私がまだ義務教育を受けていた1970年代の半ばころまで、日本は「一億総中流」と呼ばれるような(高度成長と終身雇用に支えられた)世界有数の安定社会を自認していました。もちろん当時も裕福な家は極めて裕福でしたし、(対して)とことん貧しい家もありましたが、そんな中でもほとんどの人々は貧しいながらも慎ましい生活をしていたものです。
一方、その後のバブル経済やその崩壊、失われた30年と新自由主義経済の浸透を経て、日本の社会でも貧困層と富裕層の格差が拡大。個々の家庭の状況においても、所得による分断が顕著になりつつあると言われています。
「親ガチャ」の言葉が象徴するように、親が貧乏なら子どもは満足な教育機会に恵まれず、子どもも貧困になるという「貧困の連鎖」が指摘されるところ。実際、東大生の親の6割以上が年収950万円以上(日本の平均世帯年収は564万円、中央値は440万円)と聞けば、学歴や年収は「発射台の高さ」で決まるものといった声も無視するわけにはいきません。
「親ガチャ」を口にする若者をただの「僻み根性」とスルーするのは簡単ですが、実際に彼らが成長するうえで、親の所得や子供への投資、そしてそこから得られる経験の差というものが、大きな影響を与えているのもまた事実のようです。
そんなことを感じていた折、5月15日の総合ビジネス情報サイト「現代ビジネス」が、『「世帯年収300万円台」家庭出身の東大生が痛感した「体験格差」の厳しい現状』と題する記事において、公益社団法人チャンス・フォー・チルドレン代表理事今井悠介氏の近著「体験格差」(講談社現代新書)の一部を紹介していたので、参考までに小欄にもその概要を残しておきたいと思います。
最近、しばしば耳にするようになった「体験格差」という言葉。実は今、これによって受験での逆転が難しくなっている実態があると今井氏はこの著書で触れています。
現在、多くの大学受験において「勉強以外の体験」が重視される時代がやってきている。文部科学省の調査によれば、2021年度の入試では、50.3%の受験生が、学校推薦型選抜もしくは総合型選抜入試を利用しており、ペーパーテストはもはや少数派だというのが氏の指摘するところです。
「推薦入試」では、小論文や面接、研究計画などにより選考が行われる。ここで重要視されるのが「どれだけリアルな体験をしてきたか」だと氏は説明しています。
例えば貧困問題を研究したい2人の学生がいたとする。Aさんは図書館やインターネットを駆使して様々な資料を読み研究を進めている。一方のBさんはそれらを済ませた上で、実際に東南アジアやアフリカ、南米のスラム街を回って、貧困に苦しむ人々の暮らしに触れてきた。
さて、この時、合格しやすいのがBさんであることはまず間違いないと氏は言います。研究の際に一番信用されるのは、フィールドワークを通じて集めてきた一次資料であり、自分が現地に行けたかどうかが合格を大きく左右する。生育環境がそれを許すか許さないかの違いが「体験格差」となり、こうして「推薦入試」は、貧困層には厳しい選考方法となるということです。
記事によれば、東京大学でも9年前から推薦入試が行われており、推薦合格生の多くは幼少期から様々な体験を積んでいる人たちだと氏は記しています。例えば(その一人は)、アフリカ社会の現状を学ぶため、高校生で現地に飛んで実地調査をした人。さらには、海外から個人で珍しい動植物を輸入し、好奇心を磨き続けた人などなど。
資金力に欠ける学生は、こうした人たちにとうてい太刀打ちすることはできないというのが氏の懸念するところです。一方で、大学受験における(こうした)「推薦入試」の割合はさらに増え続けている。法政大学では現在30%以上の学生を同方式でとっており、今後も拡大の予定。早稲田大学は2026年までに入学者全体の6割を推薦型入試で募集すると発表されていると氏はしています。
国立大学でも動きは同様で、筑波大学などは既に入学者全体の25%以上を推薦入試で選抜している由。つまり、「幼少期にどんな体験をしたか」が入試の鍵を握る未来がすぐそこまで迫っているということです。
第三者に評価されるような強い意志を持ったり、魅力や可能性を身に着けたりするためには、ベースとなる素養や技術を学んだり、その切掛けとなるような経験を積んだりする必要がある。そして、そうした体験を重ねるためには、それ相応の資力や家庭の理解が必要だということです。
それ自体は今に始まったことではないでしょうが、子供に投資できる環境があるかないかが(あからさまに)カギを握るようになっている現在、人生の成功に対し「自己責任」という言葉が通用しない世の中がさらに拡大しているのかもしれなと、記事を読んで改めて感じたところです。
(『#2591 体験格差のリアル(その2)』に続く)
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