妄ひこで789~790を書かれた作家さん、ありがとうございます☆
“【妄想】ひこにゃん”に捧げます。
巨人と才人 ~磯うつ波の謳~
2013年4月某日
彦根城 表御殿
この月、7歳の誕生日を目前に控えた時から、お家元は天守前と博物館に毎日登場するスケジュールを引き受けるようになりました。
それというのも、週末や祝日以外に隔日で登場していた際、登場日ではない日に来られた観光客の方々が
「今日はひこにゃんいないの?」
というケースが後を絶たなかったからです。
困まり果てたお世話係さんが相談に来ると、お家元は「いいでしゅよ!」とふたつ返事で引き受けました。
これにより観光客の方々を失望させる事は払拭されたのです。
今日も三回の出番を終えたお家元は、晩御飯を済ませるとテレビを点けながら、うたた寝してしまいました。
テーブルの向かいには、いつの間にかカモンちゃんが来て座っています。
まだ眠気から脱しきれないお家元は、ぼんやりと開けた眼でそんな光景に気付きました。
せっかく来てくれたカモンちゃんに応えようと、お家元は眠い目をこすって起き上がります。
「カモンちゃん・・・」
「起こしてしまったなりか、ひこなん」
「構いましぇんよ」
「無理にカモンの相手をする必要はないなりよ、そのまま眠ってて構わないなり」
「すみましぇんね・・・」
カモンちゃんの厚意に甘え、お家元は再び横になりました。
テレビではニュースが流れています。
芸能やスポーツ関連ではなく、国会での安倍首相やTPPに関する政治のニュースでした。
「(カモンちゃんはあんな番組を観てて面白いんでしゅかね・・・)」
と、眠気と戦いながら眺めていると
「・・・いつの世も政(まつりごと)の舵取りは困難なりな・・・」
とカモンちゃんは独り言を呟きました。
それは言葉通り、誹謗や中傷ではなく、明らかに同情する言葉です。
やがてお家元はいつの間にか眠りに就いていました。
それから数日後、忙しいお家元を労うために、カモンちゃんがお茶に招いてくれたのです。
約束の日にお家元は、中堀り沿いにあるカモンちゃんの住まい、“埋木舎”に向かいました。
カモンちゃんは午前中の早い時間から庭を掃き清めて打ち水をし、露地で目の高さに掛かる樹の葉の一枚一枚まで、丁寧に汚れを拭き取る念の入れようです。
茶室に風を通した後に室温を整え、快適に過ごせるように準備に怠りがありません(※注1)
床の間に花を活け、炉に炭を起こして香を焚き、窯で湯を沸かします。
そして万端整え静かに約束の時間を茶室で待っていました。
此処は“埋木舎”にあるカモンちゃんの茶室“樹露軒”。(※注2)
しかも今日お家元の慰労の為に、この茶室に設えた茶道具は綺羅星のような名物ばかりです。(※注3)
炉の前で観念(ここでは正客を想って集中している意)していたカモンちゃんは、遠くで「ごめんくだしゃ~~い!」というお家元の声を聴きました。
侍女のかよさんに促された様子もカモンちゃんの耳には届いていたので、程なくして襖が開くだろうと待っていましたが、しばらくしても一向にお家元が来る様子がありません。
流石におかしいと思って室内から襖を開けて様子を窺うと・・・・
「シクシクシクシク・・・」
「なっ?な、ななな何事なりか!?」
「挟まっちゃったんでしゅ・・・」
「世話が焼けるぬこなりなぁ」
カモンちゃんに引っ張られて何とか窮地を脱し、ようやく茶室に落ち着きました。
気を練り“一期一会”の心構えを作っていたカモンちゃんでしたが、お家元の天然っぷりで全部ブチ壊されてしまった感じです(笑)
それでも心を研ぎ直すと、慣れた手付きでカモンちゃんは茶事を始めました。
まずは主菓子、と作法通りに行きたいところですが、それはお家元の好みではないと気遣い、クリームたっぷりのケーキを出しました。
そして本来ならお家元が食べ終わるのを待って、一旦中座した後に濃茶を点てるところですが、忙しいお家元の時間を尊重して、中座せず飲みやすい薄茶を続けて点てます。
カモンちゃんの点前は洗練されていて、動きに一切無駄がありません。
お家元はその流れるような所作を“美しい”と思いました。
ケーキを食べ終わったちょうどその瞬間、点てられた薄茶がそっと目の前に差し出されました。
頃合いの見立てまでカモンちゃんは完璧です。
「お点前、頂戴いたしましゅ」
そう謝辞を述べてから左掌で引き寄せつつ押し戴きます。
右掌で茶碗の縁をつまみながら時計回りに回し、口に運びました。
ゾゾゾっと音を立てて飲み干すと、お家元は堪らず
「プハー、おいしいでしゅ!」
と、奔放な感想を漏らしました。
作法としては「結構なお点前です」と応える事をお家元は知っていましたが、素晴らしい一服に素のまんまの言葉を吐いてしまいました(笑)
茶を点ててからずっとポーカーフェイスだったカモンちゃんも、流石にこれにはフフフっと笑みをこぼします。
この一言を引き出したくて、カモンちゃんは今日一日を費やした訳ですから。
形式的な茶事を終えたので、お家元はいつもの調子でカモンちゃんに話しかけました。
「この前ウチに来てた時に、カモンちゃんは「お祭りの菓子の取り合いは今晩」とか言ってましたけど、上手くいったんでしゅか?」
「??????
何の話なりか?
・・・・あぁ、国会のニュースを観ていた時なりか、聴いていたなりな(苦笑)」
「あい、なんか重苦しい感じがしてて気になってたんでしゅよ」
「・・・ちょっと昔を想い出しただけなりよ(苦笑)
・・・・・少しカモンの身の上話に付き合ってもらってもいいなりか?ひこなん」
「高くつきましゅよ(笑)」
「わかっているなり、茶事の順序としては逆なりが、膳も用意したなり」(※注4)
「あいあい!」
そうしてカモンちゃんはポツリポツリと語り始めました。
第一章 井伊直弼・千と世(ちとせ)の始まり
「カモンが生まれたのは文化12年(1815年)、彦根城二の丸とも、父上(井伊直中・いいなおなか)の隠居していた槻御殿とも謂われているなり。
母上は君田富(きみたとみ)といって江戸麹町の町人の娘であったが、江戸の井伊家中屋敷で奉公していた時に父上のお手がついたらしいなり。
カモンが5つの時に母上は亡くなられてしまったので、おぼろげな記憶ではあるが美しい方だったなり。
母上は美しいだけではなく、聡明さも兼ね備えていたようで、家中では“彦根御前”と呼ばれていたそうなり。
そんな母上を父上は最も寵愛され、カモンの事も大いに可愛がってくれたなり。
父上の愛情はそれだけに終わらず、御正室の南部家の姫君との間に生まれた兄上(井伊直亮・いいなおあき・直中三男)に家督を譲られていたなりが、兄上にはお子がおられなかった事もあり、父上はカモンと母を同じくする直元兄上(いいなおもと・直中十一男)を次の世子(世継ぎ)とされたなり。」
「んーー、ちゅまりお兄しゃんの養子にお兄しゃんがなったんでしゅね?」
「そういう事なり」
「直亮お兄しゃんに子供が生まれる可能性はなかったんでしゅか?」
「勿論そんな可能性もなかった訳はないなり、でもなひこなん、江戸時代大名家は家を継ぐべき世子を幕府に届けておかなければならず、もし届け出ずに当主が亡くなってしまえば、その家はお取りつぶしになってしまうなり。
それ故いつまでも子が生まれるのを待っている訳にはいかなかったなり。
逆に早くに養子を迎えて、その後に実子が生まれてしまっては継がせる事が出来なくなってしまうなり。」
「ふーーん、融通が利かないんでしゅね」
「ふふふ、今ではカモンもそう思うなり。
ひこなんはカモンが十四男だったのは知っているなりか?」
「聴いた事ありましゅ」
「流石なりな、ちなみに直元兄上は十一男で、三男の直亮兄上との間には何人もの兄上がいらっしゃったなり。
そのほとんどは養子に出されていたなりが、十一男の直元兄上が次の世子に選ばれたのは、母上が受けていたご寵愛が無関係ではないなり。
直亮兄上はお子の誕生に望みを託しつつ、父上からの執拗な養子縁組を撥ね退けておられたはずなりが、年を重ねては流石にそれも聞き入れられず、遂に実子継承を諦められたなり。
直亮兄上が拒まれている間、父上は他の子らの養子縁組を勧められ、兄上が折れた時には縁組に叶う年相応の者は直元兄上のみだったなり。
お子がいなかったとはいえ直亮兄上にしてみれば、御正室のご自分の母上よりも寵愛した町人の娘の子を、自分の養子に据えた父上の処遇を素直に受け入れられた訳はないなり…
直亮兄上は我が母上と直元兄上にカモン、そしてカモンの弟の直恭(いいなおやす・直中十五男・直弼同母弟)、そして父上の事すらも快く思うておられなんだなり…
とはいえその頃のカモンや弟の直恭は、そんなお家の事情も知らずに、隠居所である槻御殿で父上が好む芸事の真似をしながら伸び伸びと暮らしていたなり。
そんな父上の愛情は母上が亡くなられてからも変わる事はなく、カモン達は父上と共に育ったなり。
幼い頃から藩主として教育され、傅役(もりやく)に厳しく育てられた直亮兄上とは雲泥の差であったなりな…
カモンが十七になった時に、その父上も亡くなられてしまったなり、。
父上が亡くなった上は、下屋敷・槻御殿に居座っていられる訳もなく、カモンと直恭は控え屋敷のひとつである尾末町の御屋敷…つまりこの屋敷に移り住み事となって、それより兄弟二人の“部屋住み”の生活が始まったなり。」
「そりまでカモンちゃんは野宿だったんでしゅか??」
「ははは、お部屋に住めるようになったという意味ではないなりよ(笑)
ひこなん、江戸時代の武士というのは例え小なりといえども、家長として家を保たねば武士とは認められぬなり。
実家を継げぬでも、婿なり養子なりのクチがあれば認められるところではあったなりが、それすら叶わぬ者は生涯宗家の世話を受ける“厄介者”として、妻も迎えられず、子も設けられずに、ひっそりと息を潜めるように過ごさねばならなかったなり。
“部屋住み”というのは家を継げぬ庶子(嫡男以外や側室の子など)を指す言葉なり(※注5)」
「・・・じゅいぶん窮屈な想いをしてたんでしゅね、カモンちゃんは。」
「カモンが言うのも奇妙な感じがするが、江戸時代の武士は体面が全てともいえるなり。
“呪縛”といっても過言ではないなりな。
三百俵の捨扶持をあてがわれ、カモン達兄弟は養子縁組が回って来ないか、希望を持ってひたすら待っていたなり。
本来名門井伊家の子息であれば養子縁組に困る事はないなりが、父上の子は多い上、ましてや我らは庶子(側室の子)、そうそう引き受け手は見つからなんだ。
それでも三年後の二十歳の年、ようやくカモン達兄弟揃って養子縁組の話が舞い込み、我らは兄上に呼ばれて江戸に向かったなり!」
「そりで?」
「喜び勇んで江戸に向かったカモンだったが、結果として縁組が纏まったのは弟の直恭だけだったなり・・・
カモンだけは再び来た道を戻る破目になったなり。(※注6)
ひこなん、武士と言うのはさっきも話したように、立派な足跡を残してこそと躾を受けていた時代、武士が武士として居られぬ絶望は今の世の者には理解してもらうのは難しいなり。
“蟄居”を申しつけられた訳でもないのに、今では自ら部屋に閉じ籠る“ニート”や“引き籠り”などと呼ばれる身分の者がいるようなりが、真っ当な教育を受けた当時の武士にとって、この境遇は非常に耐えがたいものだったなり。
“男児に生まれながら何事も為せずに、ただ朽ち果てるのみ・・・”
武士を下りる事も出来ず、武士にも非ず。
カモンは生涯部屋住みとして生きる覚悟を決め、自らの境遇と重ねて、この屋敷を花の咲かぬ埋もれ木に喩えて“埋木舎”と名付けたなり!」
つ づ く
次回予告 )
前世の記憶を訥々と語り始めたカモンちゃん。
さらに続く記憶の邂逅の先で、カモンちゃんがお家元に願う事とは?
第二章 “井伊直弼・埋もれ木と柳”
― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
Nukopedia
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お花の百科事典
※注1)亭主の心得
大袈裟ではなく客を招く際には、こうした掃除は必ず行われます。
木々の葉に止まらず、露地の飛び石さえも水拭きして清めると謂います。
とはいえこういった丹念な下準備すら、茶事では表面的なものでしかないと思います。
客を迎える真髄はまた別のところにあるはずです。
※注2)樹露軒
本来樹露軒の“樹”の部首は“木偏”ではなく“さんずい”を当てるようですが、私のPCでは変換されなかったので、“樹”としています。
※注3)綺羅星のような名物群
この日、カモンちゃんが揃えた茶道具は
・竹一重切花入 “千とせの始(ちとせのはじめ)” 直弼自作
・月次茶器 “卯花(うのはな)”
・大西淨玄作 “阿弥陀堂釜”
・竹茶杓 “ゆふ月” 直弼自作
・赤樂茶碗 直弼自作
茶の湯に心得のあるものなら有り得ないと断じるほどの垂涎のもてなしです。
実は全部彦根城博物館に所蔵されています。
※注4)茶事における懐石膳
本来は主菓子の前に出されるもので、一汁三菜、酒、肴でもてなします。
※注5) 部屋住みの類義語
別の言い方では“御曹司”と云っていた頃もあります。
※注6) 江戸滞在
実際、この時の直弼公の江戸滞在期間は約1年に及びました。