MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯45 中国化する日本

2013年08月10日 | 本と雑誌

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 「宋代」(9601279)以降の中国は、それまで(唐の時代まで)残されていた身分制度と本格的に決別し、科挙による能力主義と皇帝による抜擢人事を基軸とした官僚による中央集権体制に移行していきました。

 これは、地方の経済や人々を地方の領主が実質的に支配する「封建制度」から、当時の(そしてその後の)世界のどの国にも類を見ないような完全な形での「皇帝専制による中央集権」への移行を意味します。そしてこの体制は、基本的に現在の中華人民共和国に至るまで1000年以上ほとんど変わることなく受け継がれているというのが、歴史家の通説ということです。

 宋では、それ以前の王朝である唐が一定の貴族階級を存続させたことにより各地の地方軍閥による割拠を招き衰退に至ったことに鑑み、隋代に始まっていた「科挙」を本格的に運用することにより、名実ともに文民官僚制による地方の支配を完成させました。また、中国で広域に通用する「漢字」という文字と印刷技術の普及がこうした制度の運用を大きく支えたということです。

 さらに、皇帝が科挙により自ら選任した官僚を手足として国政に当たるこの体制は、ある意味実質的な機会平等主義であり、その後も中国の人々に広く受け入れられることとなりました。

 また、この宋代は、農業生産技術の発達による生産拡大、銅銭の普及による貨幣経済の浸透や交通網の整備などがあいまって、中国全土に及ぶ市場経済の完成を見た時代でもありました。

 各地に常設の市が立ち、様々な商品が広域に(中国全土ばかりでなく西はヨーロッパから東は日本まで)流通するようになりました。この時点で既に中国の地方経済は、それ以前の自給自足を基調としたものから、貨幣による決済を前提とした商品経済に移行していたのです。

 我が国では「貨幣」すら一般化していなかった平安時代の末期に、多民族を抱える広大な中国においては、中央(皇帝)が官僚を使って地方の隅々までコントロールするというこうした社会制度が既に確立していたということになります。

 一方、西洋的な史観によれば一般に「遅れた」制度とみなされることが多い「身分制」は、人々から自由を奪うと同時に、実は現実社会に生きる人々にとっては安定や安心感をもたらす人に優しい制度と言うこともできます。また「封建制」は、経済の成長を阻害し変化を拒む一方で、地域の構成員の相互扶助を助長する制度とも考えられます。

 さて、そう考えると、封建制度を捨て去り能力主義による競争と広域的な市場経済にさらされてきた宋代以降の中国とは、そこに暮らす人々にとって果たしてどのような環境であったのでしょうか。

 昨年、出版と同時に大きな話題を呼んだ「中国化する日本(與那覇潤著:文藝春秋社)」によれば、中国の人々は、己の才覚に基づく能力主義、自由競争の荒波に1000年以上にわたってもまれ続けている民ということになります。こうした厳しい社会環境を生き抜くため、中国人は国家による人権の擁護や福祉などを期待することのない、徹底した個人主義や父系親族による強い血族意識などを育んできたとしています。

 そのような観点に立てば、現在のグローバルスタンダードに基づく実力主義や市場における自由競争に最も順応しているのは実は中国の人々であり、欧米は周回遅れ、日本などは2周以上遅れていると言っても過言ではありません。

 同著によれば、日本の歴史は、中国の影響を受けた中央集権・競争主義と、江戸時代に代表される封建主義・身分制の間の「戦い」の歴史であるとしています。

 古くは平安時代末期、宋との公益を進めた平清盛による貨幣経済化(市場経済化)の流れを源氏率いる鎌倉幕府が押しとどめ、建武の新政により後醍醐天皇が指向した中央集権化を足利尊氏が潰し、戦国時代の自由経済、下克上の混乱を徳川幕府が収拾するといった具合です。

 また、明治維新以降、大きく進んだ中国化(これは「西洋化」ではなくあくまで西洋文化の名を借りた「中国化」であると著者は言います。列強によるアジアの割拠が進む中、明治の人々の血のにじむような努力により国際社会での競争に何とかついていったが、次の「世代」がその反動から自らの殻にこもり孤立して敗戦。その後の復興、発展は、アメリカの傘の下での保護主義(著者は「最も成功した「社会主義」」と言う言葉を使っていますが)の元で、奇跡的に成し遂げられたものであるとしています。

 さて、世界経済のグローバル化を受けて、日本はこれからどんどん「中国化」の道を歩むことになる、「中国化は歴史の必然」であると著者は言います。

 戦後政権にも、田中角栄の登場による「江戸化」への回帰や小泉純一郎という中国化の旗手の登場、小沢一郎+民主党による混乱など様々な動きがありました。現政権も、アベノミクスの成長戦略やTPP交渉などにおいて「日本の中国化」を求める国際環境に対抗するさまざまな反応を見せてはいますが、もはや来るところまで来たという観は否めません。

 江戸時代の封建制がもたらしたセーフティーネットは既に崩壊しつつあり、日本人の生活を守ってきた「地域」や「家」もこれまでの役割を果たせなくなってきています。

 そんな中、この中国化の流れをどのように受け入れていくべきか。著者は、中国化するということがどういうことかをきちんと考えて「自給自足的な指向によって社会のあり方を捉え『他人の得は自分の損』と思い込んでしまう百姓根性」を捨てることだとしています。

 再び自らの殻に籠もって国際社会から孤立するという過ちを繰り返さないよう、日本経済の破綻までもきちんと見据えて、(アジア諸国との関係や歴史認識、移民の受け入れなどを含め)問題をよりオープンな視点で柔軟に考えていくこと。国民生活にとって何がメリットとなりそのために何をなすべきかドライに戦略を練ることができるかどうか。

 この辺が、これからの政治に求められる能力なのではないかと私は思っていますが、さていかがでしょうか。


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