MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2314 エコ・テロリズムは共感を得られるか

2022年12月13日 | 環境

 10月14日、英ロンドンのナショナル・ギャラリーで19世紀の印象派画家ゴッホの代表作「ひまわり」にトマトスープがかけられる事件が起きました。犯人はイギリスの環境保護団体「JUST STOP OIL」メンバーの女性2人で、犯行後「こんな絵を一枚守ることと、地球と人々の生命を守るのと、どっちが大切なの?」と叫んでいたとされています。

 ノルウェーの首都オスロでは同11日、国立美術館に展示されている画家ムンクの代表作「叫び」に接着剤を塗り、自身の体を接着しようとした環境活動家が警備員に取り押さえられるという事件が起きています。

 さらに同月の23日には、独ポツダムのバルベリーニ美術館でドイツの環境保護団体「最後の世代」のメンバー2人が、印象派を代表するクロード・モネの「積みわら」にマッシュポテトを投げつけるなど、世界的な名画を標的とした同様の事件が相次いでいます。

 「地球と「ひまわり」と、どちらが美しいのか」「(絵画などよりも)大切な自然環境が傷つけられている現実に目を向けるべきだ」…こうした主張に基づく「エコ・テロリズム」と呼ばれる事件が、ヨーロッパの先進国を中心に近年頻発化の傾向を強めているようです。

 実はこのエコ・テロリズム。日本に暮らす我々にとっては、このような騒ぎで耳目を集めても 「それとこれとは話が違う」「共感が得られる訳がない」と考えがちですが、イギリスで行われた世論調査の結果では、実に66%もの人が今回のような非暴力の直接行動に理解を示しているということです。

 ヨーロッパで広がるこうしたエコ・テロリズムという発想の背景には、一体どのようなものがあるのか。経済評論家の加谷珪一氏が、11月23日の総合経済サイト「東洋経済online」に『名画を攻撃する環境活動家の行動は、無意味だが意外と筋は通っている』と題する一文を寄せているので、参考までに紹介しておきたいと思います。

 ゴッホの名画『ひまわり』にスープをかけるなど、環境活動家による激しい抗議活動が続出している。絵画はガラスで保護してあり、いずれも実害はなかったが、一歩間違えば取り返しのつかない損失が発生する行為であり、行為自体は「環境テロ」と批判されても仕方ないだろうと加谷氏はこの論考に綴っています。

 それでは、なぜ彼ら環境活動家はことさらに名画を攻撃対象にするのか。それは名画というものが、極めて「資本主義的な存在」だからだというのが氏の見解です。

 名画というのは、ただの絵画であるにもかかわらず、場合によっては何十億円という値段が付く。絵を描く原価が極めて安価であることを考えると、経済学的には究極の付加価値といってよいと氏は言います。

 美しいものに極限の値段を付け、金銭を通じて取引するというのはまさに資本主義を象徴する行為で、実際、バブルの最盛期、日本人実業家がゴッホの絵を巨額落札し「自分が死んだら棺桶に入れてほしい」と軽口をたたいて批判されたこともあった。

 一方、自然というものは、名画と同じく美しくかけがえのないものだが、人々はそれをタダで入手できると考えており、消滅しかかっていることに関心を寄せない。名画には何十億円ものお金をかけるのに対し、なぜ美しい自然に対してはお金をかけないのかというのが、活動家の論理だということです。

 経済学では天然資源は所与のものとして扱われており、価値はあくまで人間が付与する決まりとなっている。水や植物そのものには価値がなく、これらに対して消費者が支払うお金は、主に採取や加工、輸送のコストに対してのものだと氏はここで説明しています。

 しかし、天然資源が有限で、人類の存続に欠くことのできないものと考えるならば、その維持や管理(いわゆる持続可能性)にコストがかかるはず。もっと高い価値が付与されるべきとの考え方も成立すると氏はしています。

 マルクスは天然資源に交換価値はないので商品にはならないと主張したが、21世紀の現実はそうでもないことを示しているということです。このため一部のマルクス主義者は、生産関係の一部として天然資源を社会主義的に(国家が)管理することで、地球環境と経済活動を両立できると主張する。しかし結局のところ、(天然資源を社会主義的に管理しようが、市場メカニズムを通じて管理しようが)そのコストは何らかの形で誰かが負担しなければならないのが現実というのが氏の指摘するところです。

 絶対量に限りがある以上、このまま(天然)資源の浪費が進めば、奪い合いになるのは確実なこと。ウクライナ侵攻からも分かるように究極の奪い合いは戦争であり、経済力で買い占めることも類似行為といってよいということです。

 全世界的なインフレの進行は、争奪戦が既に始まっていることを示唆していると、氏はこの論考に記しています。絵画にスープをかけても問題が解決しないことは(やった本人も含め)誰もが判っている。しかし、(かけがえのない絵画に大金を払うのと同様)一連のコストを何らかの形で共同負担する仕組みが必要なのは間違いないとこの一文を結ぶ加谷氏の指摘を、私も(なるほどな、と)興味深く受け止めたところです。



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