事を言うものよと自らに呆れていました。
今のところ亀之丞が戻って来れる見込みは一切ないのですから・・・
「この上そなたが尼になってしまったら、井伊家はどうなる!?
そうなっても構わぬと申すのか!」
これは本気の言葉でした。
「・・・私が尼になれば意に沿わぬ婿を迎えずに済み
今川家にも充分な名分が立つではありませんか」
「されど尼になってなんとする!?
尼になっては還俗する事が出来ぬのを知らぬそなたではあるまい!」
本来出家し仏門に入るという事は、現世のしがらみを全て断つという事です。
武家の子息がよく出家しましたが、御家の一大事には還俗するのはよく聞く話でした。
けれど尼では二度と還俗出来ないルールです。
直盛の反対は最もでした。
「それでも私は尼になりまする」
「ならん、ならんぞ!」
二人はどこまでいっても平行線でした。
二人の口論を聴いていた南渓には、どちらの言い分も解りました。
けれど解決策が見えません。
ほとほと困ってお家元に助けを求める視線を送りました。
お家元はニッコリ笑って
「その答えはもう南渓しゃんの中にあるはずでしゅ!」
その言葉を聞いた瞬間、お家元と出会った4年前に連れられて行った
元亀4年の世界の記憶が蘇りました!
“私は祐圓尼、次郎法師にございます”
「(・・・・・そうか、そういう事だったのか!)」
謎が解けました。
「直盛殿、姫、お二人の言い分たるや是非も無し。
相容れる気も双方無きに等しい、ここはひとつ拙僧の案を聞いてはもらえぬか?」
南渓の落ち着いた口調に激昂していた直盛も威儀を正しました。
「・・・承りましょう」
「・・・はい」
「最早この姫の出家しようという意思は覆し難いもの・・・
ここは折れては如何か、直盛殿」
「叔父上、・・・いや南渓殿!
貴方様まで斯様な事を言われるか!?」
「姫、そなたは今日より“次郎法師”と号すべし!」
「じろう・・ほうし・・・でございますか?」
自分の出家に大叔父が賛成してくれたのは嬉しかったのですが
頂戴したのは尼の名ではなく、あたかも坊主のような名前に姫は鼻白みました。
「“次郎”は井伊家の嫡男が代々名乗る“諱(いみな)”じゃ!
嫡男ならば尼ではなく“法師”と名乗るが筋。
法師であればいつの日にか還俗も出来よう・・・」
「あっ!」
「そういう意味で・・・」
南渓は正直出家した後に自己都合で還俗するという最近の風潮は
如何なものかと思っていますが、この場合は致し方無しと断じました。
南渓自身は生涯還俗せずに僧籍のまま天寿を全うしました。
武門の子として生まれたものの、仏に仕える覚悟と尊さを体現した人物です。
「・・・南渓様、私は左様な浮ついた気持ちで出家すると言った訳では・・」
「姫、いや次郎法師よ。
仏門に入って修行するのが目的ならば名など関係あるまい。
要はそなたの心掛けひとつのはずじゃ」
「・・・はい」
「依存はどうか、直盛殿」
「・・・南渓殿の深謀遠慮、恩に着まする」
今の所、両者にとってこれが最善の落とし処なのは疑う余地がありませんでした。
「“次郎法師”しゃんの誕生でしゅね!」
お家元の言葉で皆はようやく納得出来た気がしました。
つ づ く
次回予告 )
家老・小野和泉守の死を機に亀之丞が10年ぶりに井の国に戻って来ました。
当主となるべき者の帰還は井の国の民が待ちに待った出来事です。
その帰りをずっと待っていた次郎法師に訪れる心境は・・・
第四章 “希望・運命の子”
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※注1)今川義元
ほとんどの方がその名からイメージされるのは
名門に胡坐をかいた公家かぶれの暗愚な武将で、“桶狭間の戦い”で織田信長に
無様に討ち取られた者といった所でしょう。
ですが当時の実像は大いに違いました。
彼は確かに名門に生まれた御曹司でしたが、生まれた順番は五番目だったので
誕生と同時に仏門に入る事が決まりました。
彼が4歳になった時、父・今川氏親は九英承菊という家臣出身の僧に
養育と修行を依頼しました。
この僧と出会った事で彼は大きく鋭い牙を持つに至ります。
この類い稀で優秀な家庭教師は後に“太原崇孚雪斎”と名乗り“黒衣の宰相”と異名を取る
戦国期でも超一流の軍師参謀の一人です。
17歳の時に京・妙心寺で修行に明け暮れていた時、家督を継いだ兄・氏輝からの命令で
駿府に帰国します。
けれど帰国して三ヶ月あまりで長兄・氏輝が死亡、次兄・彦五郎も同日のうちに怪死するという
謎の多い事件が発生しました。
その後一時的に故・氏親の正室だった寿桂尼(実母)が政を代行するなどしましたが
当然のように家督争いが勃発したのです。
敵対したのは兄で四男の側室の子・玄広恵探と、五男で正室・寿桂尼の子の梅岳承芳(義元)です。
どちらも仏門に入っていた二人でした。
この“花倉の乱”と云われる争いで梅岳承芳は玄広恵探を力ずくで追い落とし
家中に武威を示して家督を継承しました。
そして還俗し“今川五郎義元”と改めたのです、これが9年前の出来事でした。
この家督争いがあった時、義元は17~18歳でした。
彼もまた尋常ではない少年期を経験した一人です、そして彼が頭角を現してくるのは
寧ろこれからなのです。
※注2)今川義元の天才性
この当時東海地方の近隣の状況はというと、東は伊豆を境に小田原に本拠を持つ
“後北条家(以下・北条家)”。
北には富士山を境に甲斐府中(甲府)に本拠を持つ“武田家”がいました。
北条・武田両家共、奇しくも今川義元の後を追うように当主が代替わりしていき
変わった若い当主達はこの先輩大名を警戒しながらも先代達の交戦的な方針を一変させ
今川家とは一線を置くようになります。
狙いすませたように同じ時代に生まれた今川義元、北条氏康、武田晴信(信玄)の三人は
戦国期を代表する名将中の名将達です。
その中でも北条氏康、武田晴信の二人は、今川義元の事を尊敬すらしていた節が多く見られます。
勿論表面的には戦い、時には和睦するなど抗争を繰り返していきますが
二人の義元への羨望は残った資料からも解かるほどです。
今川義元は後に“名将”と呼ばれた若い二人の尊敬を集めるほどの手腕を持った大名でした。
義元は以後特筆すべき先進的な法度や輝かしい戦歴を積み重ねていき
・西への軍事行動(三河平定、尾張侵攻)
・内政の充実(法整備、守護大名から戦国大名への宣言と脱皮)
・武田・北条への外交・牽制
という三本柱を軸に邁進します。
※注3)今川家の展望と井の国の位置
今川義元が家督を相続して間もなく西から願ってもない窮鳥が飛び込んで来ました。
三河(愛知県東部)の豪族・松平広忠(10歳)です。
“守山崩れ”で家臣に父・清康を殺され、生国と居城・岡崎城を追われた広忠は
今川義元に庇護を求めました。
この当時今川家は駿河(静岡県東部)と遠江(静岡県西部)の二ヶ国の差配を
“守護”として足利幕府に任じられていました。
義元は東(対北条家)と北(対武田家)への侵攻が容易ではないのに気付いています。
領土の拡大を目指す義元が狙ったのは残された“西”へ向かう事でした!
“三河(愛知県東部)”を手に入れ、“尾張(愛知県中心部)”へ侵攻する!
長らく全国的な飢饉が続いている中、肥沃で広大な平野と豊富な河川に恵まれた尾張地方は
とても魅力的な土地です。
京への往還の途中に見た地平線の風景は領国の中では見られない
義元には忘れられない土地でした。
家督を相続したばかりの義元は家中の動揺を鎮めるのに忙殺されていましたが
そんな中でも将来の展望を持っていたので、松平広忠の来訪を邪険にせず
手を打って喜び歓迎しました。
この少年を利用すれば三河を傘下に治めるのに近道だったからです。
その三河と境を接する位置に井の国はありました。
最前線に折り合いの悪い在地勢力が根を張っていた事は
今川家には都合が良くありません。
この一族を徐々に弱体化させるか、難癖をつけ反抗させて滅ぼすか、
一族の子供を立てて傀儡とするか・・・
井の国の民を刺激しないように版図を塗り替える!
井伊家には御家の重大な危機でしたが、今川家には同時進行していた
西進計画のほんの一部だったはずです。
※注4)井伊家と今川家の古くからの因縁
日本史の中に“南北朝”と呼ばれる時代があります。
永きに渡った鎌倉幕府の終焉と、新たな室町幕府の到来に重なった時代の事です。
鎌倉時代のある時期から天皇家は皇位継承を巡って大覚寺統と持明院統という
ふたつに分裂してしまい、その後それぞれの系統が交互に皇位に就くという
“両統迭立”というシステムが出来上がりました。
それが三百年前の出来事です。
システム成立から百年後、“天皇親政”という古き良き時代の復活を夢見て
皇位に就いた大変なバイタリティを持った帝が現れました。
“後醍醐天皇”です!
“天皇親政”というのを極簡単に言えば、帝が御自ら全ての政治を総覧するという事です。
因みに現代での天皇陛下は“君臨すれども統治せず”という象徴的な存在です。
日本はある時期から奇妙な二重構造の政権に移行しました。
“鎌倉幕府”の発生からです。
その時から帝と朝廷は実質的な政権を取り上げられてしまいます。
けれどそれは抱えた時代背景が旧来の支配体制では統治出来なくなっていたので
源頼朝が生み出したシステムでした。
けれど鎌倉時代末期には破綻する御家人が続出し多くの不満が燻っていました。
その空気を掴んだ後醍醐天皇は倒幕を計画し、頓挫と挫折を経験しますが
遂には政権を取り返します、“建武の親政”の始まりです。
その覇業の軍事を実際に行った3人の巨頭が足利高氏、楠木正成と“新田義貞”でした。
この頃、新田義貞に付き従う井伊谷の豪族・井伊道政という者がいました。
ですが帝が始めた建武の親政は掲げていたマニュフェストとは違い
非常に偏った実態のものになりました。
各方面から不平と非難が噴き出し、足利尊氏は帝に背き再起した後に
“もう一人の帝”を擁立しました。
この時から日本では同時代に二人の帝が存在するという未曽有の時代を迎えます。
後醍醐天皇方を南朝といい、足利尊氏方を北朝・室町幕府と言いました。
その後南朝方は有力な支持者である新田・楠木を失い、劣勢へと追いやられますが
それでもこの帝は諦めませんでした!
今度は数多くいた親王・皇子達を地方へ派遣して尊氏の勢力に対抗しようとします。
その中の一人、“宗良親王”を井伊谷に奉じた井伊道政は、尊氏に命じられた
高師泰・仁木義長の軍勢に攻められ井伊谷城は落城しました。
その後足利支族である今川範国(駿河今川家初代、義元は九代目)が駿河守護となり
後に遠江の守護も兼任するに従い、井伊家は今川家の元に服するようになったのです。
※注5)在地勢力(井伊家)と領主(今川家)のパワーバランス
この当時は“守護不入”と呼ばれる守護の介入を防衛するシステムがあったとも謂います。
このシステムを作ったのは他ならぬ守護の上に立つ幕府でした。
守護大名に既得権を持たせ過ぎないようにするためです。
幕府にとっても地方に“王”が生まれるのは好ましくなかったからです。
これは例え守護であっても、在地勢力の支配する地域の権利を
侵してはいけないどころか、勝手に土地に入れないという“治外法権”を認めたシステムです。
この当時、国内にはこういった権利を行使する村落が無数に存在しました。
けれど今川義元は後に領国内での“守護不入”を認めない法令(今川仮名目録追加二十一条)を
発布して戦国大名へと生まれ変わります。
その他にも農民が相手だろうと大名は好き勝手な強硬手段に出る事が出来ない場合もありました。
簡単に言えば“ギブ&テイクの遵守”です。
年貢を徴収する見返りに大名に求められたのが、治安維持と公正な訴訟裁判、
治水などの公共整備です。
この見返りが果たされないと農民は年貢を納めず、それが出来る大名を自ら求めた記録が
近江の村落の記録に残っています。
それが出来ない大名には土一揆などの武力蜂起が起こり
大名といえど生命の危険が付き纏いました。
後の江戸時代のように農民はとかく搾取される者、“生かさず殺さず”という
イメージが強いのですが、戦国期の農民は決して弱くはありませんでした。
気に入らなければ途端に掌を返す凶暴さも持っていました。
後の織豊時代から頻繁に始まった大名の鉢植え(転勤)は、この当時は珍しく
戦や下剋上で没落しなければ、滅多に領主が変わる事はありません。
新しい領土を手に入れようと戦に勝っても、本当の戦いはそれから始まります。
“領民に受け入れられる事”、これが果たされなければ領土は手に入らないのです。
領民が納得する政治を行えない無能な領主は情け容赦なく淘汰されていった時代でした。
※注6)昼間に星を視認
これは例え人間であろうとも決して持ちえない能力ではありません。
有名なところでは太平洋戦争時の日本軍のエースパイロット・坂井三郎少尉(戦時中の階級)が
その著書の中で昼間の星の見方を詳しく述べています。
坂井さんは自らの視力向上のために昼間に星を見る訓練を熱心に繰り返していたといいます。
その言葉は誇張ではなく、戦闘機乗りとして戦い続ける為に絶対必要な能力だったそうです。