MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

 伊皿子坂社会経済研究所のスクラップファイルサイトにようこそ。

♯46 大人のいない国

2013年08月14日 | 本と雑誌
418sf0yycwl_sl500_aa300_1


 いわゆる「クレーマー」なる存在はおそらく随分と昔からあったのでしょうが、最近のいろんな話を見聞きしたり(実際うんざりするようなクレームをさんざん聞かされたり)すると、最近の大人たちは、いい年をして一体どうしてしまったのかと不安になったりします。

 誰も好きでクレームをつけているわけではなくて、(少なくとも態度からはそう見えるので)普段は優しい人達がたまたま理不尽な扱いを受け、やむにやまれず我を忘れているのでしょう。さらに時代全体を覆っているイラついた空気というものが、いとも簡単に人を逆上させてしまうのかもしれません。

 サービスを受ける側は期待するサービスを受ける「権利」があり、提供する側はそれに応える義務がある。お客様は「神様」だ。気が付くと、日本人は皆どんな場面でも「消費者」としての立場をとることに慣れすぎてしまい、(ほかの消費者のことはさて置いて)自分が払った対価に見合ったサービスは事情がどうあれ何があっても要求するというのが普通の感覚になっているようです。

 クレーマーの主張は常に「自分は被害者だ」という前提から出発していて、私が満足できないのは「あなたたちが悪い」という論理で成り立っています。これは何も個別のクレームに関してだけの話ではなく、様々な事件・事故、経済的な格差や天変地異でさえも、「ひどいじゃないか何とかしろよ」「こうなったのは誰のせいだ」という被害者の視点からの要求型の論調が最近の世論の特徴と言ってもいいのではないでしょうか。

 このような風潮は、社会事象に対するマスコミ報道の影響も大きいのかもしれません。世論への影響が大きいマスコミには当然現代日本の様々な矛盾に関して責任の一端が存在すると思うのですが、昨今のメディアには、「こんな日本に誰がした」「責任者を出せ」風の責任追求型の論調が特に強く表れているように感じるのは私だけでしょうか。

 問題の原因がわかっても、いざ解決しようとなれば様々な事情を抱えるステークホルダーが複雑に絡み合いにっちもさっちも行かなくなっていることがほとんどです。本来、そうした利害関係を丁寧に解きほぐしそれぞれが妥協できる解決策を見出していかなければならない所を、簡単に加害者と被害者に役割を振り分ける。こうした視聴者に優しい(大衆迎合的な)姿勢が、視聴者が自ら問題を考える機会を奪い、視聴者の成長を妨げていると言うこともできるのではないでしょうか。

 さて、先日読んだ「大人のいない国」(内田樹木・鷲田精一共著:文春文庫)に、成熟していない人間は、「いろいろなシステムの不調には『張本人』」がいると思いたがる」とありました。全てをコントロールしている責任者がいるということが自分たちの「無垢」(責任のなさ)を保証し、自分は弱者で被害書であることを証明してくれるというわけです。

 一方、こうした「そこで起きている不都合は○○のせい…」という断定は実は非常に危険な考え方といえます。原因となる悪者さえ排除すれば全ての問題が解決するといった極めてシンプルな排除論にすり変えられたり、原因とされたものへの強い強迫観念を喚起するといった方向に向かいがちです。(実際、こうした発想が社会を覆い、差別や迫害などの人権問題につながっていくケースが歴史上も後を絶ちません。)日本は、自らを社会に加担していない未熟な「みそっかす」と位置付けることで他者を一方的に攻撃し安心感を得るという未熟な願望が蔓延した、危険な「大人のいない国」になりつつあると著者たちは指摘しています。

 また、同著には、こうした国民の未熟化は、現在日本における生活が「サービス」で充満しており、人々が生活を切り開いていく主体ではなく与えられたサービスを消費する消費者としてのマインドしか持ち得なくなったことの表れではないかとの指摘もあります。例えば隣家の人が自分の家の前にごみを置いて行ったとして、ふつうは隣に文句を言いに行ったりするのでしょうが、それをすぐに市役所に電話して「清掃局がちゃんとしていないからだ」とクレームをつけたりする。問題を自ら解決しようとせずサービスの不調を訴える未熟な発想は、積極的なように見えて実は何事にも受け身の消費者の発想だということです。

 さらに著者によれば、共同体にとって子供が子供のままで(成長しないで)いることはその共同体に破滅をもたす災厄になりかねないとしています。矛盾や葛藤を知らない子供は、真偽の判断も価値の査定も自分に委ねられていると信じて疑わないいわば「無敵」の存在であり、人々が助け合って生きていく共同体にとってこれほど恐ろしいものはない。教育の目的は信じられているように、子供を邪悪なものから守ることにあるのではなく、子供が社会にとって邪悪な存在にならないように成熟を強いるために存在するのだというものです。

 教育の目的、存在価値は「子供を成熟させるための制度」から「子供の自己実現を助長する制度」へと大きく舵を切られています。子供を成熟させないシステムである「自由競争」や「自己責任」が尊重される環境の中で、共同体(社会)はどのような形で存続していけるのか。

 共同体の中で成員としての責任を担う「一人前の大人」がいなくなる日が、もうそこまでやって来ていると言えるかもしれません。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿