ひこにゃん×ひこにゃん ブログ 彦根にひとつだけの花

ひこにゃん それは古城に住まう心清きみんなのねこ

いちファンの綴るレポート&おとぎばなしのブログです☆

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インターミッション 彦根の足

2013-05-30 19:11:40 | Dear HIKONYAN
彦根ご城下巡回バス ひこにゃんラッピング仕様車 想像図((笑)









     




あさって登場が期待される実際のデザインとは異なります。
ゆうべいただいたコメントから想像しました☆
コメント (1)

インターミッション フランスへの翼

2013-05-25 18:13:58 | Dear HIKONYAN
ひこにゃん ・ジャパンエキスポ2013出場 特別記念ラッピング仕様機

















……冗談です

でも本当にあったら、色んなアメニティ・ノベルティグッズが出来そうですね(笑)


コメント (10)

インターミッション XXXXV

2013-05-21 18:37:19 | 彦根ノムコウ
“【妄想】ひこにゃん”に捧げます☆








「ごめんくだしゃーーい」



シーーーン・・・・・・



お家元とミータン、カモンちゃんの三人は、人通りの多い表通りから離れたとある邸宅の裏門の前に立っていました。
門扉は開かれたままだったので、その奥には二重露地の外露地が見えており、正に“市中の山居”といった趣が、入口からでも伝わります。(※注1)



「頼もーーーっ!、誰かいないなりか?」


カモンちゃんはもう中に入りたくて仕方がない!といった様子でした。
無理もありません、ここはカモンちゃんにとっては伝説の茶人の邸宅だったのですから。







天文9年(1540年)
摂津国・河内国・和泉国
堺 舳松町 
武野紹鴎邸






巨人と才人 “磯うつ波の謳”

第三章 “田中与四郎・若き日の茶聖”




       











遡って2時間前・・・



2013年4月某日
滋賀県彦根市 彦根城 表御殿








「お家元、お疲れ様でした」

       

「ただいまでしゅ、ミータン」

       


毎日のお稽古を終え、スタッフのお兄さんお姉さん達を労った後、お家元は自室に戻ってきました。


「お家元、カモン様がお待ちですよ」


「約束の時間の前なのに、もう来てるにゃんて気合い入ってましゅね、カモンちゃんは」


お家元は苦笑しました。





「ひこなん、カモンはもう準備オッケーなり!
 いつでもいいなりよ!」


「焦りしゅぎでしゅ、カモンちゃん(笑)
 ちょっとひこにゃんに休憩しゅる時間を下しゃい。


 しょうしょう、なんでカモンちゃは利休しゃんとみつにゃんに会いたいんでしゅか?」


「うむ、カモンも是非聴いてもらいたかったところなり。
 ひこなんはカモンが一端(いっぱし)の茶人だったのは知っているなりか?」


「もちろんでしゅ。
 ただの趣味道楽なんかじゃなく、一派を立てた大茶人と聞いてましゅよ。

 この前、埋木舎で接待してくれた時の茶道具の大半も、カモンちゃんが自分で作ったものでしゅよね。
 普段は博物館に展示してある物ばっかりでしゅ。」


「ふふ、大茶人かどうかは別として、カモンが茶の湯に一家言を持っていたのは事実なり。

 茶事を嗜む我ら茶人にとって、“千利休”と云う名の前に謙虚にならない者は一人もいないなり。
 安土桃山時代に存命中だった頃より、既にその名は世の隅々まで届いていた巨人なり。

 死後もその名声は増すばかりで、平成の現在でもその美学は崩される事無く、広く浸透し世を支配し続けているなり。
 カモンにとっても利休殿は永遠のアイドルなりよ!」


「ふーーん、しょんなに凄い人なんでしゅか、利休しゃんは。
 しょりで、みつにゃんは何ででしゅか?」

       


「“石田三成殿”

 言わずと知れた彦根城以前の湖北の領主にして佐和山城主、豊臣秀吉公が輩出した家臣の中で、最も誉れ高き傑物!
 尋常ならざる功績にて、定めた法令と掟は数知れず。
 才気煥発、その思慮は日ノ本全てに行き渡れども緻密を究め、これまた今の世の仕組みにまで影響を及ぼした為政者の鏡なり。

 関ヶ原以前、佐和山城より湖北を差し配していた三成殿は、その理路整然とした政(まつりごと)の確かさ故に、領民から大変慕われていたそうなり。

 三成殿が公に佐和山城主に任じられたのは1590~95年頃と謂われているなりが、それ以前から豊家代官として湖北の面倒を見ていたようで、それを含んでも治世は長くて十数年といったところなり。
 江戸時代を通じて佐和山=彦根を治めた井伊家に比べたら、僅かな期間としか云えないはずなりが、湖北の民からの慕われ方は異常だったそうなり!
 そのせいで関ヶ原以後、佐和山に封じられた井伊家は相当苦労したなり。(※注2)

 三成殿の旧法は良く出来たものではあったが、先の領主(前領主)をいつまでも偲ぶ傾向は、井伊家にとって決して善いとは言えないなり。(苦笑)
 ましてや将軍家にしてみれば、三成殿は天下を簒奪しようとした奸臣と踏まえていたのだから、表立って擁護など出来ようはずもなく、素直に継承出来るものでもないなり。
 だがそれも遥か昔のこと、今の平成の世では栓無きなり。
 望外なれど彦根の藩主に就いたカモンとしては、ただただ偉大なる為政者の先人として尊敬するものなり。

 最もこれも父上(井伊直中公)の受け売りなりな。」(※注3)


「そりだけでしゅか?」


「ん?それだけとはどういう意味なりか、ひこなん」


「確かに最もな理由でしゅし、同じ時代に生きてて秀吉しゃんに縁深き二人でしゅけど、同列に並べるのは不自然な感じがしましゅ。
 何か他に理由があるんじゃないでしゅか?」


カモンちゃんはお家元を見縊っていた訳ではなかったのですが、お家元の分析力に冷や汗をか掻きました。
自分が話さずにいた目的に、まさか気付かれるとは考えていなかったからです。


「驚いたなりな・・・
 まさか気付かれるとは思ってなかったなり、カモンに不自然なところは無かったはずなりが…(苦笑)

 ひこなん、カモンが二人を尊敬しているのは嘘じゃないなり。
 けれど当のお二方には只ならぬ因縁…と云うか疑問があるなりよ!」


「なんでしゅか、そりは?」


「利休殿の切腹に関してなり」


「しぇっ腹!?」


「そうなり!
 世上、利休殿は秀吉公の怒りに触れ、切腹を申し付けられたと謂われており、その陰で暗躍して仕向けたのが三成殿とされているなり!

 けれどカモンが持っている三成殿の清廉なイメージと、それがどうしても結びつかないなり!
 カモンはその真相がどうしても知りたいなり、それが隠れなきカモンの目的なりよ、ひこなん!」


「にゃるほど、合点がいったでしゅ。

 とはいえお二人は当時の政界では疑いようのない要人でしゅ、市井の噂を聴くだけでは明確な回答は得られそうもないでしゅね。
 現代のメディアが発達した世界の政治でだって、色々憶測が飛んで真相は解りずらいんでしゅから…

 とにゃると、やっぱり本人達に会うしかにゃいかも…」


お家元は三成公と会う訳にはいかないので、制限の厳しい旅になるだろうと覚悟しました(※注4)
そしてそばでずっと話を聴いていたミータンにお家元は尋ねます。


「ミータンも一緒に行きましゅか?」


「えっ、いいんですか?」


「しょうはいっても戦国時代、生命の保証は出来ましぇんけどね(苦笑)」


「は、はい、お願いします!」


勿論、お家元は言葉通り危険に晒すつもりはありません。
いざとなったら我が身に代えてもミータンを護る覚悟で誘いました。








「しゃて、そりじゃあそろそろ向かいましゅか」


「頼むなり、ひこなん!」


お家元がミータンを抱えカモンちゃんの手を取ると瞬間!三人の姿は消えました。
お家元達がまず最初に目指したのは、戦国時代に目覚ましい発展を遂げていた交易都市・堺!(※注5)

千利休と接触するためです。

 
 












天文9年(1540年)
摂津国・河内国・和泉国 堺







 

「ここが堺!
 噂以上の賑わいぶりなりな…」


お家元とミータン、カモンちゃんの三人は16世紀の堺の町に降り立ちました。
堺の町は整備された道筋に、多くの大店(おおだな)・見世棚(みせだな)に、納屋(倉庫)が立ち並ぶ人通りの激しい町でした。
かなりの数の富裕層も抱えており、活気と賑わいの絶えない大都市です。
また異国情緒に溢れていると同時に、その雰囲気に慣れていた往来の人々は、お家元とカモンちゃん達を気にも留めずにいてくれるのは有り難いことでした。


「あっ、この店の屋号…“天王寺屋”!
 まさか“天下三宗匠”の一人である“津田宗及殿”のお店なりか?
 いや1540年当時なら、まだ父親の宗達殿もご健在かもしれないなり!

 あっ、あっちの“薩摩屋”はもしかして“山上宗二殿”のお店では・・・・・

 うわあーーー、“住吉屋”ではないなりかーーー!」


道を歩けばカモンちゃんには、かつて知ったる著名な茶人の屋号のお店が軒を連ねており、興奮がおさまりません!
その姿にお家元とミータンはちょっと引いていました(笑)

       


「カモンちゃん、寄り道はしょれくらいにして、利休しゃんのお家に行きましぇんか」


「あ、あぁそうなりな…

 ううぅぅ、でもカモンはまだ利休居士に会う心の準備が出来てないなり!
 もう一軒寄り道してからではダメなりか、ひこなん?」


「しょうがないでしゅね…
 で、どこに行きたいんでしゅか?」


「利休殿の師であり、“侘び茶”の創始者である“武野紹鴎(たけのじょうおう)殿”のお屋敷に!(※注6)

 紹鴎殿は武具調整や皮革業を生業にしていて、莫大な財を築かれた名うての大商人でもあったなり。
 どこかのお店で尋ねれば、すぐに分かるはずなり!」



カモンちゃんが見込んだ通り、武野紹鴎邸は最初に尋ねた人が教えてくれました。
こうして三人は武野紹鴎の邸宅の裏門に立ったのです。




「ごめんくだしゃーーい」



シーーーン・・・・・・



「頼もーーーっ!、誰かいないなりか?」




カモンちゃんはもう中に入りたくて仕方がない!といった様子でした。
奥に見えつつある“市中の山居”に引き寄せられるように、カモンちゃんはそ~~っと邸内に足を踏み入れてしまいました。


「ちょっ…、カモンちゃん!
 断りも無く入っちゃダメでしゅよ!」


「ちょっとだけなり、ちょっとだけ!

 これが武野紹鴎殿の露地なりかぁ・・・」


カモンちゃんはうっとりしながら、露地の配置から紹鴎の作意や意図を読み取る愉しさにワクワクしていました。
すると掃き掃除の途中だったのか、落ち葉が一ヵ所に掃き集められつつあり、箒と塵取りも近くにありました。

伝説の茶人の邸内でこんな状況に遭遇しまったカモンちゃんは、思わず箒を取らずにはいられませんでした(笑)


「嗚呼…カモンは今、武野紹鴎殿の庭を掃除しているなり……幸せなり♪」


カモンちゃんはかつてない興奮を味わっていました。








「あぁ…終わってしまったなり…」


掃き掃除が終わったってしまったのが残念でなりません。


「そうだ!
 ひこなん、ミータン殿!」


連れの存在をようやく思い出して(笑)、カモンちゃんは振り返りました。

       


「きゃあああああああ!!!
 せせせせっかく掃除したのに、何をするなりかー!」


「……カモンちゃんの掃除はやり過ぎでしゅ、これくらい落ちてる方が自然でしゅよ!」


「何を言うなりか!
 これのどこが…………




 ……いや悪くないなり、確かにその通りなり!」



言われてみれば確かにそうだとカモンちゃんは感じました。
綺麗に掃き清めていた事は、ある種のわざとらしさが無くはありません。
逆に今ではそれが消え、自然な風情が漂っています。

そしてカモンちゃんの驚きはそれだけではありません。
実はこの状況と全く同じ逸話があったからです!
その逸話は正にこの場所で生まれたものでもありました。(※注7)


「ひこなん、お主知っていたなりか?」


「なにをでしゅか?」


お家元にトボけてる感じはありません。





「私も左様に思います…」


突然聞き覚えのない声が割って入ったので、三人は声の主の方を振り返りました。
そこに立っていたのは背の高い青年、いえ少年でした。
頭は青々と剃りあげたばかりといった感じで、身長は180はあろうかと思われます。


「紹鴎先生を訪ねて来られたお客様ですか?」


「ひこにゃんでしゅ、こっちはミータンでしゅ、この子は…」

       


「宗観なり、柳王舎宗観(やぎわのや そうかん)というなり!」


カモンちゃんは咄嗟に本名を名乗らず、昔使っていた雅号を持ち出しました。


「その幼さで号をお持ちなのですか?
 いや、お歳は関係ありませんね、これは失礼いたしました。」


少年は妙に落ち着き払っていながらも、謙虚な姿勢が伝わる好人物でした。
背の高さからは想像も出来ない腰の低さです。


「私は紹鴎先生の弟子の一人で、田中与四郎と云います。
 実は私も先頃、京・大徳寺で号を授かりまして、“宗易”とも申します。

 ひこにゃん殿、ミータン殿、宗観殿、以後お見知りおきを。」


「そ、宗易!!

 あなたが千宗易殿なりか!?」


「わが家のもう一つの姓である“千”をご存じなのですか?」


「も、勿論なり!」


カモンちゃんは来た時代を間違えてはいませんでしたが、ついつい長谷川等伯の描いた晩年の千利休像を思い浮かべてしまっていて、若い宗易、後の千利休に気付くのが遅れてしまいました。(※注8)








       つ づ く









次回予告 )


思いがけず三人が出会った少年・利休!

カモンちゃんは親睦を深め、三人は次第に時代の節目を経験します。





第四章 “千宗易・織田の台頭”












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お花の百科事典







※注1)市中の山居


これを最も上手く表現しているのがイエズス会のジョアン・ロドリゲスの“日本教会史”の一節です。
“茶の湯に精通した堺の人々は、幾本かの小さな樹木をわざわざ植え、それに囲まれた小さい茶室を作った。
 そこでは狭い地所の許す限り、田園にある一軒家の様式を現すか、人里離れて暮らす隠遁者の草庵を真似るかして、自然の事象やその第一義を観照(本質を見究めること)する事に専念した。
 この都市のこれらの狭い草庵では、互いに茶に招待し合う事で、この都市に欠けていた爽やかなる場所を補った。
 その補った部分がむしろ、その純粋な隠遁者の草庵様式に勝るとし、またそれらを愉しんでおり、そのことを彼らの言葉で“市中の山居”と呼んでいた。”






※注2)彦根井伊家の苦労


文禄5年(1596年)3月に三成が領内に発給した掟書きがあります。
これはこれまでの村落毎の徴兵の割合や、年貢徴収で米を量る時に使われる桝の不公平を正して統一したものです。
年貢の集積所から五里以内の者の運搬は自費だが、五里以上は負担するともしてます。
さらには収穫米からの税率と取り分を明確にして、生産者と徴収する代官の間で、不正な搾取と摩擦が起きぬような方法も示唆しています。
また掟に不満がある時は、代官を飛ばして自分に申し出よとも伝えており、中間管理職の代官が不正をしても、農民は泣き寝入りしなくて済む温情も三成は施しています。

これはほんの一例ですが、そこまで手厚く計らってくれる領主を領民が慕わない訳がありません。
この時、発給された掟書きの書面を村人たちは表装まで施し、江戸時代になっても大事な宝として保管したと謂います。

この後に湖北の支配を任された井伊家は新たな制度を打ち出しますが、村落の年寄衆(リーダー達)は三成の作った旧令と温情を引き合いに出しては、苦情と要望を繰り返したと謂います。

三成の死後、彦根藩は三成の痕跡と遺徳を一掃する為、佐和山の稜線を変えるほどに掘削し、徹底的な破却を断行したそうです。
そして以後120年に渡って「佐和山入山禁止令」を発布して、石田家に纏わる一切の噺や噂、物語を厳しく禁じて取り締まりました。
こうして彦根藩は徹底して三成の痕跡を消そうとしましたが、それ以後たとえ世代が変わろうとも、領民達から記憶と伝承を完全に消し去る事は出来ませんでした。
三成を慕う領民は命を賭けて密かに佐和山に登り、お地蔵さんを作って石田一族の霊を慰め語り継いだそうです。







※注3)井伊直中の影響


井伊直中の生没年は1766~1831年なので、誕生時でさえ石田三成の死から一世紀半以上が経過しています。
ですが直中は佐和山に石田三成を慰霊するため“石田群霊碑”を建てています。(現存)

死んで神様に祀られた家康と敵対した武将を慰霊するなど、幕府にお取りつぶしにされかねない行為です。
そのため幕府には領民を手懐けるためと内々に了解を取ったのは勿論でしょうし、そういった政治的な狙いもあったパフォーマンスとも考えられます。
が、私個人の見解としては、直中自身に三成を尊ぶ気持ちが働いたのではないかと思っています。
直中は政治家と謂うよりは芸術家の面が強い藩主ですし、井伊家が将軍家に仕えるように、豊家に仕えた忠臣・三成に共感した可能性は充分あり得ます。
そうであれば直弼少年は、父・直中から、三成の偉業を聴かされていても不思議はありません。







※注4)三成と会えない理由


これはもちろん以前の“タイムスリッパ”が要因です(笑)
お家元は少年時代の3つの佐吉と関ヶ原の合戦最中の三成に会っており、それ以外に会った形跡がないのは、みつにゃんが“武士たちの謳”で証言しています。







※注5)自由都市・堺

今回の舞台・堺は、現代の大阪府堺市にあった貿易都市です。
室町~戦国時代の堺は副題にもあったように、摂津国、河内国、和泉国の3ヶ国に跨っており、正に境(さかいめ)の町でした。
交易と商業と経済の中心地であったため、多くの豪商を抱え、先進的な技術の発信源としても栄えており、人口豊かで整然とした広大な街並みに、周囲に濠を廻らし独自の自衛戦力をも抱え、独立商業自由都市として戦国大名すら足下に従えるほどの侮れない発展を遂げていました。
後年、布教で渡来した宣教師、ガスパル・ヴィレラとルイス・フロイスは、その大いなる繁栄ぶりと水運の豊かさを“東洋のベニス”と喩えています。







※注6)武野紹鴎


千利休が最初の茶の湯の師である北向道陳(きたむきどうちん)に紹介されて、師事した侘び茶の創始者。
茶の湯と禅の精神性が同じである思想“茶禅一味”の境地を説いたとされる名立たる茶人。






※注7)ある逸話


北向道陳から勧められて、千利休が19歳で武野紹鴎の門を叩いた時のエピソードで有名なものがあります。
露地の掃除を命じられた与四郎(利休)が塵一つなく掃き清めたたところ、その状態に釈然とせずに傍らの樹を揺すってはらはらと木の葉を落とし、それを以ってようやく与四郎は納得し、眺めていた紹鴎も風情があると感じ入って入門を許したと謂います。




※注8)長谷川等伯


千利休の肖像画といえば等伯が書いたオリジナル(もしくは模写したもの)が最も広く知られています。
等伯は利休と実際に会っており、幾度もオファーを受けていて仕事を貰っていました。
当時の主流派だった狩野派の華々しい絵師達と一線を画していた等伯は、唐・高麗物の高額な名物からの脱却を目指す侘びの求道者・利休の目に止まる事となり、次第に名を馳せていきます。






利休はこれから晩年になるにつれ、人が見向きもしなかった粗末なものに目を輝かせ、拾い上げては手を加え、更に至上にまで押し上げる名人となります。
勿論それは気分でやっていた訳ではなく、深い見識と重厚な“目利き”の経験・センスに裏付けされたものでした。
その美意識は広く世間の認めるところとなり、人はこぞって利休の理(ことわり)を真似ようと努めたのです。





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ひこにゃん 戦の調停

2013-05-14 21:17:30 | 彦根にひとつだけの花
三方原(以後、三方ヶ原と表記)に風が吹き抜け、嵐の前の様相を帯びつつあります。




「家康くん、久しいのう」


「はい、のぶさま!
 元亀の頃が思い出されまする」


これから始まる“城おとし合戦”は“三方ヶ原の戦い”とも銘打たれているプログラム。
ここ浜松城はその三方ヶ原の南端に築城された城ですし、戦国史上十指に入る名立たる戦(いくさ)!
二人が感慨深く見えるのは気のせいではありません。




当時、信玄の宣伝上手も手伝って日ノ本最強のキャッチフレーズを持っていた武田軍。
味方(浅井・朝倉・本願寺)には頼もしい限り、敵(織田・徳川)からは地獄の使者としか思えなかったでしょう。
特に直接対決を迫られる徳川勢にしてみたら、他人事ではありません。
この武田と率先して戦いたがったのは、上杉謙信くらいのものです(笑)


とはいえ、その点では信長も引けを取らないと思います。
信長は普段、信玄に対しては手を抜かない貢物攻撃で、ご機嫌を取っていましたが、それも自分がしている軍の編成が整うまでと展望を持っていたようですし、この時も援軍三千を派遣はしたものの、自身は本拠地・岐阜から動かず、庇護している宣教師の求めに応じて、セミナリオ(南蛮寺)を建て与えるなどして緊張していませんでした。
信玄の狙いがどうであれ、家康の浜松城の攻略に手間取って越年すれば、織田軍のように兵農分離が出来ていない武田が、尾張や岐阜まで長途遠征出来ないのを読んでいない訳がありません。

信長は武田がどんなに粉飾しても実態を見抜いていましたし、内情を把握する諜報の面でも抜きん出ていました。
この直後に亡くなる信玄が遺言で「三年間、我が死を秘匿にする事」と残しますが、信長は信玄の死から10日後にその死を突き止めます。

信長は後年の“長篠の戦い”で執った戦法で、信玄を負かしたいと考えていた節がありますから、この時の信玄の死は逆に望んでいなかったかもしれません。

戦国期最上の戦争芸術家・上杉謙信ですら、決定的な勝利を得られなかった信玄。
その信玄に勝ったというバリュー(価値)は計り知れません。


しまった!
少し織田贔屓が過ぎたし、横道に逸れ過ぎました!

何を訴えたいのかと言うと、当時の織田・徳川・武田が鎬を削っていた頃になかった一大要素が、今ここにはあると言いたかったんです!







「お願いしましゅ!」







2013年4月27日
静岡県浜松市 浜松城公園
第4回家康楽市 in 浜松出世城 春の陣
~ひこにゃん出陣!&閉会式~






「あい、いってきましゅ」






「なんだかすみましぇんね、ひこにゃんだけ」






もちさんが戦場(いくさば)に入りました。




それが合図だったように狼煙が上がります!








なんか雰囲気出てきましたね。





かつての“三方ヶ原の戦い”を思い起こさせるナレーションが会場を盛り上げます!



たなびく煙に視界が奪われます。




そんな中、突然遭遇する両将!
まるで第四次・川中島合戦(八幡原の戦い)のようです!




「えい!なのじゃ」

ゴツン!




「負けないマルー!」

ガツン!




家・菱「あいたたたたた




衝突した両者を止めることなど誰にもかなわないのかもしれません。




デンデンデン♪テケテッケ、テッテッテテーテケテッ♪チャッチャチャラチャララ~♪

否、います!
この上なき見事な仲裁を努められる大器を備えたぬこが!


(家康くん、後ろから見るとまんまウナギの髷なのねwww)




「しゅトーーーーーーーップ!」




もちさんの登場で手前の子供達も座ってはいられません(笑)







小さいお友達はお義理で喜んだりしませんから、もの凄くわかりやすいもちさんの人気を象徴するリアクションですね!





「あいあい」




「待って下しゃい、ふたりとも!」




「この勝負!」




「ひこにゃんが預かりましゅ!」




「家康しゃん、ここはどーかひこにゃんに免じて!」


「うむ!頼むのじゃ、ひこにゃん」




「ひし丸くんもいいでしゅか?」




「お願いするマル~、ひこにゃん」




「ふー、やりやり
 猛将のおふたりが聞く耳を持ってくれて、たしゅかりました」



「おふたりとも、もうおひと方、仲裁に骨を折ってくれましゅよ!」




そして魔王・のぶさまも、もちさん同様応援の一翼を担ってくれました☆




その後の城おとし合戦は、またしても戦上手のひし丸くんの勝利となりました。
どうしても勝てない家康くん。

でも翌日も雌雄を決した城おとし合戦では、とうとう一矢を報いて宿願の初勝利を遂げたそうです!








初日最後の登場の閉会式、見納めです。




「のぶしゃま、お疲れでしゅ」


「うむ、是非もなしじゃ!」




一日4回、もちさんを観れたのはとても贅沢な感じがしました。
いつものお城とは違う場所での振る舞いは、気苦労も多かったと思います。

でもね、当日はそんなもちさんの苦労を思い浮かべる事なく楽しませていただきましたよ♪
観ている者にそんな想いを感じさせないのが、他のキャラには真似出来ない、もちさんが極めた境地だと思います☆







          






おことわり )


 ひこにゃんは言葉をしゃべりません。
 このブログの中でひこにゃんに付けている激しいセリフの数々は
 管理人の空耳です。
 また、家康くん・のぶさま・ひし丸くんの言葉は、ご本人がブログで遣われている
 言葉遣いに近付けたつもりですが、実際のものではありません。


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ひこにゃん 袖でも舞台でも(笑)

2013-05-09 22:11:01 | 彦根にひとつだけの花
次のもちさんの登場まで、浜松城に響く音の調べに暫し耳を傾けます。
浜松市消防音楽隊と箏(琴)のアンサンブルです♪





その後に登場したのはホスト役の家康くん!
意気軒昂でステージにすっくと立ちますが・・・








2013年4月27日
静岡県浜松市 浜松城公園
第4回家康楽市 in 浜松出世城 春の陣
~自慢するほどお気に入り!(笑)~





そんな家康くんに対して、会場を練り歩いて人気を博しているひし丸くんのブレイクっぷりを伝え、家康くんの競争意識を煽って士気を高めようとするMCのお二人。
ゆるキャラグランプリ第7位という神々しい番付を誇る家康くんですが、意外にコンプレックスがお強いようで、その言葉に色を失います!(笑)




すっかり逆効果になって落ち込ませてしまった家康くんを、今度は一所懸命フォローします!

「家康くんはムーンウォークが出来るんだよね、ね!」




ついぃ~~~




流石に最後に天下を取った出世大名!
立ち直りの早さは立派な長所です(笑)

そしてその後ろで出番に備えるもちさん☆





「お世話係しゃん、お世話係しゃん!」




「どしたの?ひこにゃん」




「こりみて、こり♪」

♪~♪~♪~

もちさんのアイテムから出る粘っこいサウンドに、思わずつられて踊るお世話係さん(笑)




「ひこにゃん、こり持って出ましゅから!」




“ひこにゃん音頭”が流れて戦士の貌(かお)になるもちさん!




「だいじょうぶ?ひこにゃん」

「あい、平気でしゅ!」

開会式での登壇でもうコツを掴んでいるところは、流石もちさんです☆
もうお世話係さんのもしもの介助も一人になってます◎




ここからもちさん、しばらく片足ばっかりのショットです(笑)







ドスン!

あ、擬音間違えちゃった(焦っ!)










「しょれしょれ♪」




「ひ、ひこにゃん、それは一体なんなのじゃ?」




「うふふ、こりでしゅか?
 よくじょ訊いてくれました!」




「マイク、かもん!」

うにょうにょうにょうにょ♪




「う~む、ひこにゃんは面白き物を持っておるの~(感心)」




「お褒めにあずかり光栄でしゅ!(嬉)」




軽いドヤ顔もあなたっぽいです(笑)
よっぽど気に入られたんでしょうね☆





次は初見の“城おとし合戦”です♪








        





おことわり )


 このブログの中でひこにゃんと家康くんとお世話係さんに付けている
 激しいセリフの数々は管理人の空耳です。



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最新号入手!

2013-05-06 20:49:21 | Dear HIKONYAN
長かったお休みもとうとう終わってしまいますね。
G.W.最後の更新です☆























       








中の記事はこんな感じ。




       

















他にもこんなの見かけました。




       







   ※今回の記事も全部フィクションで願望です。
    またしても激しい妄想に拍車が掛かってしまいました、すみません。
    

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“きんまい”追加情報

2013-05-05 14:02:12 | Dear HIKONYAN
全国書店で好評発売中!











       







って本当は売ってませんからね!



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ひこにゃん 三方原に吹く風

2013-05-04 15:14:33 | 彦根にひとつだけの花

2013年のゴールデンウィークの幕開けとなるこの日、もちさんは彦根城以外にもお顔を出さなければいけません。





半年ぶりの浜松です!





前日までの湿り気な天候から晴天となったこの日、空は抜けるような青さで覆われました。




半年前の第三回家康楽市では、観る事が叶わなかった“城おとし合戦”!
静岡西部の小学校では運動会恒例のプログラムとの事。
いよいよ観る事が出来そうです!



半年前と違うメインステージ場所。
公式ホームページのエリアマップで事前に知り得ていましたが、なるほど!







2013年4月27日
静岡県浜松市 浜松城公園
第4回家康楽市 in 浜松出世城 春の陣
~第2次浜松城攻め!(笑)~





開会式開始は午前9時、その刻限の数分前からステージには、城おとし合戦の両主役・家康くんとひし丸くんが場を温めます。






出世城城主でホストの家康くんの手には“鯉のぼり”、ひし丸くんの手には郷土の英雄・信玄公よろしく、信玄公宝物館にある“軍配団扇”の写し!




ふたり仲良く“カウントダウン”(笑)




実行委員長さんのカウントに合わせて、からだをクネクネさせてリズムを取るふたりがプリティー☆





そして開会宣言!
こういう瞬間というのは、どんな催しでもワクワクします♪





楽市の主役は今ステージに立っている方々なのに、この方たちは我らのアイドルのために、ちゃんとした見せ場と仰々しい登場場面を演出してくれます。




会場に轟く法螺貝の音と、顔がにやける“ひこにゃん音頭”(笑)








ステージに向かって右手の方で観ていた方々のリアクションは、私がもちさんを視認するよりも早かったです!(笑)
私よりも早いタイミングでもちさんの登場に気付かれている証拠ですね☆






ステージに上がってもいないのに、もうこの時点で注目度は神レベル!




手すりのない昇降階段の両脇で、もしもに備える両家老のお世話係さんたち!


「忝いでしゅ」




「よいちょ、よいちょ」




家康くんとひし丸くんの迎えるテンションが嬉しい(笑)




「ひこにゃん!」




「家康しゃん!」




ぷぷっ
ふたりのハグが私の位置からはあられもないものに見えます(笑)




見ているひし丸くんも思わずキャッ!(と見えますw)




「はろー、はままちゅ!」




遠くの方への腕ふりのため、少しでも高い位置でと頑張るもちさん!
健気過ぎ!




こくん、こくん




「親愛なるしゅべての方に」

ぺこり!




ファンの一人として真に鼻が高うございます!





ステージには井伊直政公も参陣です。






大天衝脇立くらべ(笑)




そして開会式のオーラス、ちびっ子限定のお餅投げです。

「いきましゅ!」




もちさんは華麗なアンダースローです(笑)




「しょれっ!」




ダブルスローで

「よいちょー!」




「殿、まだ撒かれますか?」




「もちろんでしゅ、バッチ来いでしゅ!」




「しょーーーれっ!」



お餅投げを終えて、彦根城の出番のため一旦戻ったもちさん。
その後も家康くんとひし丸くんは、なおも残って観客と触れ合います、スゴイッ(驚!)

アリーナに降りて、ステージの家康くんを観るひし丸くん(笑)




この日は事前に告知されていないキャラさんも結構いらっしゃってて、そのうちのひとりで浜松エコマイスター委員会のキャラ“えこまいくまー”!

           


「袋一枚からのエコロジー」を掲げるだけに、ポリ袋のワンピが特徴です(笑)
えこまいくまーは一児の母で、主婦なんだそうです!








        





おことわり )


 このブログの中でひこにゃんに付けている激しいセリフの数々は
 管理人の空耳です。


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インターミッションXXXXIV

2013-05-02 21:43:21 | 彦根ノムコウ
“【妄想】ひこにゃん”に捧げます☆





巨人と才人 “磯うつ波の謳”

第二章 “井伊直弼・埋もれ木と柳”



       



2013年4月某日
彦根市 尾末町 埋木舎






「一杯いかがなりか?」


「いただきましゅ!」

       


カモンちゃんの昔話に聞き入りながら、お家元は出された膳を食し、お酒の代わりにミルクをいただきます。


「ひこなんは“ちゃかぽん”という言葉を知っているなりか?」


「あい、知ってましゅ!
 キャッスルロードにあるうどん屋しゃんの事でしゅよね、いつか全メニュー制覇したいなって思ってましゅ」

       


「確かにあるなりな(苦笑)

 実はその屋号がカモンのあだ名から付けられているのは知っているなりか?」


「カモンちゃんは昔うどん屋しゃんだったんでしゅか???」

       


「ふふふ、“ちゃかぽん”というのはお茶と歌(謡)と鼓を模した呼び名なりよ。
 当時、埋木舎に住んでいた頃のカモンのあだ名なり」


「しょういう意味だったんでしゅか!」


「当時カモンは、生涯部屋住みとしての運命(さだめ)を享受し、前向きに生きていこうとしたなり。
 
 そこで頭に浮かんだのは、父上(井伊直中)のお姿だったなり。

 生前の父上は実に多芸を極めた方で、茶道・香道・能・蹴鞠などを嗜まれていたなり。
 さらに長浜から曳山歌舞伎を呼び寄せるなどの鑑賞眼もお持ちで、カモンもご一緒したのを覚えているなり。(※注1)

 そんな父上の生前のお姿に憧れ、カモンも芸事を習い、出来るならばその道を極めようと思い立ったなり。(※注2)」 


「いい心掛けでしゅね」


「うむ、それからカモンは一日の睡眠時間を4時間ほどとし、それ以外の時間は、茶の湯(※注3)、和歌、鼓、華道、禅(※注4)、陶芸、能、狂言、剣術、槍術、柔術、居合術、砲術、兵学、国学、儒学、西洋事情、開国論など、ざっと上げればそのようなものを習得するのに夢中になったなり。」


「え~~っと・・・とても覚えられましぇん」


「構わないなりよ(笑)

 実はなひこなん、その頃の埋木舎があった尾末町は100~300石の藩士が住む一角になっていて、この前の道は毎朝登城する藩士の通り道だったなり。
 そんな藩士達は我が屋敷を横目に見ては、ここが部屋住みの“ちゃかぽん”が住む屋敷だと、声も憚らずに通って行ったものなり。」


「仕えるお殿様の弟に対してでしゅか?」


「それが部屋住みに対する世間の常識的な反応なりよ。

 まぁ、当のカモンは毎日習い事に忙しかったお陰で、余計な言葉に耳を傾ける余裕はなかったなり。

 もっとも習い事に出た先で、あからさまにカモンに無礼な言葉を投げかける者もいない訳ではなかったなりが・・・
 それでもな、ここに戻って庭の柳の木を眺めると不思議と心は静まったものなり。

 カモンとって柳の木は、大いなる慰めだったなり。(※注5)
 
 


 そんな修養三昧と世捨て人のような暮らしの中でも、心に火を灯す出会いはあったなりよ!(※注6)」


「そりは重畳でしゅね」


「そんなカモンの人生が180度変わったのは32の時だったなり。

 直亮兄上の跡継ぎとされていた直元兄上が亡くなられてしまい、たった一人残っていたカモンが急遽次期藩主として白羽の矢が立ったなり!
 その後は直ぐに大名見習いとして江戸に向かい、生涯登る事など無いと思っていた江戸城に出仕し、公方様(江戸幕府将軍)のお目見えを得て、直亮兄上に厳しい教えを受けたなり。
 大名同士の付き合い方に駆け引き、礼と作法と独特の仕来り、藩主としての心構え、覚える事は山ほどあったなり。
 そんな中でも直亮兄上が最も大事とカモンに諭されたのが、井伊家の当主が果たさねばならぬ重要なお役目についてだったなり。」


「“大老”というやつでしゅね」


「その通りなり!
 歴代の井伊家の藩主達は、それまで何度も幕府最高執行者足る“大老職”を勤めた名門中の名門であれば、いずれカモンもそのお役目を賜る日が来るかもしれないと戒められていたなり。


 カモンは自分の運命が不思議でならなかったなり。
 それまで生涯を埋木舎で朽ち果てていくものと諦めて、お堀のこちら側から毎日眺めているしか出来なかった彦根城・・・
それは実際の距離よりも遥かに遠く、決して手など届かぬ隔たりをもったものだったなり。
それが突然、全ての家臣を従える身となり、江戸にては譜代大名として国政に携わる命を帯び、果ては公方様に準ずる位にまで登り、幕府の頂きに立たねばならぬとは・・・・・

 なんという使命、なんという重責、武士として生まれてこの上ない最上の栄誉!
 カモンは震えて涙したなり、その喜びに!その生きる目的を得られた幸福に!

 























「・・・その後のカモンの足跡は言うまでもないなりな。
 徳川家(とくせんけ)を御守りしたいという一心で、カモンは強硬な姿勢を崩さず、御三家、御三卿、西南諸藩に屈する事なく、一命を賭して励んだなり。

 たとえこの身が砕かれようと、たとえ我が魂魄が滅せようとも、ただただ徳川家の御為だけに、尽くし参らせ奉る!

 我が身がどんな最期を迎えようとも悔いはなかったなり。


 琵琶湖に打ちつける波が何度も何度も打ち砕けては引く事を繰り返すように、この世の為に心砕いて勤めた日々は、決して・・・」(※注7)





 



 








繰り返し続くカモンちゃんの無言の想いを、お家元は邪魔せず沈黙をもって応えました。
お家元はカモンちゃんが幕末に果たした業績の数々を少なからず認知しています。

それをどうこう意見する気は勿論ありません。

カモンちゃんは自分にとって朋友とも呼べる者であり、同郷の偉大なる先人の一人です。
その立場を自然と擁護したくなるのは当然です。



お家元がこの時点で考えていたのは、この後カモンちゃんがどちらに話の方向を向けるのかという点でした。

“どちら”!

そうです、お家元はこの話の顛末が二択のどちらになるのかまで読めました。
そしてその二択がどちらの目的になっても、方法はひとつだけだという事まで。













「ひこなん、カモンには聞いて貰いたい願いがあるなり」


「(しょらきた!)」とお家元は思いました。


「カモンは会ってみたい方々がいるなり、それも二人!」


「だりとだりでしゅか?」


「茶聖・千利休殿、豊臣家奉行・石田三成殿!」


「二人とも安土桃山時代の方でしゅね」


「そうじゃ、これまでなら望むべくもなかったなりが、ひこなんがいるなり!
 “タイム・スリッパ”が出来るようになったひこなんが!」

カチャンカチャン!


「頼む、ひこなん!
 カモンを16世紀の世に連れて行って欲しいなり!」


カモンちゃんは並べていた貴重な茶器をどけもせずに、ただその想いを願い、頭を下げました。










「(やっぱり・・・)」とお家元は思い、沈黙せずにはいられませんでした。


去年、龍たんの逆鱗に触れた時にカモンちゃんが持ち出していた“茶湯一會集”の訳もこれで解りました。
あの時からカモンちゃんは願っていたんだなぁと。

そしてこの一年以上の間、カモンちゃんはその機会を窺っていたのでしょう。
今日の茶事がお家元の労いから、カモンちゃんの話しに実に自然に移行していったのは偶然ではありません。
しかもこんな身の上話を聴かされた後では、断る事も難しいです。


「(やらりた!)」と、お家元は思いました。


お家元は散らばってしまった茶器を見渡し、これを博物館から借り受ける苦労を想像しました。
しかもあろう事か、苦労して借りたはずの茶器を気にせぬカモンちゃんの情熱。

もしカモンちゃんが茶器を冷静に隅に片付けて頭を下げていたら、お家元はその願いを聞く気になれなかったはずです。

お家元はカモンちゃんが“タイム・スリッパ”を願う事を、次郎法師しゃんの話を打ち明けた時に気付いていました。
あの時のカモンちゃんが目をキラキラさせて聴き入っていたのを、昨日の事のように覚えています。

その時カモンちゃんが願うのは、自分の過去の修正か?はたまた全く関係のない別の時代なのか?
これまた幕末の自分の過去に手を加えるつもりだったなら、聞ける願いではありません。
二択の選択が後者だったのは幸いでした。







「・・・無理でしゅね」

       


カモンちゃんが泣きそうな顔を上げました。


「今日は疲れたんで、もう行く元気がありましぇん。
 後日、行く日を決めて向かうでいいでしゅか?」


「あ、ありがとうなり!ひこなん!」


「ただし、向かった先では、ひこにゃんの言いつけは絶対守って下しゃい。
 タイムスリッパするタイミングも任せてもらいましゅから!」


「約束するなり♪」


ここでどんな無理難題を出しても、行けるとなればカモンちゃんは聞くんだろうな、とお家元は苦笑しました。




「そりじゃあ、後日また」

       


「恩に着るなり、ひこなん」


埋木舎の門前まで見送りに出てくれたカモンちゃんと別れ、お家元はお城に戻りました。


「しょれっ!」




華麗な台車使いでコーナーを曲がっていくお家元を、カモンちゃんは見えなくなるまで見送っていました。





       つ づ く









次回予告 )


カモンちゃんが会いたがっていた“巨人・千利休と才人・石田三成”。

二人に会いたがったカモンちゃんの胸の内とは?





第三章 “田中与四郎・若き日の茶聖”







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※注1)井伊直中公(いいなおなか)

カモンちゃんの回想では、既に隠居していた井伊直中公の姿なので、芸事中心に終始していますが、その足跡を藩主時代まで遡ってみますと、歴代藩主の中でも中々の名君です。
 
父(直幸公・いいなおひで)の死を受けて直中公は藩主を継ぎました。
直中公が藩主になった寛政年間は、江戸時代三大改革の一つといわれる「寛政の改革」の頃で、徹底した倹約政策が勧めれており、直中公も父・直幸公の政策を引き継ぎました。
父・直幸公の遺金という名目で領民に援助金を与え、城下町の防火対策を見直し、新田開発を進めるなどしています。
また藩士の教育も重視しており、藩校・稽古館(後の弘道館)を設立して、剣術、槍術、弓術、馬術、砲術、算術、天文学など幅広い教育に力を注ぎました。
直中公自身も砲術に関しては、米村流の奥義を極めて「一貫流」という流派を興すほどの文武両道の藩主でした。
直弼も直中公存命中の15の歳から、通いで学んでいたと謂います。
弘道館の一部は、現在の金亀会館に残っています。

本文にあった長浜・曳山歌舞伎は直弼が11歳くらいの頃の出来事だと思います。






※注2)直弼の決意

ここではカモンちゃんは前向きな言葉で結んでいますけど、実際の直弼公はこうした指針を自ら立てなければ、奮い立つ事が出来ず、その絶望は深かったようです。
その一端は(※注4)の解説で後述します。






※注3)茶の湯においての直弼

・茶の湯は石州流の片桐宗猿に学び、数々の茶の湯の手引書「栂野みちふみ」「閑夜茶話」「入門記」「茶湯一会集」「炭の書」「灰の書」 を著述し、弟子は18人を数えるそうです。






※注4)禅の修養

・直弼が禅の修養を始めたのは13歳からと謂われており、参禅していたのは佐和山の麓にある井伊家の菩提寺のひとつ“清凉寺”。
清凉寺21世・道鳴、22世・師虔、23世・仙英の三代の住職に学び、道場には直弼が修養に使っていた椅子が遺されています。
また埋木舎には座禅の間も設けるほどで、22世・師虔には格別な尊敬を持ち、師虔示寂の際には相当落胆したらしく、闇夜に火を失う、盲人の杖が無き心地と歌うほどでした。
興味深いのは、この歌の中で直弼が現している自らの境遇です。
尊敬する住職を闇夜の火や盲人の杖と頼りにしたのは解りますが、火と杖がなくても直弼の普段の心地が闇夜であり、盲目に等しいと表現している点です。
この寺で後に直弼は悟りを開いたと、住職からお墨付きを戴きます。




※注5)直弼と柳

直弼はとても柳を愛していたそうです。
今では桜の名所としての方が有名な彦根城ですが、お堀に植えられた桜の歴史は意外に浅く、大正時代から植樹が始まって、昭和になってから彦根市民の吉田繁治朗氏や市によって大規模な植樹が行われました。
それ以前には柳を愛した直弼がお堀に植えたともいい、柳の名所とも聴きました。

 そよと吹く 風にたなびきて すなほなる 姿をうつす 岸の青柳

と、直弼が謡った歌や

  むっとして 戻れば庭に 柳かな

という、外出先で非常に立腹する事があったが、帰宅して庭に植えられた柳を見て、心を落ち着けたというエピソードがあるそうです。
それほど直弼は柳をことのほか愛しており、号にも「柳王舎」を使うことが多かったと謂います。

また、直弼誕生以前から彦根城下で営業している“いと重菓舗”さんは、部屋住みの埋木舎時代の直弼から付き合いがあったそうで、銘菓“柳のしずく”は直弼公自らが木型に柳の文様を彫り、それを以って作られていたそうです。
ただ現在では、流石に直弼公自らが彫られた木型を傷めるのは偲びなく、同じ模様の複製の木型を用いられて作られているそうです。

さらに彦根城のお堀を航行している屋形船の名前には“柳王丸(りゅうおうまる)”があり、現在でも直弼を偲ぶ痕跡は彦根の其処彼処で見受けられます。





※注6)心に火を灯す出会いとは

ここでカモンちゃんが言う出会いとは“村山たか”と“長野主馬義言(ながのしゅめよしよき)”の二人です。
埋木舎時代の部屋住みでしかなかった直弼と出会った二人でしたが、直弼の出世に伴い数奇な運命を辿ります。
長野は直弼の藩主就任に伴い、長野主膳義言(ながのしゅぜんよしとき)となり、代わりの利かない右腕となってゆきます。

2009年の9月30日に更新した“インターミッション お蔵出し”の中で、加藤清史郎くんをモデルに描いたのが、その長野主膳のパロディーになります。







※注7)直弼、覚悟の弾圧

直弼は藩主に就任すると、江戸城内では溜詰(たまりづめ)となりました。
溜詰というのは、溜之間(たまりのま)に詰める者という意味で、将軍謁見のための控室・詰所とされていた伺候席(しこうせき)の一つです。
溜之間の上席には大廊下(おおろうか)と大広間(おおひろま)があり、大廊下には将軍に準じる家系・御三家・御三卿などが詰め、大広間には国持ち大名と四位以上の官位を持つ外様大名などが主となります。
溜之間は第三席の位置で、松平容保の会津藩もこの席でした。直弼と容保が同じ部屋で意見を交わしていたのは日常の出来事だったはずです。
溜之間にいた頃の直弼は人当たりが良く実直な人物というのが、同室の大名達の大方の人物評価でした。
が、ある日突然(正に突然でした)、家格もそのままに上席の大名達を飛び越えて大老に任じられた日から、その人柄は豹変します。
その豹変ぶりには、かつての同輩の大名が首を傾げるほどだったと謂いますが、後の歴史を知り、当時表に出る事の無かった直弼の覚悟や心情を知る事が出来た後世の私達には、その豹変した理由が容易に想像出来ます。

幕府の大老となり、安政の大獄(実はこれは明治になってからの名称で、当時は“飯泉喜内事件”などと呼ばれていたそうです)に着手して不穏分子を徹底的に排除しようとした直弼は、その反動も勿論覚悟の上でした。
それを示すかのように、彦根清凉寺の23世住職・仙英と相談して自ら戒名と位牌をつくり、さらに自身の肖像画に歌をしたため納めたのです。(暗殺直前の正月に作成)
位牌に記された戒名は、大河ドラマ“八重の桜”でも登場した“宗観院殿柳暁覚翁大居士”。
肖像画にしたためた歌が、このお噺のタイトルにもした“あふみの海 磯うつ浪の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな”です。





※注7 補足)

上記したように、譜代筆頭の35万石の大藩・彦根藩と云えども、江戸時代の家格に照らし合わせてみれば、外様の大名はいざ知らず、大廊下に詰める御三家・御三卿に比べれば遥かに下位の席順で、普段から平身低頭しなければいけない身分です。
それでも大老ともなればそういった上位の方々をも自由に指図する権限も付与されますが、家格自体が上昇した訳ではないので、相も変わらず大廊下の方々と接する際には、頭が上がらないという矛盾を抱えていました。
これは現代の会社で、かつての上司を部下に持つまで出世した苦労よりも、遥かに哀れな環境です。
それでも直弼はその一線を遂に越えるのです!

 


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