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同じ関東内、霞ヶ浦で日帰り旅をしてきました。
もちろん、コロナ禍のこと、感染予防対策は
できうる限りして、楽しんでいます。
このお出かけのメインは、予科練平和記念館。
近々、朝ドラ「エール」で登場するであろう、
「若鷲の歌(予科練の歌)」と予科練の舞台です。
(詳しくは→「若鷲の歌(予科練の歌)」①~日帰り・霞ヶ浦の旅)
本日は、予科練平和記念館の見学録でございます。
私のメモを元にしておりますので、間違いや勘違いも多々あると存じますが、
素人のことゆえ、お許し下さいませ。
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まず、入館して驚いたのが、ロビーに展示されている写真の素晴らしさ!
なんと故・土門拳が撮影したのだそうです。
土門拳と言えば、昭和を代表する写真家・・・すごっ!
土門は予科練習生と寝食をともにしながら撮影したのだとか・・・
だからこそ撮れた、少年たちの表情なんですね。
こうしてみると、予科練は少年ばかりだったんだなぁと・・・
その表情の幼さに胸がしめつけられました。
この土門の写真が残ったのは偶然でした。
終戦後すぐに、予科練の写真や書類は焼却命令が出ていたものの、
持ち主の予科練習生が入院中だったため処分を免れたのだとか・・・
奇跡の写真42枚です!
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(モダンなデザインの平和記念館。空を見せることを意識したのだとか。)
館内は七つのコーナーに分かれています。
「若鷲の歌」の歌い出しは
「若い血潮の 予科練の 七つボタンは 桜に錨・・・」。
予科練の制服は「桜と錨」↓をあしらった七つのボタンがついており、
これが少年達の憧れ、予科練の代名詞でした。
「世界の七大洋を表し...海を越えて大空を駆け巡る期待」が
込められていたのだとか。
七つのコーナーはこの「七つボタン」にちなんでいるそうです。
土門拳の写真が飾られたロビーを抜けると、
「入隊」から「特攻」までの七つのテーマによるストーリーが展開されます。
どのコーナーも、予科練習生の日々が追体験できるよう工夫され、
時に微笑ましく感じながらも、胸が苦しくなるようで・・・
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とりわけ、最後の「特攻」コーナーのビデオでは・・・
出撃した、特攻隊員は、ずっとモールス信号をずっと打ち続ける・・・
そして、その音が消えたときが体当たりの瞬間・・・
今でも、あのモールスの「ツー」という音が聞こえるようです。
まだ14歳から17歳の少年が、親元を離れ、軍隊の訓練を受ける、
命の覚悟をしながら・・・
そんな彼らにとっての楽しみが、家族の面会、訓練の合間の映画会や
慰問会、そして外出でした。
日曜日には、阿見町や土浦の指定食堂や倶楽部で過ごしたそうです。
「明日は外出です...饅頭食って汁粉を食って大福食って芋食って、
アンミツ食ってあべかわ食って倶楽部へ行って火鉢にでも当たっている
予定です」(練習生の手紙より パンフより)
・・・って、食べてばっかじゃん!w
10代だもんね、食べ盛りだもんね・・・当たり前だよね・・・
ここでいう「倶楽部」は、一般の家庭を開放したもの。
阿見町では、大きな農家は、現金収入を得られるため
たいてい「海軍さん」相手の下宿屋をしていたとも説明されていました。
予科練習生も、つかのま、民間の家で、羽根を伸ばしたのでしょう。
そういえば、「若鷲の歌(予科練の歌)」の映画「決戦の大空へ」で、
原節子さんの役どころも・・・どうやら倶楽部のおねえさんのようでした。
(予科練習生の「お母さん」じゃ、原節子さんのイメージが損なわれる!?)
こんな風に、倶楽部や指定食堂で交流した民間人は、
知覧の「特攻の母」鳥濱トメさんや
「回天」のおかあさん・徳山のお重(シゲ)さんなどが、よく知られています。
面倒見の良いオバちゃんと若い人との交流は、今でも健在・・・
時代は移れど人の気持ちは同じということなのでしょう。
ほっとさせられるエピソードです。
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七つのストーリーを、いろいろな想いで観ていたら・・・
最後の最後に・・・ハッとさせられれました。
「予科練学歴認定請願書」の展示でした。
戦後、学校教育は6・3・3制をとり、
陸軍幼年学校や海軍兵学校の生徒は、編入が可能となりました。
ところが、予科練は学歴と認められず、不利な扱いを受けていたのです。
これを改正して欲しいと求める動きの一つが、この請願書でした。
ひどい・・・
予科練の試験は、当時のエリート学校だった海軍兵学校に次ぐと宣伝され、
実際、試験の倍率も高く、一次・二次試験と続く厳しいものでした。
成績が優秀なだけでなく、健康面や適性も重視されていたのです。
合格後も、「普通学」と「軍事学」の二本立ての教科構成で、
学習内容も高度だったと説明されていました。
実際、予科練習生の中には、家庭が貧しく、一般の進学がままならず、
勉強を続けたいばかりに、予科練を目指すことも多々あったそうです。
それなのに・・・どうして、戦後の6・3・3制から、はじきだす!?
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十数年も前になりますが・・・
年上の友人から、義理のおとうさまが、少年時代、
予科練習生だったと聞きました。
「『予科練くずれ』だから苦労したらしいわ」とも付け加えて・・・
「予科練くずれ」「特攻くずれ」・・・酷い言葉ですが・・・
要は、予科練習生や特攻要員でありながら、生きながらえた元兵士たち・・・
仲間を死なせたのに、と、世間からの眼差しも冷たく、
また自分自身も責めてしまい、自暴自棄になってしまう・・・
当時は、そんな若者達が多かったと聞いています。
でも、今、わかったような気がします。
これじゃ・・・すねる。くずれる。
世間や自分に対して、腹も立つ・・・
「予科練くずれ」も・・・当然ではないかと・・・
「若鷲の歌(予科練の歌)」に歌われたように、
空を夢見て、国を守ろうと必死だった若者達の戦後の苦労・・・
そこまでを、しっかりと伝えてくれる展示館は
見応え十分、満足でした。
欲をいえば、ガイドブックや図録を充実させていただけたら、と思います。
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また予科練平和記念館のお隣、陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校内に
雄翔館↑・雄翔園があります。
雄翔園は、予科練の戦没者約1万9千人の霊璽簿(れいじぼ)をおさめた
「予科練の碑(予科練二人像)」を正面に配した庭園、
雄翔館は予科練戦没者の遺書・遺品約1500点を収蔵・展示。
自衛隊の敷地内ですが、コロナ感染予防のための検温をし、
連絡先を記入すれば、無料で見学できます。
こちらも、一人一人の想いが、いっそう伝わるようで、必見!
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さて、帰り際、予科練平和記念館の女性スタッフさんが教えて下さいました。
「今、当時の面影を伝えるのは、桜並木です」と。
「海軍道路」↑と呼ばれる、まっすぐな坂道は、
大正時代、茨城県下で初めて舗装された道路だとか。
そこに、かつては見事な桜並木があったそうです。
今は、三本の木が残っていました。
昭和10(1945)年6月の「阿見空襲」にも耐え、令和の今も花を咲かせる・・・
この桜の木が予科練の少年達を見守っていたのですね・・・
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朝ドラ「エール」で描かれるはずの「若鷲の歌(予科練の歌)」。
館内でも、作曲のエピソードが解説された展示がありました。
この曲が、どんな風に使われるのか・・・楽しみです。
これから・・・
「露営の歌」「暁に祈る」から「 若鷲の歌(予科練の歌)」などを経て、
主人公の裕一さんが、「長崎の鐘」に行き着くまでの葛藤と出会いが
ドラマの中で、どう描かれるのか、見逃せません。
10月6日追記:
5日の「エール」で、映画「決戦の大空へ」が語られていました。
原節子さんの役どころもわかり、嬉しい限りです。
長々と、おつきあいいただき、どうもありがとうございました。
心よりお礼申し上げます。
◆参考
○「予科練平和記念館パンフレット」
○古川隆久『戦時下の日本映画ー人々は国策映画を観たか』吉川弘文館