ひこにゃん×ひこにゃん ブログ 彦根にひとつだけの花

ひこにゃん それは古城に住まう心清きみんなのねこ

いちファンの綴るレポート&おとぎばなしのブログです☆

インターミッション イレギュラー

2010-11-26 11:34:03 | 白いイナズマ
“【妄想】ひこにゃん”もビックリ!

たまたまお休みで朝の“スッキリ!!”を見ていたら新CMの
“カセーフ編”と“オッケー牧場編”の両方を観ることが出来ました♪

最初に“【妄ひこ】”で缶コーヒーのCMと結びつけた作家さんに捧げます。






レ○ンボーマウンテン新CM編





「御免っ!」


シ~~~ン・・・


「御免、誰かおらぬか?」


シ~~~ン・・・


「?
 変じゃのう、秋子殿も富殿もおらぬのか?
 失礼、勝手に上がらして貰うなり」


トコトコトコ、


「御免!」




「カモンちゃん!どしたんでしゅか?」




「ひこなん!
 読書中じゃったか!すまんのう。
 返事がなかったので勝手に上がらしてもらったぞ」


「構いましぇんよ、大歓迎でしゅ」




「秋子殿は留守なのか?珍しいのう」




「あい!
 秋子しゃんは今朝早くバッチリお化粧をして出掛けてしまったんでしゅ。
 富しゃんも一緒みたいでしゅね」


「お城の落ち葉掃きが忙しいこの時期にか?
 一体どこへ行ったのじゃ?」


「そりがひこにゃんにも告げずに二人してコソコソと出掛けてしまったんでしゅ。
 アヤシしゃこの上ない行動でしゅ」




ひこカモ 「う~~~~ん・・・」






お家元がそのおテテを一所懸命組もうとして考えた(笑)
二人のお出掛けた先は一体・・・・・?

明日土曜日から全国オンエアになるそうです。
 

ひこにゃん キラキラ光る

2010-11-23 03:24:03 | 彦根にひとつだけの花
2010年11月19日 中篇
彦根城 天守前広場
もちさんが選ぶエステは?編







秋の澄んだ空気のせいで太陽の光が遮られる事なくもちさんを照らします!
 




白さがより強調され、瞳は光を宿します!







その手には常に季節を象徴する草花が握られています





花を愛でる風流な心と共に、武家のぬこらしく剛健な面も併せ持つもちさん!





天守で佩いていた赤い鞘の“爪楊枝”は日々の激しい活躍の中で
その役目を全うしたと聞いていましたから
次の役目を担った新たな佩刀がこれなんでしょうね!
今度の“爪楊枝”は黒鞘です







もちさんが鯉口を切った瞬間、金の鐔が光を放ちました!
 キラーン




「しょれっ!」






鐔と同じく黄金造りの縁頭と鐺(こじり)、青い柄巻。
さぞ名のある意匠の逸品なんでしょうね(笑)




“カウントダウン”は宰領役のお兄さんの軽妙な口上に乗って♪
 




“もち独楽”全開




「おしょまつ!」




10:30の第壱陣はこんな感じでした♪











13:30からの第弐陣にはテレビクルーの姿も!





午後になり光が濃さを増すと、もちさんもまた違って見えますね





「“小顔コース”でお願いしましゅ」




もちさんがアイテムを取ろうとすれば手元だって光ります!(笑)





マリオな“キノコ”!(笑)





かなり端折ってしまいましたけど、午後もハツラツと
天守前をフルに飛び回ったもちさんでした♪





足元を気にしつつもギャラリーへの気遣いは健在です!





「ちゅぎは博物館で!」




 「ラジャー!」








号外ひこにゃん!(笑)

2010-11-20 07:01:57 | 彦根にひとつだけの花
“彦根ノムコウ”が重大な局面を向かえているところではありますが
最終章を描く前に、主人公である“あの方”が普段住まわれているあの場所の空気が
どうしても吸いたくなって行って参りました!








私自身、久しぶりの“彦根にひとつだけの花”です!
 







2010年11月19日 前篇
彦根城 天守前広場

空に向かって聳える城、その名は“国宝・彦根城”
雄雄しくも狂おしい招き猫、その名は“ひこにゃん”編







今日も“車のステアリングを両手で握り(※)”、東海道(東名道)を西へと西へ!
夜が明けぬうちに静岡を過ぎ、霧の深い鈴鹿峠を越えると近江平野へ

景観素晴らしい近江富士も今日の私には色褪せて見え
心に描くあの場所に勝る高揚は今はありませんでした♪




「つ、着いた・・・・・」

いつも決まった場所を見てから登城するという厳粛な儀式(笑)のため、
最初に立つ場所からその城を見上げます





これから一箇所ずつ儀式の場を通過します!









流石は秋です。
落とす影が夏と違って、淡くとも深さを増しています





こちらも今回の大事な目的です!






この城が誇り、見るのを外せぬ橋を厳かな気持ちでくぐります





そして一歩、また一歩と空へ近付きます





その廊下橋の上から見える山には、また別の想いが巡ります。












そこは私にとっては・・・・・失礼しました!

そのネコに想いを寄せる人達全てにとって、正に“天空の祭壇”とも呼べる
特別な場所です!









かつて北陸や中仙道を睨み、西国の大名を監視するために築かれたこの城は
今では“国宝”に指定され、あるネコの“おウチ”になりました(笑)





はい!世帯主しゃんの登場です!
 












「ひこにゃん、おはよう!
 今日も頑張ってな」




「あいあい、どもでしゅ!」


















どこまでも高い澄み切った空の下、天空に聳える“彦根城”!
贅沢な一日となりました








平日ながら今日もたくさんの人々を招き、おもてなしするもちさん!
個人的には15:00からのもちさんが最もエネルギッシュに感じてツボでした(笑)










インターミッション XXXII

2010-11-18 18:04:35 | 彦根ノムコウ
”【妄想】ひこにゃん”に捧げます。






Your Song 儂の謳はそなたの謳
第五章 ~開戦・2度目の“関ヶ原の戦い”~














9月9日、刑部の元にそれぞれ違う場所から書状が届きました。


「殿、立花殿と真田殿から書状が届いております」


「うむ、
 五助、読んでくれ」


「はっ、まずは立花殿の方から・・・

 “本日より京極高次殿の籠もる大津城に攻め掛かり候。
  必ずや短日の内にこの城を抜き、皆様の下へ駆けつけ候らえば
  美濃表にても力を惜しまぬ所存にて!”

 日付は昨日の九月八日になっております」




「流石は立花侍従殿、控え目な言葉にも戦意が漲っておられる!
 五助、吉報と参陣をお待ちしていると返書を認めてくれ」


「はっ、では次は真田殿よりの書状を。

 “本日、当城(信州・上田城)に徳川の軍勢が押し寄せ候。
  その数およそ三万八千、それに比べ当方は僅か三千にも及ばぬ態にて。
  されど軍略の限りを尽くし、必ずや大坂方の御為になる働きを仕るべし!
  なお攻め手の大将は内府が倅(秀忠)の様子、相手として甚だ不足なり。
  内府が現れず口惜しい限りにて候。”

 日付は九月二日でございます」


「徳川方の兵、三万八千か!
 随分な数じゃな、まさか徳川の本隊ではあるまいな・・・」


「兵の内訳は定かではありましぇんが、家康しゃんは東海道筋を向かって来てるはずでしゅ。
 今日あたりは三河・岡崎城に、明日は尾張・熱田に着くはじゅかと」




誰も答える事が出来ない疑問にスラスラと答えるお家元。
最早軍師の枠すら超えています。


「成程・・・・
 しかし安房守殿(真田昌幸)は痛快な書状を書かれるのう(笑)
 されどこれは空元気ではあるまい。
 彼の者の軍略を持ってすれば、徳川方は散々足る被害を蒙るであろうな」



この日、刑部の元に書状を届けた二人の武将は、広く天下にその名を轟かせている武将達です。


立花侍従宗茂(たちばなじじゅうむねしげ)

数多い逸話を残し、誰一人として悪く云う者が見当たらない、
九州にその人あり!と謳われた武将です。
秀吉は宗茂を
“その忠義は鎮西一(九州一)、その剛勇もまた鎮西一”
“東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる”
と言い、家康は秀忠への遺言に
“今後ますます立花とは懇意にせよ。されど決して十五万石以上の大名にしてはならぬ
 いかに心安く親しくしようとも、軽々しく扱えぬ人物である”

秀吉はその人物と武勇が並々ならぬ事を褒め称え、家康はこの人物が持つ天下への影響力に対して
息子ではとても扱い切れぬとし、終生警戒を怠らぬように遺訓としました。

立花宗茂(実は“宗茂”は晩年の名乗り)は予告した通り、僅か一週間で大津城を落としましたが
奇しくもその日は9月15日、“関ヶ原の戦い”と同じ日でした。
宗茂は戦の後も東軍との抗戦を望みましたが、毛利輝元はこれを却下。
その直後に領国筑後・柳川へ帰国しましたが、戻ってからも大坂方として戦を続け
大軍を相手にギリギリまで矛を収めずに戦い続けました。




真田安房守昌幸(さなだあわのかみまさゆき)

真田幸村の父親と言った方が通じやすいかもしれません。
けれど当時真田の武名を天下に響かせていたのは、紛れも無くこの昌幸に由るものです。
偉大なる主君・武田信玄と謀略に長けた父・幸隆や勇猛な兄達の下
着々と軍才を磨き、武田家滅亡と信長弑逆の激動期を
巧みに乗り切り、その狭間で徳川方の大軍を退け(第一次上田合戦)
大いに武勇を轟かせました。

そしてこの度も刑部の予想通り、徳川秀忠の軍勢は真田昌幸・幸村親子に翻弄され
上田城を落とせないばかりか“関ヶ原の戦い”にも間に合いませんでした。
(第二次上田合戦)
真田家は徳川家にとって終生鬼門の家でした。
そして真田家と大谷家、石田家は強固な婚姻関係にあり絆の深い間柄です。

世上、石田三成が“戦下手”というレッテルを貼られた“武蔵・忍城の水攻め”は
近年の通説では、秀吉から遂行を厳命されたという事が窺えます。
(秀吉からの書状が現存します)
とはいえ結果は堤が決壊し、遂に忍城攻めは暗礁に乗り上げてしまうのですが
この時に同じ現場にいて組下として参加していた真田や常陸の佐竹義宣は
その一部始終をその目で見ているにも関わらず、“関ヶ原の戦い”では
迷わず三成の誘いを受けるのです。
真田も佐竹も暗愚な武将でもありません、ましてや現実感覚が乏しい訳でもないニ家が
“関ヶ原の戦い”では三成に乗りました。
この二家は大坂方が勝つ成算を見出し、三成の軍略を信じていたのです。

このニ家は大坂から遠く離れた地にいたので耳にしていた情報から無理もありません。
その頃、本拠地・大坂と美濃に集結した軍勢には
至る所に綻びの兆候が現れていました・・・・・




三成が反徳川勢力として築いたこの連合体は、毛利輝元を推戴したものの
当の輝元が招きに応じ意気込んで上坂した割には、明確な戦略を持っていませんでした。
当然です、挙兵までの計画は全て三成が練ったものですし
輝元自身が独裁的な人物では無かったからです。

そのせいではありませんが、実質的な総司令官には豊家と関わりの深い
貴公子・宇喜多秀家が就く事になりました。
この見目麗しい若き大老は、大老中最も豊家を愛していたと言っても過言ではありません。

この図式では緒戦から輝元が出馬する必要性がなくなり、持っていた不退転の覚悟が
次第に薄れていきました。

また三成が広めた噂を信じて大坂に出馬した諸将には、戦意旺盛な者も数多くいましたが
家康を慕っていたものの足止めされ、否応なく大坂方に組するしかない者も多くいました。
上層部に明確な指揮系統が見られない事は、大坂に参集した諸将は直ぐに見抜きました。
それは戦意の薄い者の意識をさらに加速させていきます。

そのため戦の前に東軍に“繋ぎ”を付ける者が続出しました。
けれどそれは完全に大坂方に見切りを付けたという訳ではなく
いざという時のための“保険”です。


中にはハッキリと居城に立て籠もって叛旗を翻す者もいます。
これは刑部の担当した方面でさえあった現象で、堀尾吉晴や京極高次がそうでした。

またひどく不鮮明な行動に走る者もいました。
小早川中納言秀秋です。


関ヶ原を語る上で外せない18歳のこの若者は、偉大な義理の叔父(秀吉)に翻弄され続けた若者です。
この若者が家中でどれだけイニシアチブを握っていたかは不明ですが
義理の父である小早川隆景から受け継いだ名家には、それに相応しい名立たる家老がおり
そのせいでかなり意向が制限され、自由に振舞えなかった事が窺えます。

この局面に遭遇した若者に、多くの者が如何に振舞うべきかを示唆した事でしょう。

それを受けた秀秋は初戦の伏見城攻めに参加した後は、伊勢方面軍に編成されましたが
同道していた毛利秀元や吉川広家から途中で離れて近江まで引き返し
病と称して臥せ、軍を停滞させます。
小早川の陣からは再三家康に使いを出しているのが記録に残っています。
その後、大坂方からの如何なる指示や懇願にも言を左右にし、
“関ヶ原の戦い”前日の9月14日に、毛利輝元の為に設えた
松尾山新城の在番・伊藤盛正を追い出して、1万5千の兵で半ば強引に松尾山に入城しました。
最も大事な場所に、最も去就の怪しい者が入った事になります。


お家元は勿論こうなる事を知っていましたが、事前に刑部に告げる訳にはいきませんでした。
歴史が変わってしまうような助言は一切出来ません。
この様子を隣りの山中村から窺っていた刑部にも成す術がありませんでした。

その日の夜、大垣から大坂方の面々が大移動を行い、西上する東軍を迎え撃つため布陣しました。
松尾山新城に入った秀秋に面会を求めて三成が向かいましたが、秀秋は病と称して
会いませんでした。
その帰路、三成は刑部の元にやって来て、秀秋に会えなかった事を伝えました。
予告もなしにやって来た三成にお家元は大いに慌てましたが、
何とか会わずにやり過ごす事が出来ました。

この時に護衛で連れて来ていた父譲りの立派な体躯を持つ若者を、三成は刑部の元へ留めました。
彼こそが嶋左近の息子、嶋信勝です!

嶋信勝はこの当時流行っていた当世具足ではなく古風な大鎧を用いており、そのセンスが窺えます。
三成が去った後に、お家元はこの若者にも話し掛けました。


「ひこにゃんでしゅ、こっちはタイガーしゃんでしゅ!」




二人が打ち解けるのに時間は掛かりませんでした。
雨が降り日付が変わりました。










慶長5年(西暦1600年)9月15日
美濃国 関ヶ原

“関ヶ原の戦い”当日







小高い傾斜地に構える刑部の陣の麓で、陣を整えていた平塚為広と戸田勝成が
ある事に気付きました。


「戸田殿、あれは・・・」


「おや?」


使い番が一騎、陣の前を駆けて行きます。
その背には赤い母衣と“二引に大一”の指物があり、石田家の使い番なのは一目瞭然です。
平塚と戸田が気を止めたのは、その使い番ではなく
後に続いて駆けて来たタイガーしゃんに跨ったお家元でした。


「ぬこ殿、如何された!?」


「ぬこ殿!」


お家元達は呼び止められた事に気付いて一瞥しましたが、“そんな訳がない!”と
視線を正面に戻して止まる事なく笹尾山の方へ使い番と共に駆けて行きました。


「何か大事が・・・?」


「はて・・・」


「ひこにゃんの無礼をお許し下しゃい、お二人しゃん」




「!!」


「ぬ、ぬこ殿!!??
 あそこを駆けて行くあの者達は・・・・・???」


「ありは半年前に来たひこにゃん達でしゅ。
 三成しゃんの陣に向かうために佐和山城から来たんでしゅ」


「さ、左様で・・・・・」


二人は以前その件をチラッと聴かされていましたが、流石に面を食らいました。
どんな戦場であろうと動じない胆力を持った二人もこれには仰天したようです。
お家元と一緒にその様子をひと目見ようと付いて来ていた
大谷吉勝と木下頼継、嶋信勝も同様でした。


「あのぬこ殿達は、これから殿(三成)と親父殿(左近)に会いに行かれるのですね・・・」


「あい」


「いやはや・・・面白いものですなぁ、兄上」


「頼継、儂はもう何を見聞きしても驚ろかんぞ(笑)」


「傍から見たらあんな感じなんですね、私達って(苦笑)」


これはタイガーしゃんの感想です。

戦の前の1コマでした。






お家元達が出払っている頃、刑部は山中村の藤川台にあった陣小屋にいました。


「(・・・・・・・・・
 ぬこ殿は最初に会った日に、九月十五日までの供を願っておった・・・
 つまりそれはこの戦が今日一日限りの勝負だという事だろう。

 だが謎はまだある・・・・・・
 ぬこ殿の本当の目的が何なのかだ、まさか戦見物に来た訳ではあるまい・・・・・・)」


「殿?」


「何だ、五助」


「いえ、お加減が良くないのではと・・・」


「大事ない、心配は無用じゃ」


それぞれの夜が過ぎていきます。









夜が明け辺りが白々としてくる頃には、回りを囲む山の頂から
この狭い盆地に霧が吹き降りてきました。
あたかもこの地に集まった十数万人を覆い隠すかのようです。

空気は冷たく一晩中雨に打たれた身体には堪えます。



お家元はこの地にもう一人自分が居る事に不思議な感覚を憶えました。
笹尾山には半年前の自分が居るはずです。

思えばあの日の自分はこの雰囲気に圧倒され、大事に思い至れなかったと
悔いが残ったものでした。
ですが今は不思議と心は澄み、心強い者達に囲まれ自分もその一員なんだという
手応えを感じていました。
これは長期に渡って友情を培う事が出来た事と無関係ではありません。
半年前には味わえなかった感覚です。

だがその戦友達との別れはもう直ぐそこまで迫っていました。




この日刑部が配置した陣立ては
大部分の兵の采配を平塚為広に預け、戸田勝成と共に第一陣とし、
第二陣に大谷吉勝と木下頼継を置いて正面に備え、
脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱、赤座直保の四隊を小早川勢のもしもの抑えとして
松尾山麓に配置しました。
刑部自身は精鋭六百を従え、松尾山に備える構えです。
刑部が正面よりも南側面に対して重点を置いていたのが解かります。


静寂が支配していたこの地に、激しい大量の種子島の轟音が鳴り響きました!
その直後、攻めかかる兵達の掛かれの叫び声が聞こえ戦端が開かれると
次第に全体に伝播していき、関ヶ原全体に拡大しました!


大谷隊が最初に相対したのは寺沢広高隊で、陣取った山際の地形を活かして
寺沢隊を蹴散らしました!
その後、隣りの宇喜多隊の危機を感じ救援に向かったところ
それを阻止しようと掛かって来た藤堂隊と京極隊、織田隊の圧迫を受け
戦は陣形を保つのも困難なほどの乱戦に突入し、正に死闘の連続となりました!

泥に塗れながら何度も掛かれと退けを繰り返しながら、大谷隊は決して崩れる事なく
よく士気を保って戦いました。
お家元とタイガーしゃんは、高所の藤川台からその用兵ぶりを見て感動していました。





本格的な戦闘に突入して3時間が過ぎた頃、それでも静まり返っている松尾山の軍勢が
重要な意味を持ち始め、この隊の行方が勝敗を左右するようになっていきます。

その意味に双方の首脳は早くから気付いていましたから、
三成は戦闘中にも頻繁に使いを出しました。
家康も石田勢と激しい戦闘に突入した黒田長政に使い番を走らせ
“小早川は本当に味方するのか?大丈夫だろうな?」
といったくどい確認をせずにいられないほど焦っていました。
(小早川を味方に誘ったのが黒田長政だったからです)
家康は今日まで小早川からの使いに対しては他の者達と違い、素っ気無く対応していましたが
まさか当日これほどの意味を持つ戦力になるとは思ってもいませんでした。
家康はもう噛む爪がなくなっていましたが、それでも噛み続けていました。

この局面で家康が出した答えは、それでも方針を変えず高圧に出た事です!
この人物はやはりただ年齢を重ねただけの暗愚な武将ではありません。
人を見る事にかけても熟達した経験を持った名将でした。


「鉄砲頭に伝えよ!
 松尾山山麓から金吾(中納言の別称)の陣へ向けて一斉に放てとな!」


「殿、畏れながら麓からではとても山頂の陣まで種子島は届きませぬが・・・・」


「誰が当てよと言った!!
 放つだけでよい!
 早う伝えよ!!!
 手遅れになるぞ!!!!!」








藤川台の高所から戦場全体を見ていたお家元とタイガーしゃんは、
この広大な戦場の中で不自然な動きを始めた一隊に目を止めました。
タイガーしゃんもこの旅で戦場の呼吸が感じられるまでに成長していました。


「お家元、あれは・・・・・!?」


お家元はその一隊の狙いが何なのか解かり過ぎるくらい解かっていたので
表情が強張り言葉が出ませんでした。

鉄砲隊は松尾山に向けて一斉射撃を放ちました!
それはこの戦場では特に目立つ行動でも、轟音でもありませんでした。
目に止めた者がいたとしても、届かない発砲はさぞ滑稽に見えた事でしょう。

だがこの戦場でその行動の意味に気付いた人物が二人いました。
一人は標的にされた当の小早川秀秋自身です!
秀秋は自分に向けられた発砲が

「何を愚図愚図している、小僧!
 さっさと動かぬか!」

と家康に叱責されたかのように感じました。

もう一人はその経過を聞いていた刑部でした!!


「流石は内府・・・・・」


刑部は自分達には絶対出来ない行動に踏み切った家康を認めました。
太閤の義理の甥である秀秋は主筋同然だからです。

その結果、小早川の采配は大谷勢に向けられる事になり
家康の放った布石で動くのを躊躇っていた山が遂に動きました!



それを笹尾山から見ていた半年前のお家元は思わず目を覆いましたが
今日のお家元は松尾山から目を逸らしませんでした。


「ちゅいに始まってしまいました・・・・・」




松尾山から駆け下りてくる人馬の群れが、お家元には失敗の許されない
大切な役目へ引きずり込む無慈悲な雪崩のように見えました。










次回 最終章へ
           





インターミッション XXXI

2010-11-15 23:31:03 | 彦根ノムコウ
”【妄想】ひこにゃん”に捧げます。






Your Song 儂の謳はそなたの謳
第四章 ~刮目・大谷刑部の神算鬼謀!~













慶長5年(西暦1600年)7月下旬 
摂津国 大坂城








大坂城で開かれた軍議では、基本戦略として主力を大きく3つに分けて東に進む事とし、
その内の一つ、北陸方面の旗頭に刑部を任じました。
北陸方面を治める諸将に大坂方への加担を働き掛け、味方に取り込むのが目的です。

この当時の北陸攻めがどういう呼ばれ方をされていたかは窺えませんが
刑部が目指したのは侵略や侵攻ではありません。
敵味方双方の損失を出来るだけ避け、調略により味方を増やして
”平定”していく事が前提だったはずです。
ただし好戦的な勢力が発生し、抜き差しならぬ兵力を擁するようなら捨てては置けません。
武将足る者、優しさだけでは武威を示すことは出来ません。
時として苛烈に攻め上げる事も必要です。
それだからこそ、戦わずに済ます後ろ盾が保てるのです。

この方面でも大きな意味を持ったのは、三成がその智謀の限りと人脈を尽くし
持てる財を全て吐き出して宣伝費に費やした効果が現れていた事でした。
”毛利”が加わった動きを知った越前(福井県)に領地を持つ大名達は
刑部からの誘いと”豊臣家の御為”という解かり易い構図に、麾下に加わる事を次々と約束しました。
刑部は今更ながら親友が水面下で進め、結実し始めた策に感心しました。


「流石は治部じゃのう」


「あい!」


その刑部の元に色よい返事をした主だった者を上げると、

北ノ庄城主、青木一矩
丸岡城主、青山宗勝
亀山城主、織田秀雄
上田重安(後の上田宗箇)
奥山正之
溝江長晴(後に井伊直孝の客分に)
加賀小松・東郷、丹羽長重・同長正親子
加賀大聖寺、山口宗永・同修弘親子

などが刑部の工作に靡き、越前はほぼ大坂方に塗り替えられました。

そしてここ大坂で合流した刑部の次男・木下頼継(独立した大名)
平塚為広
戸田勝成

脇坂安治
小川祐忠
朽木元綱
赤座直保

が組下の大名に編成されました。


その中で越前・安居城1万石の城主、戸田武蔵守勝成(とだむさしのかみかつしげ)は
小身に似合わぬ声望の高さを持った武人です。

この知勇兼備の武人が関ヶ原で見事な最期を遂げたと聞いた敵味方双方の者達は
皆一様にその死を悼み、多くの者が涙したと言います。
秀吉公の天下取りに軍師として活躍した高名な黒田官兵衛(如水)は

「武蔵守なら十万石以上の封禄でも誰も不満に思うまいに」

と言ったとされ、その言葉がこの人物を大いに物語っています。


北陸陣の顔ぶれが一堂に会する前に、一足先に刑部の元に挨拶に来た戸田勝成は
その身近に侍していて、只ならぬ信頼を得ているお家元のぬこ柄を見抜き、
直ぐに打ち解けてくれました。


「ぬこ殿と申されるか、某(それがし)戸田勝成でござる!」


「ひこにゃんでしゅ、こっちはタイガーしゃんでしゅ!」



「武蔵守(むさしのかみ、戸田の通称)しゃんでしゅね、お会い出来て光栄でしゅ!」




「! 某をご存知とは。
 よろしくお願いし申す!」


お家元はこの人物が刑部と共に“関ヶ原の戦い”で壮絶な最期を遂げるのを知っているので
受け入れられた事を喜びました。
刑部、平塚為広、戸田勝成、の3人に、嶋信勝(嶋左近の息子)を加えた4人が
“関ヶ原の戦い”の本戦で、名の通った者では数少ない戦死者となります。


「刑部殿のお傍に控えてらっしゃるからには、ぬこ殿はさぞ目利きが効くのでしょうな!」


「流石は戸田殿じゃ(笑)
 このぬこ殿は儂の軍師のような存在でな!
 傍に居て貰っているのは、お察しの通りにて」


「ななななな何言ってるんでしゅか、刑部しゃんは!
 いやでしゅよ~(苦笑)」


「やはり!
 いや只ならぬぬこ殿だとは思うておりました!」


「戸田しゃんまで、もぉ~~!(焦)」




「わはははははははははは!」


お家元は戸田勝成とも親交を持ちました。

一ヶ月前に突然現れたこの白いぬこは、今や当の大谷家中の足軽や小者達から
“吉兆の白いぬこ”と噂され、持て囃されていました。
このぬこは人にはとても御することが出来ない凶暴な虎(皆のイメージ)を易々と従え
意のままに操っているように見えたので、その点でも尊敬を集めていました(笑)







伏見城攻めが未だ続いていたこの頃、大坂城に緊張が走る報せが入ります!

“加賀・前田家、二万五千の兵をもって、金沢を七月二十六日に越前方面へ出陣!”



加賀・前田家は秀吉の朋友・前田利家が興した大名家です。
生前の秀吉や三成は早い頃から、この人物を内府(家康公)に対抗する勢力に
仕立て上げようと手を打っていました。
秀吉の死後、華々しい戦歴と家康以上の人望を集めていた前田利家は
期待した通りの活躍を見せましたが、この人物は秀吉の死後僅か約半年で
後を追うように亡くなってしまいます。

その後、秀吉の遺言に沿って嫡子の前田利長が“五大老”を継ぎましたが
家康の最初の仮想敵国として狙われる破目になり、
”家康暗殺計画”の黒幕と疑いを掛けられてしまいます。

前田家は家名を死守するために屈辱的な要求を呑みました。
故・利家の妻まつを人質として江戸へ送ったのです。

この出来事はその後に大きな意味を持ちました。
家康も利家もどちらも同じ豊家の家臣なので、それぞれの妻妾を大坂に置いていましたが
同輩の大名が自分の領国に人質を要求した訳ですから、家康の狙いは最早
隠れなき段階に入りました。

本来家康は前田家が要求を受け入れず、挙兵してくれる事を最上と考えていましたが
すぐに次の敵国を想定しました、それが上杉です。

前田家としては本意ではありませんでしたが、家康に恭順を示すためには
大坂方と干戈を交えるのも止む無しという苦渋の決断でした。

そんな背景があったので大坂方の挙兵が明らかになった頃、前田家は軍事行動に移ったのです。



前田勢はまず加賀南部の小松城に狙いを定めましたが、小松城は“北陸無双の城郭”として名高く
労多く功成り難い、攻め手には犠牲の大きい城だったので、
僅かな兵を抑えに置いて、その先の大聖寺城を攻撃目標としました。


大聖寺城の山口親子は10倍の敵を相手によく戦いましたが、善戦虚しく遂に破れ自害しました。
8月3日の出来事です。

大聖寺城を落とした前田勢は次に北ノ庄城を目指しました。
このままでは越前は前田勢に蹂躙されてしまいます。

刑部は報せを受けて直ぐ様、救援のため北陸に向けて麾下の大名と共に向かいました。
越前中の兵力を併合すれば、前田勢と同数の兵力を催す事は可能でしたが
総力戦を行うにはリスクが大きく、刑部にはある考えがあったので
居城の敦賀に進軍を続けながら次々と手を打っていきました。
刑部の真価が発揮されたのは、正にこの時期です!


刑部は前田勢の耳に入るように真しやかな情報を展開させ、
前田勢のアンテナに掛かるように手を打ちました。
その内容は

“大坂方、上方(近畿地方)をほぼ制圧!”
“大谷勢、はや越前国に進軍!”
“上杉勢、越後を席巻し加賀へ進行中!”

など、次々と入る不利な情報に前田勢は大いに動揺しました。
とはいえ全て未確認の噂に過ぎないので前田勢も実際の動きは変えません。
そんな中、前田勢を驚愕させる決定的な書状が届きました。


“この度、大軍を催して近国を平らげんとの噂を聞いております。
 それによりそちらに大坂から大軍が向かっております。
 大谷刑部が敦賀に軍船を揃え、皆さんの留守を狙って加賀の隅々へ
 乱入しようと企んでいます。
 陸路と海路両方から敵を受けるような事になっては被害は甚大です。
 どうかよくよく考えて動いて下さい。”


といった内容です。
差出人は当主・前田利長の妹婿の中川清六郎光重の手蹟による直筆の書状でした。

前田勢は身内からの報せを信じて、領国・加賀へ撤退を始め
厳しい追撃を受けながらも命からがら戻りました。


これは刑部の図った企てでした。
刑部は多方面から様々な情報を発信して、前田勢の元へ届くように仕向け
撤退を促しました。
大坂で囲っていた中川光重に虚報の書状を書かせたのも刑部です。


「お家元、刑部殿は凄いですね、まるで魔法を見ているようでした!」


「あい、刑部しゃんの本領が発揮さりた瞬間でしゅね。
 でもこりは刑部しゃんだから効果を発揮したとも言えるんでしゅよ、タイガーしゃん」




「??」


「相手の利長しゃんの心の機微を的確に読んでいたという事。
 攪乱した後に身内からの報せを届けさせたタイミングが絶妙だった事。
 何よりも何も用意してないのに、軍船を仕立てて攻めようとしているのが
 自分だと知らしめた事でしゅね!」


「???」


「タイガーしゃんにはわかりましぇんよね、こりは失礼。
 実は船を多く手配するというのは、この頃は結構難しい事なんでしゅよ。
 この時代、大軍勢を無駄なく迅速に運べる段取りが出来て、その実績があるのは
 おしょらく三成しゃんか刑部しゃん以外には、精々数人がいいとこでしゅ。

 刑部しゃんは自分が指揮を執っていると伝えれば、利長しゃんが信じるだろうと
 読んでいたんでしゅよ!
 これは刑部しゃんが自惚れている訳ではなくて、客観的に戦局と敵将の心理を読んだ
 高度な戦術でしゅ!
 他の方では信じたりはされなかったはずでしゅから!」


「す、凄い・・・!」




「あい、戦況を客観的に見るというのは誰にでも出来る事じゃありましぇん。
 言われて出来る事でもありましぇんけどね」




タイガーしゃんは戦慄を覚えました。




その後、前田勢への警戒を怠らぬよう北陸の守備を固め、その処置に追われていた時、
三成から報せが届きました。

“至急、組下の諸将と共に美濃表へ参陣願いたし!”

刑部は倅の吉勝と木下頼継、
平塚為広
戸田勝成

脇坂安治
小川祐忠
朽木元綱
赤座直保

らと共に9月初旬に関ヶ原近辺に入り、来るべき戦を想定して
関ヶ原一帯に陣地を構築する役目を担いました。

特に古い城跡のあった松尾山には大規模な山城を築き、総大将・毛利輝元を迎えるに
相応しいものを築きました。
“松尾山新城”の完成です。

9月7日~8日頃には続々と大坂方の諸将が大垣~関ヶ原に参陣し始めました。





お家元は関ヶ原に構築されていく陣地が完成していく様子を見ていく内に
記憶に残っている関ヶ原の姿に近付いていくのを感じ、
いよいよ自分達の果たすべき役割が間近に迫った事を自覚しました。


「お家元、もうすぐですね・・・・・」




「あい、ひこにゃん達はそのために来たんでしゅから!
 失敗は許されましぇんよ、タイガーしゃん!」




「はい!」


二人もまた決死の覚悟でこの地に立っていました。
その姿を遠くに見ていた湯浅五助は、只ならぬ雰囲気でいる様子を
盲目の刑部に伝えていました。
 
 




    ”関ヶ原の戦い”まで、あと一週間!







                 つづく










次回予告 )

再び関ヶ原の地で運命の日を迎えたお家元とタイガーしゃん。

刑部にさえ話していない真意を隠したまま、哀しい結末を再度見届けなければいけない二人。

二人は胸に秘めた悲願を叶える事が出来るのでしょうか・・・・・




第五章 ~開戦・2度目の“関ヶ原の戦い”~




インターミッション XXX(b)

2010-11-09 23:04:17 | 彦根ノムコウ



                ~(a)よりつづき~








そんな刑部の苦しみをお家元は目を逸らさずに見守り続けました。
やがて刑部の言葉は尽き、姿勢を正して威儀を直しました。

刑部が心の内を全て吐き出し、冷静に耳を傾けられる時をお家元は待っていました。


「垂井で刑部しゃんを待っていた5日間、ひこにゃんが至った結論もそりでした。
 きっと刑部しゃんはうちひしがれて戻られると思ってたんでしゅ」


刑部と三成が及んだ話しの内容は後世色々と想像され、この場を見たかのような
書かれ方もありますが、実際は不確かです。
”ぬこでもわかる関ヶ原の戦い”には、この時の様子は

『佐和山城に入城した大谷刑部は石田三成の企てを諫めたけど、後に協力を承知したんだニャン!』

と簡単に書かれているだけです。
にも関わらず、そこまで考えを膨らませていたお家元はただの秀才ではありません。
しかもお家元は状況を読んでいただけではありませんでした!
 

「この5日間、ひこにゃんはただ”だらにゃん”してた訳じゃありましぇんよ!
 この垂井の陣で刑部しゃんの将士・約1000人と、ご飯やお汁を囲んだりして
 みんなが持っている想いをさり気なく聴いて回ってたんでしゅ」


「千人全てと!?」


「あい!
 そんな中で今回の会津発向のために新規で雇った兵でしゅら、銭(お金)目当てで志願した兵は
 ほとんどいなかった事でしゅ。
 みんなは刑部しゃんの下で働く名誉を頂いた代わりに、精一杯の御奉公で返そうという
 高潔さを持った士ばかりなんでしゅ!

 こりはお世辞じゃありましぇん!

 みんなは口々に刑部しゃんの立派しゃを自慢げに話したもんでしゅ。
 ある者は二つと無き地での働き場所を得た喜びを語り、
 ある者は誇りを持って仕える主君を得らりた事を語らりました!
 さんざんそんな話を聞かさりたんでしゅよ、ひこにゃんは!(笑)

 そりでひこにゃんは話しの最後にみんなに聴いたんでしゅ、
 もし刑部しゃんが勝てない戦としりつつ起ち上がる時がきたらどうしましゅか?って。

 みんなの答えは一緒だったんでしゅ!

 『刑部様がお決めになられた事ならば、それは必ず正しい道の筈!』
 『我らは刑部様を信じて進めば善いのじゃ!
  それに刑部様なら我らを無駄死にさせるような用い方はせぬ』
 『例え生命を落とす事になろうとも、大谷家の何某は立派な働きをしたと
  きっと後世に名を残す事だろう』

 みんな刑部しゃんがどんな采配を揮おうと迷わず付いていくと言い切ったんでしゅ!




 刑部しゃん!いいんでしゅか?
 このまま悔やんでも悔み切れない想いを抱いたままで・・・・・

 三成しゃんと袂を分かったままで!」


お家元はいずれ刑部が三成に協力する事は知っていましたが、未来のお家元が言っていたように
状況をあくまでも慎重に見極めた上で、決して手を抜く事無く
最善の努力を惜しまぬ決意に燃えていました!
そのため刑部の決心を容易にするためのお膳立てを試みたのです。

刑部はお家元の言葉を聞いて、心を覆っていた暗雲が取り払われていく想いでした。
もう迷いはありませんでした!






「ぬこ殿、儂は今定まった。
 治部に合力する事としよう!」


「そりは重畳でしゅ!」


「そなたは何処から来たぬこなのじゃ?」


「ひこにゃんは410年後の彦根から、刑部しゃんに協力しゅるためにやって来たぬこでしゅ!」




「忝い!」



刑部はその言葉を疑いませんでした。













7月11日、刑部は再び佐和山へ向け出立する準備をしていました。
三成の挙兵に加わるよう申し入れるためです。

この4日の間に平塚為広が佐和山から戻って来ましたが、三成の心を変える事は出来ませんでした。
平塚為広は責務を果たせなかった事を詫びましたが、刑部はその働きに感謝し
わざわざ足を運んでくれた事を労いました。

戻った平塚為広と主だった者達を集めた刑部はお家元の正体を皆に伝えました。
それを聞いた者達は『成る程!』と簡単に納得したものです。
そうでなければ説明出来ない事をお家元は披露していたので混乱はありませんでした。

今やお家元が陣中を歩けば
「ぬこ殿!」
「ぬこ殿じゃ!」
「ぬこ殿、お腹は減っておらぬか?」
と大谷家中のアイドルになっていました




いやはや流石というべきです!(笑)


そして今回の佐和山行きにはお家元も同行するつもりです。
もっとも城には上がらず、吉勝らと近隣の寺院に逗留する手筈になっています。

約2ヵ月後に彦根寺にやって来る4月のお家元より先に、石田家中のみんなと
この時点で会う訳にはいかない事情を刑部達は理解してくれました。



 
佐和山に再びやって来た刑部は三成に向かって


「治部、毛利からの返事は?」


「・・・・・・・未だ来ぬ。

 しかし、刑部!聞いてくれ!儂は・・・・・」


「もうよい。
 毛利の返事がどうであれ、儂はお主に附く事に決めた!

 儂の生命はお主のものだ、好きに使うがよい!」


「・・・・・・・刑部!

 よくぞ、よくぞ・・・・・・・・・お主が加わってくれれば、これほど心強い事はない、忝い!」


「治部、戦はこれからじゃ!」







佐和山城を仰ぎ見ることが出来る、半里(2km)ほど離れた寺院に
大谷吉勝とお家元達は陣を置くため入りました。


「・・・ぬこ殿、毛利殿は味方にはなってくれぬのですか?」


吉勝は聞いていいものか恐る恐る訊ねました。


「しょろしょろ佐和山に安国寺しゃんが来るはずでしゅ。
 毛利からの内諾を持って!」


「ほ、本当ですか!?
 それは凄い!ぬこ殿もぬこが悪い、何故もっと早く言って頂けなかったのですか?」


「刑部しゃんには事前に聞かせたくなかったんでしゅ。
 三成しゃんに協力しゅる決心をする前に伝えていたら
 刑部しゃんは晴れ晴れと佐和山には向かえなかったはずでしゅから!」




「ご尤も!・・・・・ぬこ殿の深い考えも知らず、度重なる無礼をお許し下さい!」


「いいんでしゅよ(笑)
 吉勝しゃん、戦はこりからでしゅ!」




お家元は刑部と同じ言葉を発していました。










刑部が己一人なりとも力になろうと再び佐和山に入った時、
毛利からの返事は着いてはあらず、三成の焦燥は極限にまで達していましたが
刑部に続くように入城した者が西からやって来ました、安国寺恵瓊です。

安国寺恵瓊は”安芸中納言(毛利輝元)様、大坂に御味方の由”という
重大且つ待ちに待った報せをもたらしました!
安国寺恵瓊はそのために現職の奉行による正式な出馬要請を文書で出すように求めました。
三成は了解し、早速その依頼に応えるべく大坂にいる増田長盛にその旨、書状を認めました。

この7月11日の時点では”五奉行”は二人が辞任(一人は三成)しており、三人で運営されていました。
三成の書状が増田長盛に届いたのは7月12日、増田は他の二名の奉行・長束正家と前田玄以へ
即座に持ち掛け、その日のうちに広島へ向けて出馬要請を送り出しました。
(そんな動きの影で、三成のように待つ事に耐えられなかった増田長盛は
 大坂方の戦略を左右するほどの致命的な失敗を犯していました)


三奉行からの要請が広島城の毛利輝元の下へ届いたのは7月14日、
けれど毛利家ではこの要請が届くのを見越して、既に軍備を整え軍船を手配し終えて待っていました。
毛利輝元は要請書を一読すると出陣を告げ、大坂に向け出航しました。
そして7月16日(17日説あり)には大坂城の沖合いは毛利の軍船で埋め尽くされ
大阪城の将士・女房衆・貴人達は沸きかえりました。
(この当時は大坂城の総構えの西側は大坂湾に面していました)

この頃の船舶には内燃機関などは無く、横帆と櫂でしか推進力を得なければいけない時代、
広島からほぼ2日で漕ぎ着けたほど、この時の毛利輝元は戦意に溢れていました。

数日先までの動きを追っていくと、事態は三成が意図した通りの様相を帯びていきます。
三成にしてみれば”我が事成れり!”と悲願が成就した瞬間だったでしょう。

けれど成功が大きければ大きいほど三成の失望は大きくなっていきました。
その訳は毛利の参戦が確実になった時に、刑部が呈した苦言に端を発します。




「刑部、とうとう毛利が大坂方についてくれたわ!
 これで味方は更に増えていくはずだ!
 それにはまず大坂にいる大名の妻子を手の内とし、関所を築いて去就に迷う大名に
 呼びかけよう!さらには・・・・・・・」


三成はこの後の戦略を次々と思い浮かべた順に諳んじましたが、刑部は遮りました。


「治部、お主はこの戦の大将ではない。
 出過ぎた真似は控えなければいかんぞ!
 大坂方の総大将は”毛利輝元殿”、副将は”宇喜多秀家殿”なのだからな」


「そうじゃな、我らの総大将はあくまで”毛利輝元殿”であったな。
 とはいえ刑部よ、我らも早速に大坂へ向かわねば・・・・」


「治部、儂の言った意味が通じなかったようじゃな・・・・・・
 お主はここまで本当によくやった、流石は”石田治部少輔三成”じゃ!

 だがお主の役目は終わったのだ、後は佐和山で事の趨勢を見ておればよい・・・」


刑部は三成が耳を疑うべき事を言いました。


「なに!? 儂の役目が終わっただと?
 何を言っているのだ刑部、戦はこれからではないか!?」


「お主ほどの者が分からぬ訳があるまい・・・・・」


「!!・・・だが・・・・しかし、刑部それは・・・・・・」



世上この時に刑部が三成に言った内容は
「お主は皆に好かれておらぬ、それ故お主に大将は務まらん」
というような主旨と謂われています。

けれどそれは刑部の言いたい本質ではなかったはずです。
実はこの”関ヶ原の戦い”は史上稀にみる隠れた性質を持った戦でした。

現代人の私達には至極当然、けれどこの時代の人々には理解の外にあった斬新な発想、
三成はそれ故に今後の戦への参加を制限される立場に自らを追いやってしまいました。


三成の斬新さを簡単に言うならば、”官僚主導による政治”と”役割分担の明確化”でした。

日ノ本全てを従える巨大軍事政権・豊臣家はもはや秀吉公の目が隅々まで届くには
不可能なものになりました。
その為、日々の運営や業務は高度なマニュアルが必要となり
その業務をこなせる高級官僚を生み出す形になりました。
そのマニュアルを作ったのが三成なら、頂点にいたのも三成でした。
全ての大名を統轄管理した上で執行される形態は、現代でいえば国会(内閣)と酷似しています。

そのほとんどの者が領国を持っており、軍事と経営も同時にしなければいけなかったので
多忙さは現代とは比較にならないかもしれません。


そうした解釈から、政権維持と景気の高揚の見込まれる政策には秀吉の決済さえあれば
後は全て官僚達の手によって発案・施行していく事が可能になりました。

現代でも実際は各省庁の大臣ではなく、その下の官僚によって政策や運営が
行われているのと同じです。

それもそのはず!
実体として官僚が重大な国家運営を担い実行するこの仕組みを最初に創造したのが
石田三成だからです!!
それ以前にはこの仕組みはなく、また消える事無く現在も続いている仕組みです!


もう一つの”役割分担の明確化”を例えると
大企業が何か画期的な商品開発をしようとしたり、大きなイベントを企画しようとすれば
まずプロジェクトチームや臨時の委員会が誕生し企画がスタートします。
この時点で具体的な推進計画が組まれ、それに伴う関係部署への根回しや協力、
スポンサーの獲得などもあるはずです。
そしていよいよ実行となれば、後は専門の部署が開発販売や開催を請負います。
プロジェクトの発案者が新商品のコンセプトは持っていても、原材料や製法にまで
口出しする事はしないでしょうし、販路について営業の管轄に踏み込んだりはしないはずです。
またイベント会場の小屋作りは専門の業者が仕切るはずです。

これら全てに口を出して許されるのは”トップ”だけです。
三成は発案者であってトップではありません。
三成の上には仰ぎ見る大大名が数多くいるのです。

そして皮肉な事に、対極の内府(家康公)は全てを仕切れる実力と地位と石高を持った
紛れもない”トップ”でした。




刑部はこの事を三成に指摘しました。


「お主は秀吉公ではない、ましてや豊家の奉行(官僚)でなくなった今は資格もない!
 お主は19万石のただの一大名なのだ。
 発案を担ったお主の策は、この先実行部隊の総大将に就任した毛利殿や宇喜多殿へ
 引き継がれて然るべき段階だ。
 豊家と関わりのなくなったお主がこの先も出張って来ては現場が混乱してしまう!
 後は我らに任せよ、治部!」

といった主旨でした。


三成の苦労を誰よりも分かっている刑部には辛い言葉でした。
けれどこの事に明確に気付いているのが自分だけなら、負う役目もまた
己だけだと刑部は思いました。

これには三成も閉口するしかありませんでした。
ここまでの仕組みを作り上げる事が出来たのは天下に自分一人という自負の元、
最後の到達点が思わぬ形でやって来た事に三成は失望しました。
いえ絶望したと言った方が正確でしょう。



「・・・・・・・・分かった、刑部よ・・・」


三成は深い絶望の中、現奉行の増田長盛へ向けて家康方への宣戦布告となる
”弾劾状”の草案を書き始めながら


「(俺の役目はこの草案までか・・・・・・)」


と思い、筆はいつものようには滑りませんでした。












けれどその三成の甲斐あって大坂に集結した軍勢は10万を下らず、初報を聴いた内府(家康公)は
大いに動揺しました。
内府(家康公)の予想では三成が声を掛けても、精々2~3万だろうと高をくくっていたからです。
それにより内府(家康公)もまた必死になり、9月15日を迎えます。





その後三成はよく自制をしましたが、集結した軍勢が思ったほどに機能しなかった事に我慢出来ず
7月29日、遂に伏見城の攻城戦を督戦するため軍勢を繰り出します。

初戦から様々な波乱を含み、日本全土を巻き込み戦は始まりました。




    ”関ヶ原の戦い”まで、あと一ヶ月半!







                 つづく














次回予告 )


伏見城が陥落し、戦力を美濃・伊勢・北陸の三方向に同時展開し始めた大坂方。

お家元は刑部と共に”北陸平定戦”に参加する事になりました。

敵対する勢力は”加賀・前田家”!

刑部の知略智謀が縦横に走り、前田家を翻弄します。




第四章 ~刮目・大谷刑部の神算鬼謀!~




インターミッション XXX(a)

2010-11-09 22:48:19 | 彦根ノムコウ
”【妄想】ひこにゃん”に捧げます。


Your Song 儂の謳はそなたの謳
第三章 ~挙兵・呼び起こされた心~













慶長5年(西暦1600年)7月7日 
美濃国 垂井宿






お家元達が垂井に滞陣している間、日に何度も軍勢が通り過ぎていく光景を目にしました。
皆、会津に向かうためです。
内府(家康公)への覚えを良くするため、少しでも早く会津へ向かおうと
気負っている軍勢も少なくありません。
けれどそんな光景とはまた別の緊張感を保ちつつ、垂井の陣では5日が過ぎていきました。


刑部が佐和山から戻って来る先触れが垂井の陣に届きました。

出迎えようと遠くから戻る様子をずっと見守っていた大谷吉勝、平塚為広
お家元、タイガーしゃんは、刑部が憔悴しているのが遠目からでも分かりました。
無理もありません、この5日間刑部は三成と議論をし尽くして戻って来たはずですから。




「お帰りなさいませ、父上。
 (ぬこ殿の言うた通りじゃ、本当に五日目に戻られた・・・・・)」


「うむ・・・・・・・・吉勝、平塚殿はお出でか?」


「刑部殿、ここに」


「ぬこ殿は?」


「あい、こりに」




「皆、陣屋にお越し願えぬか、大事な話し故・・・・・・」


「はい!」「承知!」「でしゅ!」







人払いをした陣屋の奥で首脳陣のみの場が設けられました。
皆は刑部が口を開くのを今か今かと待ちましたが、刑部は中々口火を切りません。
それだけの大事だというのが否でも分かりました。
しばらくして重い口が開くと・・・


「・・・・・・・・治部は兵を挙げるそうだ・・・・・・」


この場にいる者達は例外なく、やはり!と相槌を打ちました。
行動を共にしていた湯浅五助だけは既に知っており、刑部と同じく沈痛な面持ちでいました。


「儂は治部の示す策があまりに早計に思えたので、時間を掛けて説得を試みたが
 治部は聞き分けず、引き返すつもりは毛頭ないの一点張りでな・・・・・
 共に謀った直江山城(なおえやましろ)や上杉を孤立無援には出来ぬと言いおった。

 直江山城に事前に相談しがら儂には何も・・・・・・・治部も水臭い奴じゃ・・・」


刑部は年来の親友にも関わらずギリギリまで自分には相談しなかった事を
若干の皮肉を込めて言いました。


「それで父上の存念は如何に?」


「儂の言い分も変わりはせぬ、治部とは物別れとなった」


お家元が吉勝や平塚に事前に与えていた情報と食い違いはありませんでした。
刑部の話しを聞きながら皆はお家元が言い当てた事に今更ながら驚嘆し
畏敬の念を込めて横目で見ていました。

この間お家元は刑部の言葉に口を挟みませんでした。


「平塚殿!」


「はっ!」


「貴殿にお頼み申す、治部を止めて頂けぬか?
 儂の諫めを聞かぬ治部も貴殿からの言葉であれば聞く耳を持つかもしれぬ。
 佐和山に向かって頂けぬか、平塚殿!」


刑部は苦痛に歪む身体を精一杯折り曲げ頭を下げました。


「分かり申した。
 某(それがし)に治部殿をお止め出来るか自信はありませぬが、早速佐和山に向かいまする。
 実の処、某が佐和山に向かうであろう事はぬこ殿に含んで頂いて折り申した」


「なんと!」


お家元が自分達を俯瞰して見ている存在だと、この瞬間刑部は確信しました!
そして黙ったままでいるお家元の方に顔を向けました。


「皆、ちと下がってくれぬか・・・・・・、儂はぬこ殿と大河殿に話がしたい!」


皆が退出し、部屋には刑部・お家元・タイガーしゃんの三人だけになりました。


「ぬこ殿は儂が今日戻ることを予め告げておったな、
 其の方の申す通りになったのう」


「・・・・・・・」
 

「今日のぬこ殿は先日とは打って変わって無口じゃな(苦笑)」


雰囲気を一変させ刑部が核心に迫りました。


「・・・・・・・そなたはこうなる事を知っておったのであろう・・・」


「あい」


「ならば佐和山で儂と治部の話がどこまで及んだのかも存じておるのかな・・・」


「・・・・・・”毛利”でしゅね!」




「その通りじゃ!」


刑部が最も期待した答えをお家元は用意していました!
これが吉勝と平塚には伏せていた情報です。

世上この5日間は挙兵を持ち掛けた三成を刑部が思い止まらせようと説得していたと伝わっています。
が、それだけで終わった訳がありません。
もっと大事な話しが出て、その答えが来るか待っていた時間でもあったはずです。
それには話しを2年前に遡らなければいけません・・・・・









内大臣・徳川家康公。

日ノ本を平定した豊臣家の中に於いて、最も輝かしい戦歴と広大な封土を持つ大大名です。
この大名を超える人物は太閤・豊臣秀吉公以外には存在しません。

豊臣家の首脳陣が最も気を遣い、最も警戒したのがこの人物です!

内府(家康公)はこの国を治めている豊家(ほうけ・豊臣家の略)に疑いを持っていました。
この現政権は日ノ本をごく短期間で平定し、かつ源頼朝や足利尊氏(高氏)でさえ徹底出来なかった
完全なる武力平定を成し遂げ、古今に例無き大偉業を成し遂げた一族です。

しかしその一方で、平定を急ぐあまり地方の大大名を残したまま、妥協を繰り返して成立した
不完全な政権とも云えました。
これでは秀吉公が生きているうちは良いが、もしこのカリスマが身罷った時には
途端に均衡が崩れ、再び長い戦乱が引き起こされるであろう事は可能性として低くはありません。

しかもこのカリスマは跡取りに恵まれておらず、数少ない身内にすら無理を強いて命を縮め
自らの基盤を脆弱な物に変えてしまいました。
ようやく生まれた跡継ぎは幼いうちに命を落とす事なく健やかに育っていましたが
政務を執れるほどには成長していません。
しかもその太閤も近頃は体調を崩して寝たきりとなり、いつ露と消えてもおかしくないほどです。

そんな状況で打ち出された今後の政権の運営方法は、幼い”秀頼君”が成人を迎えるまでは
五人の大大名による”五大老”の合議により意思決定を行い、
豊家最高執行機関の五人の閣僚である”五奉行”によって施行される事。
たった一人の独裁政治が行われないように考え出されたこの政策は
公式的には”五奉行”中四位の地位にも関わらず、
最年少ながら事実上最高位の奉行として辣腕を揮っていた石田三成です。


けれど内府(家康公)はこの”豊臣第一主義”で、現状に相応しくない妥協案は受け入れ難く
強固な封建制度と身分固定(士農工商)を布き、規制と制限に厳しい政権がなければ
百年の太平はとても臨める訳がないという理想と、それは徳川家の手によって執り行いたいという
野心の両方を内に秘めていました。


”五大老”の筆頭大老として君臨していた内府(家康公)は、太閤・秀吉が死んだその日から
動き出しました。
秀吉公の生前に交わされた膨大な誓紙を反故にし、自ら問題提起をしては収めるといったような
マッチポンプを繰り返したかと思えば、時には人目を憚らず筆頭大老として強権を揮い
豊家の切り崩しを狙った手を次々に打ち始めました。

それに対して石田三成はその都度その急先鋒として、内府(家康公)の非を訴え
遺法の遵守を声高に叫び続けました。

けれどその直後、朝鮮から帰陣した武断派の武将達の怨嗟の的になっていた三成は
その構図を巧みに利用された内府(家康公)の裁定により、豊家最高執行機関である
”五奉行”の地位を追われ、天下の仕置きの権限を一切失い
湖北19万石(佐和山)のただの一領主となってしまいました。
(無理矢理現代の仕組みに例えてみるなら、現内閣で官房長官を勤めていた国会議員が
辞職を余儀なくされ、 元々兼任していた県知事の公務だけに専念する事になり
国政への参加資格は失くしてしまったといった所でしょう)

ですが領国に逼塞してもこの天下の才人は豊家への忠誠の火を決して消しはしませんでした。
もてる人脈を大いに使い、自分と志を同じくする大名達と連絡を取り合い
また味方を募るため新たな仕掛けを模索し始めました。
今や天下に対して何の権限も無く、佐和山19万石の中堅大名でしかなくなったにも関わらず
この男の気概は一層大きな気宇を帯びていきました。


三成は内府(家康公)がした豊家への冒涜行為をただ叫んでも、味方が増えないばかりか
より鮮明に敵を浮き彫りにしてしまう事に苛立ちました。
豊家への忠義が人一倍強く、忠節無比のこの人は
皆もそうあるべきだという潔癖さがあったので、
実利や損得で動く者らは己への批判のように受け止め、三成からの蔑みと錯覚し忌み嫌いました。
三成にしてもそんな想いで仕えている者達と手を取り合ってやって行く気は薄かったので
そういった者達への機微が足りなかったのは否めません。


奉行を辞してからも現奉行として務めを続ける”五奉行”の元同僚、
増田長盛と長束正家は日々の公務の様子を佐和山に頻繁に届けてくれましたが
その内容は悲鳴に等しく、内府(家康公)の専横を止められぬどころか
傍観同然の元同僚の気概の薄さに失望しました。

内府(家康公)の増大する権勢と、我先にその与党に与しようと靡く大名達を見た三成は
豊家の先行きを危惧し、俺が何とかしなければ・・・という気負いを募らせていきました。


三成は奉行を辞すまでの間、内府(家康公)を政治的に封じ込める策を
次々と展開しましたが、内府(家康公)の巧みさに有効に機能し切れませんでした。

その結果三成が最終的に行き着いた結論は、豊家の名の下に正式な名分で軍を発向し
”内府(家康公)を討つ!”です。

この中で以外にも名分を得るのは簡単です。
内府(家康公)の遺法破りは明らかですし、文書を発行するのに必要な事務的手続きは
現奉行の増田長盛や長束正家が作成出来ます。
最もその公文書には幾人かの大老の認証が必要になりますから、味方に引き込む必要があります。

最大の問題は内府(家康公)と戦ってくれる味方を募る事でした。
逆に内府(家康公)の方は全く逆の点で苦労します。

内府(家康公)の強引なやり口に不快を顕わにしている大名は少なくありませんでしたが
表立って立ち上がってくれるかといえば話は別です。
豊家の安泰のためにと謳っても、そんな抽象的な目的で行動を示す者はいません。

その結果三成が至った結論は”絶対に勝つのはこちらだ!”と思わせる陣営の構築です。
そう思わせる事が出来れば味方は増え、また迷っている者さえも引きずり込む事が出来るからです!

その最大の焦点になるのは家康に匹敵する”旗頭”を戴く事!

ただし幼少の主君・豊臣秀頼はこれには当たりません。
指揮能力然り、カリスマ性も未知数のこの幼児は現在戴くべき象徴でしかないからです。
それに内府(家康)も豊臣の臣という前提を越えて動いてはいません。

石高で徳川に勝る大名は豊家以外にはありません。
それでも”旗頭”として選ぶなら百万石以上の大大名とうい事になるでしょう。
となれば、前田・上杉・毛利の三家です。
この三家は豊家の”五大老”でもありますから資格は充分にあります。

その中で家康が唯一遠慮した前田利家は既にこの世を去り、その息子達は家康の前に
膝を屈しています。
上杉は家康の軍勢を一時引き付ける役目を担っているので、これも除外されます。

となると残りはひとつ、”毛利”です。

この一門を味方に出来るかどうかが成否を握る鍵なのです!
別家や支族を含めれば、この一族の総石高は徳川家に匹敵する唯一の大大名でしょう。



一般的に毛利に大坂方の総帥として依頼した時期は毛利輝元がこの戦に加わるために
安芸・広島城から上坂する数日前となっていますが、そんな訳はありません。

一族の合議制で方針が決められる家風の出来上がったこの一族は
本家の当主・毛利輝元の一存で動けるほど簡単ではありませんでした。
逆にいえば別家や支族に連なる人材が頼もしい者達ばかりなのです。

おそらく一族内で方向性が定まるまでに紛糾した長い時間を必要としたはずです。
そのために調整役と根回しに奔走し、三成の窓口になった人物がいます
”安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)”です。
三成はこの外交僧を通じて、毛利輝元の総帥就任を促す工作を以前から始めていたはずです。

輝元の祖父・中国地方の覇者・毛利元就は決して中央への欲を出すべからずと遺言したほどで
万事に慎重で大所帯の毛利が数日で大いなる決定を出来る訳がありません。

三成の非凡な所はこうした有力な大大名には決して当主自身に直かには働きかけず
必ずその右腕たる家老を通じて打診したところです。

上杉には直江を通じ、宇喜多には明石掃部を通じ、毛利へは安国寺を通しました。
これは同じ家老に就く者達ならば立場や役割をよく理解し、当主を説得させるにも
うってつけでした。
三成自身、太閤・秀吉へ持っていた役割が正にそうだったからです。

刑部を佐和山に呼んだこの時期、三成はこの戦略の”キモ”である毛利家の返事を
待っている所でした。
刑部を呼んだ三成はここまで掛かった経緯と苦労を刑部に吐き出しました。

三成にとって、この時点でこの極秘事項を話せる相手は刑部しかいませんでしたし
かつて同じ奉行として各地を飛び回り、知恵を搾り合った同僚である親友は
時に苦労を強調する話しにも5日間よく付き合ってくれました。


「だから刑部、お主も儂と共に起ってくれぬか!」


三成はそう頼んだ事でしょう。


「治部、肝心の毛利からの返事はどうなっているのだ!」


この会話が何度この5日間の間で出た事でしょう・・・・・
刑部は毛利の参戦が得られなければ、大した勢力とは成り得ず
負けは必至で、その結果一族郎党全てに累が及び、いたずらに命を落とすだけだと説きました。

結局毛利からの返事は届かず、しびれを切らした刑部は


「治部・・・・
 毛利の返事は来ぬ、諦めよ!」


刑部は慎重な毛利が総帥の役目を引き受ける確立は皆無だと思っていました。
親友に対して残酷過ぎる言葉を残して、刑部は佐和山を去りました。









この5日間の詳細を刑部の口からお家元とタイガーしゃんは聞きました。

時に三成の心情を肩代わりして話す刑部に普段の沈着さはありません。
親友の無念さ、苦労、現状を引っくり返す起死回生の策が刑部には乗り移っていました。
熱くなるのは無理からぬ事です。
そして刑部も三成同様、遠慮なく大事を話せる相手がいなかったのです。


この”ぬことトラ”以外には!


こんな話が出来る相手は自分の立場と状況を熟知してくれていなければ出来ません。
三成にとっての相手が刑部であり、刑部にとっての相手がお家元でした。




「治部・・・・・三成の事を世間では横柄者(へいくゎいもの)と揶揄し、恨みを持つ者も少なくない」


「三成しゃんは秀吉しゃんの政(まつりごと)の執行者でしゅからね・・・
 本来秀吉しゃんに向けられる怒りや不平を全部三成しゃんが引き受けてましゅから
 怨嗟の的になるのは致し方のない事でしゅ」




「(やはりこのぬこ殿は分かっている・・・・・)」


刑部は親友の境遇を理解してくれている事を密かに喜びました。


「ぬこ殿の言う通りじゃ!
 三成は決して豊家に対して盲目に仕えているだけの愚か者ではない。
 例え殿下に対してであっても宜しからずと思える命(命令)には、理を説き誠意を尽くして
 諫言仕ったものじゃ。
 儂などは殿下に申し上げてもお怒りを蒙るばかりで、三成の取り成しが無ければ
 追放の憂き目に遭い、どこぞで野垂れ死んでいたかもしれん(笑)」


「そりは聴いた事がありましゅ(苦笑)」




「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 儂が三成から受けた恩はそれだけではない・・・・・数え上げれば切りがないほどじゃ・・・
 だからこそ三成が窮地に立つ事があれば、儂は迷わず応じると常々思っていたはずだった・・・


 儂は思い止まって欲しかった!
 もし三成が起てばそれは全国に飛ぶ火し、全ての者を巻き込み多くの人死にが出るだろう!
 そして日ノ本は再び戦乱の続く日々に逆戻りとなる筈じゃ・・・・・

 いや、それは綺麗事でしかない!

 治部と儂だけが組んでもそれは戦にすらならぬ!
 毛利の推載が得られぬとなれば最早挙兵とは言えぬ!だがそれも問題ではない!

 それでも治部が窮地に陥るのなら、儂はその友諠に報いたかった!

 だがそんな絶望的な戦に向け、敦賀の者達を戦に引きずり込む訳にはいかぬ!
 小なりといえど儂が治める敦賀の地に暮らす民に負担を掛け、仕える家臣とその一族達に
 儂の勝手な想いを押し付ける事が出来ようか!

 もし儂が秀吉公の元に仕えた頃のようにしがらみのない一人の近習のままならば
 儂は決して拒むような事はしなかっただろう!
 けれど今の儂は以前のように身軽では無くなってしまった!
 儂には己を殺してでも守らねばならぬ者達が居るのだ!


 儂は三成に乞われた手を振り解き、三成をさらなる窮地に追い遣ってしまった!
 三成の知己である儂が協力を拒んだと広まれば、多くの者は勝つ見込みは無しと
 三成を・・・・・佐吉を見做す事となろう!
 
 佐吉、佐吉よ!
 儂を許すな、儂を恨め!どうか憎んでくれ!!

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」




お家元達の目の前で刑部は本心からの懺悔を吐露しました。
これは三成にすら伏せていた心情です。
刑部は決して勝つ見込みが少ないせいで協力を拒んだ訳ではありませんでした。
ましてや生命を惜しんだ訳でもありませんでした。
刑部は私(わたくし)の友諠よりも、公(おおやけ)の国守としての責を全うすべく
苦肉の決断を下したのです。
にも関わらず、結果自分は最も過酷な状況を三成に差し向ける当事者に成り果ててしまった!
それは罹った業病よりも何百倍も辛い痛みでした・・・





                 ~(b)につづく~

インターミッション XXIX

2010-11-03 14:46:26 | 白いイナズマ
本日”城まつりパレード”と彦根城の登場(2回目は12:00~)で頑張っているもちさんと
昨日更新された公式ブログにインスパイアされました♪

”【妄想】ひこにゃん”に捧げます。
















2010年11月3日
城まつりパレード~15:00お稽古前
彦根城 表御殿








「あああ秋子しゃん、ただいまでしゅ~」




「お帰りなさいませ、お家元!
 町中を巡る”城まつりパレード”、本当にご苦労様です!
 カカオ・ポリフェノールたっぷりのココアですよ」

「流石は秋子しゃん、甘い物が欲しかったんでしゅ!」




「おっ、こりは!
 公式ブログが更新さりてましゅね♪
 あんまり時間はないんでしゅけど、どりどり・・・・」




ブーーーーーーーーーッ!!!




「ななななな何でしゅか、こりは!!!???

 ひこにゃんが”カニパン”を本物だと思ってた恥じゅかしい話しは
 ありほど書かないように念を押したはじゅなのに・・・・・プンプン!」




「お~にょ~れ~~!




15:00に博物館のお稽古に登場したお家元には鬼気迫るものが
あったとかなかったとか!(笑)





              おしまい