”【妄想】ひこにゃん”に捧げます。
Your Song 儂の謳はそなたの謳
第三章 ~挙兵・呼び起こされた心~
慶長5年(西暦1600年)7月7日
美濃国 垂井宿
お家元達が垂井に滞陣している間、日に何度も軍勢が通り過ぎていく光景を目にしました。
皆、会津に向かうためです。
内府(家康公)への覚えを良くするため、少しでも早く会津へ向かおうと
気負っている軍勢も少なくありません。
けれどそんな光景とはまた別の緊張感を保ちつつ、垂井の陣では5日が過ぎていきました。
刑部が佐和山から戻って来る先触れが垂井の陣に届きました。
出迎えようと遠くから戻る様子をずっと見守っていた大谷吉勝、平塚為広
お家元、タイガーしゃんは、刑部が憔悴しているのが遠目からでも分かりました。
無理もありません、この5日間刑部は三成と議論をし尽くして戻って来たはずですから。
「お帰りなさいませ、父上。
(ぬこ殿の言うた通りじゃ、本当に五日目に戻られた・・・・・)」
「うむ・・・・・・・・吉勝、平塚殿はお出でか?」
「刑部殿、ここに」
「ぬこ殿は?」
「あい、こりに」
「皆、陣屋にお越し願えぬか、大事な話し故・・・・・・」
「はい!」「承知!」「でしゅ!」
人払いをした陣屋の奥で首脳陣のみの場が設けられました。
皆は刑部が口を開くのを今か今かと待ちましたが、刑部は中々口火を切りません。
それだけの大事だというのが否でも分かりました。
しばらくして重い口が開くと・・・
「・・・・・・・・治部は兵を挙げるそうだ・・・・・・」
この場にいる者達は例外なく、やはり!と相槌を打ちました。
行動を共にしていた湯浅五助だけは既に知っており、刑部と同じく沈痛な面持ちでいました。
「儂は治部の示す策があまりに早計に思えたので、時間を掛けて説得を試みたが
治部は聞き分けず、引き返すつもりは毛頭ないの一点張りでな・・・・・
共に謀った直江山城(なおえやましろ)や上杉を孤立無援には出来ぬと言いおった。
直江山城に事前に相談しがら儂には何も・・・・・・・治部も水臭い奴じゃ・・・」
刑部は年来の親友にも関わらずギリギリまで自分には相談しなかった事を
若干の皮肉を込めて言いました。
「それで父上の存念は如何に?」
「儂の言い分も変わりはせぬ、治部とは物別れとなった」
お家元が吉勝や平塚に事前に与えていた情報と食い違いはありませんでした。
刑部の話しを聞きながら皆はお家元が言い当てた事に今更ながら驚嘆し
畏敬の念を込めて横目で見ていました。
この間お家元は刑部の言葉に口を挟みませんでした。
「平塚殿!」
「はっ!」
「貴殿にお頼み申す、治部を止めて頂けぬか?
儂の諫めを聞かぬ治部も貴殿からの言葉であれば聞く耳を持つかもしれぬ。
佐和山に向かって頂けぬか、平塚殿!」
刑部は苦痛に歪む身体を精一杯折り曲げ頭を下げました。
「分かり申した。
某(それがし)に治部殿をお止め出来るか自信はありませぬが、早速佐和山に向かいまする。
実の処、某が佐和山に向かうであろう事はぬこ殿に含んで頂いて折り申した」
「なんと!」
お家元が自分達を俯瞰して見ている存在だと、この瞬間刑部は確信しました!
そして黙ったままでいるお家元の方に顔を向けました。
「皆、ちと下がってくれぬか・・・・・・、儂はぬこ殿と大河殿に話がしたい!」
皆が退出し、部屋には刑部・お家元・タイガーしゃんの三人だけになりました。
「ぬこ殿は儂が今日戻ることを予め告げておったな、
其の方の申す通りになったのう」
「・・・・・・・」
「今日のぬこ殿は先日とは打って変わって無口じゃな(苦笑)」
雰囲気を一変させ刑部が核心に迫りました。
「・・・・・・・そなたはこうなる事を知っておったのであろう・・・」
「あい」
「ならば佐和山で儂と治部の話がどこまで及んだのかも存じておるのかな・・・」
「・・・・・・”毛利”でしゅね!」
「その通りじゃ!」
刑部が最も期待した答えをお家元は用意していました!
これが吉勝と平塚には伏せていた情報です。
世上この5日間は挙兵を持ち掛けた三成を刑部が思い止まらせようと説得していたと伝わっています。
が、それだけで終わった訳がありません。
もっと大事な話しが出て、その答えが来るか待っていた時間でもあったはずです。
それには話しを2年前に遡らなければいけません・・・・・
内大臣・徳川家康公。
日ノ本を平定した豊臣家の中に於いて、最も輝かしい戦歴と広大な封土を持つ大大名です。
この大名を超える人物は太閤・豊臣秀吉公以外には存在しません。
豊臣家の首脳陣が最も気を遣い、最も警戒したのがこの人物です!
内府(家康公)はこの国を治めている豊家(ほうけ・豊臣家の略)に疑いを持っていました。
この現政権は日ノ本をごく短期間で平定し、かつ源頼朝や足利尊氏(高氏)でさえ徹底出来なかった
完全なる武力平定を成し遂げ、古今に例無き大偉業を成し遂げた一族です。
しかしその一方で、平定を急ぐあまり地方の大大名を残したまま、妥協を繰り返して成立した
不完全な政権とも云えました。
これでは秀吉公が生きているうちは良いが、もしこのカリスマが身罷った時には
途端に均衡が崩れ、再び長い戦乱が引き起こされるであろう事は可能性として低くはありません。
しかもこのカリスマは跡取りに恵まれておらず、数少ない身内にすら無理を強いて命を縮め
自らの基盤を脆弱な物に変えてしまいました。
ようやく生まれた跡継ぎは幼いうちに命を落とす事なく健やかに育っていましたが
政務を執れるほどには成長していません。
しかもその太閤も近頃は体調を崩して寝たきりとなり、いつ露と消えてもおかしくないほどです。
そんな状況で打ち出された今後の政権の運営方法は、幼い”秀頼君”が成人を迎えるまでは
五人の大大名による”五大老”の合議により意思決定を行い、
豊家最高執行機関の五人の閣僚である”五奉行”によって施行される事。
たった一人の独裁政治が行われないように考え出されたこの政策は
公式的には”五奉行”中四位の地位にも関わらず、
最年少ながら事実上最高位の奉行として辣腕を揮っていた石田三成です。
けれど内府(家康公)はこの”豊臣第一主義”で、現状に相応しくない妥協案は受け入れ難く
強固な封建制度と身分固定(士農工商)を布き、規制と制限に厳しい政権がなければ
百年の太平はとても臨める訳がないという理想と、それは徳川家の手によって執り行いたいという
野心の両方を内に秘めていました。
”五大老”の筆頭大老として君臨していた内府(家康公)は、太閤・秀吉が死んだその日から
動き出しました。
秀吉公の生前に交わされた膨大な誓紙を反故にし、自ら問題提起をしては収めるといったような
マッチポンプを繰り返したかと思えば、時には人目を憚らず筆頭大老として強権を揮い
豊家の切り崩しを狙った手を次々に打ち始めました。
それに対して石田三成はその都度その急先鋒として、内府(家康公)の非を訴え
遺法の遵守を声高に叫び続けました。
けれどその直後、朝鮮から帰陣した武断派の武将達の怨嗟の的になっていた三成は
その構図を巧みに利用された内府(家康公)の裁定により、豊家最高執行機関である
”五奉行”の地位を追われ、天下の仕置きの権限を一切失い
湖北19万石(佐和山)のただの一領主となってしまいました。
(無理矢理現代の仕組みに例えてみるなら、現内閣で官房長官を勤めていた国会議員が
辞職を余儀なくされ、 元々兼任していた県知事の公務だけに専念する事になり
国政への参加資格は失くしてしまったといった所でしょう)
ですが領国に逼塞してもこの天下の才人は豊家への忠誠の火を決して消しはしませんでした。
もてる人脈を大いに使い、自分と志を同じくする大名達と連絡を取り合い
また味方を募るため新たな仕掛けを模索し始めました。
今や天下に対して何の権限も無く、佐和山19万石の中堅大名でしかなくなったにも関わらず
この男の気概は一層大きな気宇を帯びていきました。
三成は内府(家康公)がした豊家への冒涜行為をただ叫んでも、味方が増えないばかりか
より鮮明に敵を浮き彫りにしてしまう事に苛立ちました。
豊家への忠義が人一倍強く、忠節無比のこの人は
皆もそうあるべきだという潔癖さがあったので、
実利や損得で動く者らは己への批判のように受け止め、三成からの蔑みと錯覚し忌み嫌いました。
三成にしてもそんな想いで仕えている者達と手を取り合ってやって行く気は薄かったので
そういった者達への機微が足りなかったのは否めません。
奉行を辞してからも現奉行として務めを続ける”五奉行”の元同僚、
増田長盛と長束正家は日々の公務の様子を佐和山に頻繁に届けてくれましたが
その内容は悲鳴に等しく、内府(家康公)の専横を止められぬどころか
傍観同然の元同僚の気概の薄さに失望しました。
内府(家康公)の増大する権勢と、我先にその与党に与しようと靡く大名達を見た三成は
豊家の先行きを危惧し、俺が何とかしなければ・・・という気負いを募らせていきました。
三成は奉行を辞すまでの間、内府(家康公)を政治的に封じ込める策を
次々と展開しましたが、内府(家康公)の巧みさに有効に機能し切れませんでした。
その結果三成が最終的に行き着いた結論は、豊家の名の下に正式な名分で軍を発向し
”内府(家康公)を討つ!”です。
この中で以外にも名分を得るのは簡単です。
内府(家康公)の遺法破りは明らかですし、文書を発行するのに必要な事務的手続きは
現奉行の増田長盛や長束正家が作成出来ます。
最もその公文書には幾人かの大老の認証が必要になりますから、味方に引き込む必要があります。
最大の問題は内府(家康公)と戦ってくれる味方を募る事でした。
逆に内府(家康公)の方は全く逆の点で苦労します。
内府(家康公)の強引なやり口に不快を顕わにしている大名は少なくありませんでしたが
表立って立ち上がってくれるかといえば話は別です。
豊家の安泰のためにと謳っても、そんな抽象的な目的で行動を示す者はいません。
その結果三成が至った結論は”絶対に勝つのはこちらだ!”と思わせる陣営の構築です。
そう思わせる事が出来れば味方は増え、また迷っている者さえも引きずり込む事が出来るからです!
その最大の焦点になるのは家康に匹敵する”旗頭”を戴く事!
ただし幼少の主君・豊臣秀頼はこれには当たりません。
指揮能力然り、カリスマ性も未知数のこの幼児は現在戴くべき象徴でしかないからです。
それに内府(家康)も豊臣の臣という前提を越えて動いてはいません。
石高で徳川に勝る大名は豊家以外にはありません。
それでも”旗頭”として選ぶなら百万石以上の大大名とうい事になるでしょう。
となれば、前田・上杉・毛利の三家です。
この三家は豊家の”五大老”でもありますから資格は充分にあります。
その中で家康が唯一遠慮した前田利家は既にこの世を去り、その息子達は家康の前に
膝を屈しています。
上杉は家康の軍勢を一時引き付ける役目を担っているので、これも除外されます。
となると残りはひとつ、”毛利”です。
この一門を味方に出来るかどうかが成否を握る鍵なのです!
別家や支族を含めれば、この一族の総石高は徳川家に匹敵する唯一の大大名でしょう。
一般的に毛利に大坂方の総帥として依頼した時期は毛利輝元がこの戦に加わるために
安芸・広島城から上坂する数日前となっていますが、そんな訳はありません。
一族の合議制で方針が決められる家風の出来上がったこの一族は
本家の当主・毛利輝元の一存で動けるほど簡単ではありませんでした。
逆にいえば別家や支族に連なる人材が頼もしい者達ばかりなのです。
おそらく一族内で方向性が定まるまでに紛糾した長い時間を必要としたはずです。
そのために調整役と根回しに奔走し、三成の窓口になった人物がいます
”安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)”です。
三成はこの外交僧を通じて、毛利輝元の総帥就任を促す工作を以前から始めていたはずです。
輝元の祖父・中国地方の覇者・毛利元就は決して中央への欲を出すべからずと遺言したほどで
万事に慎重で大所帯の毛利が数日で大いなる決定を出来る訳がありません。
三成の非凡な所はこうした有力な大大名には決して当主自身に直かには働きかけず
必ずその右腕たる家老を通じて打診したところです。
上杉には直江を通じ、宇喜多には明石掃部を通じ、毛利へは安国寺を通しました。
これは同じ家老に就く者達ならば立場や役割をよく理解し、当主を説得させるにも
うってつけでした。
三成自身、太閤・秀吉へ持っていた役割が正にそうだったからです。
刑部を佐和山に呼んだこの時期、三成はこの戦略の”キモ”である毛利家の返事を
待っている所でした。
刑部を呼んだ三成はここまで掛かった経緯と苦労を刑部に吐き出しました。
三成にとって、この時点でこの極秘事項を話せる相手は刑部しかいませんでしたし
かつて同じ奉行として各地を飛び回り、知恵を搾り合った同僚である親友は
時に苦労を強調する話しにも5日間よく付き合ってくれました。
「だから刑部、お主も儂と共に起ってくれぬか!」
三成はそう頼んだ事でしょう。
「治部、肝心の毛利からの返事はどうなっているのだ!」
この会話が何度この5日間の間で出た事でしょう・・・・・
刑部は毛利の参戦が得られなければ、大した勢力とは成り得ず
負けは必至で、その結果一族郎党全てに累が及び、いたずらに命を落とすだけだと説きました。
結局毛利からの返事は届かず、しびれを切らした刑部は
「治部・・・・
毛利の返事は来ぬ、諦めよ!」
刑部は慎重な毛利が総帥の役目を引き受ける確立は皆無だと思っていました。
親友に対して残酷過ぎる言葉を残して、刑部は佐和山を去りました。
この5日間の詳細を刑部の口からお家元とタイガーしゃんは聞きました。
時に三成の心情を肩代わりして話す刑部に普段の沈着さはありません。
親友の無念さ、苦労、現状を引っくり返す起死回生の策が刑部には乗り移っていました。
熱くなるのは無理からぬ事です。
そして刑部も三成同様、遠慮なく大事を話せる相手がいなかったのです。
この”ぬことトラ”以外には!
こんな話が出来る相手は自分の立場と状況を熟知してくれていなければ出来ません。
三成にとっての相手が刑部であり、刑部にとっての相手がお家元でした。
「治部・・・・・三成の事を世間では横柄者(へいくゎいもの)と揶揄し、恨みを持つ者も少なくない」
「三成しゃんは秀吉しゃんの政(まつりごと)の執行者でしゅからね・・・
本来秀吉しゃんに向けられる怒りや不平を全部三成しゃんが引き受けてましゅから
怨嗟の的になるのは致し方のない事でしゅ」
「(やはりこのぬこ殿は分かっている・・・・・)」
刑部は親友の境遇を理解してくれている事を密かに喜びました。
「ぬこ殿の言う通りじゃ!
三成は決して豊家に対して盲目に仕えているだけの愚か者ではない。
例え殿下に対してであっても宜しからずと思える命(命令)には、理を説き誠意を尽くして
諫言仕ったものじゃ。
儂などは殿下に申し上げてもお怒りを蒙るばかりで、三成の取り成しが無ければ
追放の憂き目に遭い、どこぞで野垂れ死んでいたかもしれん(笑)」
「そりは聴いた事がありましゅ(苦笑)」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
儂が三成から受けた恩はそれだけではない・・・・・数え上げれば切りがないほどじゃ・・・
だからこそ三成が窮地に立つ事があれば、儂は迷わず応じると常々思っていたはずだった・・・
儂は思い止まって欲しかった!
もし三成が起てばそれは全国に飛ぶ火し、全ての者を巻き込み多くの人死にが出るだろう!
そして日ノ本は再び戦乱の続く日々に逆戻りとなる筈じゃ・・・・・
いや、それは綺麗事でしかない!
治部と儂だけが組んでもそれは戦にすらならぬ!
毛利の推載が得られぬとなれば最早挙兵とは言えぬ!だがそれも問題ではない!
それでも治部が窮地に陥るのなら、儂はその友諠に報いたかった!
だがそんな絶望的な戦に向け、敦賀の者達を戦に引きずり込む訳にはいかぬ!
小なりといえど儂が治める敦賀の地に暮らす民に負担を掛け、仕える家臣とその一族達に
儂の勝手な想いを押し付ける事が出来ようか!
もし儂が秀吉公の元に仕えた頃のようにしがらみのない一人の近習のままならば
儂は決して拒むような事はしなかっただろう!
けれど今の儂は以前のように身軽では無くなってしまった!
儂には己を殺してでも守らねばならぬ者達が居るのだ!
儂は三成に乞われた手を振り解き、三成をさらなる窮地に追い遣ってしまった!
三成の知己である儂が協力を拒んだと広まれば、多くの者は勝つ見込みは無しと
三成を・・・・・佐吉を見做す事となろう!
佐吉、佐吉よ!
儂を許すな、儂を恨め!どうか憎んでくれ!!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
お家元達の目の前で刑部は本心からの懺悔を吐露しました。
これは三成にすら伏せていた心情です。
刑部は決して勝つ見込みが少ないせいで協力を拒んだ訳ではありませんでした。
ましてや生命を惜しんだ訳でもありませんでした。
刑部は私(わたくし)の友諠よりも、公(おおやけ)の国守としての責を全うすべく
苦肉の決断を下したのです。
にも関わらず、結果自分は最も過酷な状況を三成に差し向ける当事者に成り果ててしまった!
それは罹った業病よりも何百倍も辛い痛みでした・・・
~(b)につづく~