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「若鷲の歌(予科練の歌)」①~日帰り旅★霞ヶ浦

2020-09-22 | 旅行
霞ヶ浦への日帰り旅。
コロナ禍、感染対策を十分にして楽しんできました。

本日のお話は、この日のメイン、予科練平和記念館・見学記です。
ずっと行きたかった場所ながら、
このコロナ禍で、ますます遠のいてしまって・・・

でも、朝ドラ「エール」をきっかけに、
今、絶対に行かなくちゃ!と決意したのです。

昨日(21日月曜日)の放送回では、
裕一さんが作曲した「露営の歌」が大ヒットというお話でした。



「エール」は、ご存知のように、作曲家・古関裕而 をモデルにしています。
当時、古関氏は多くの戦時歌謡を手がけており、
「予科練の歌」こと「若鷲の歌」も古関氏の作曲でした。

再開された「エール」の予告には、明らかに予科練エピソードが・・・
これは急がなくちゃ!・・・
アタクシ、焦りました~

というのも、憧れの場所が、メディアで取り上げられて大人気、
あまりの混雑ぶりに、
泣く泣く、出かけるのをあきらめた経験が何度もあったからです。

調べてみると、予科練平和記念館は、今、十分な感染対策とったうえで
予約入場制をとっているのだとか・・・これなら安心と、すぐに予約、
出かけた次第です。

(当日、予約をしていなくても、入館者数に余裕があれば、
見学できるようでした)



前置きが長くなりました。

まずは「予科練」について、ざっくりと。

「『予科練』とは『海軍飛行予科練習生』及びその制度の略称」です。
第一次世界大戦後、航空機の時代が到来、
旧・日本海軍も搭乗員を育てることに力を入れます。

そのひとつ、昭和5(1930)年に始まった、
14歳から17歳までの少年への教育が、予科練でした。
とにかく、優秀な人材を集め、搭乗員を育てることが急がれました。

これに、古関氏の「若鷲の歌(予科練の歌)」も、一役買っています。
「若鷲の歌」は、映画「決戦の大空へ」(1943)の挿入歌だったのです。


(画像は版元ドットコムより使わせていただいております)


偶然ながら、
古川隆久『戦時下の日本映画ー人々は国策映画を観たか』(吉川弘文館)を
読んでいると、「決戦の大空へ」の画像が載っていました。

少年と少女と共に、妙齢の男性と女性が並んでいます。
これが、なんと原節子さんと高田稔さん!
どちらも当時を代表する、美男美女の映画スターです。

作品は「海軍航空兵の志願者増加を目的にその養成課程を描いた国策映画」で
文部省も推薦、必見映画として、上映回数を増やしたものの・・・
「大衆を掴む力に欠けてゐた」そうで、興行的には失敗。

それでも、観客の中には、これをきっかけに
少年航空兵を志望した人が増えたそうです。(前掲書195頁)

これ、「若鷲の歌(予科練の歌)」の力も大きかったのではないかな?
アラカンのわたしですら、かつて、ちょこっと聞いただけで、
今でも、歌えるくらいですから・・・歌の力、恐るべし!?




さて、ここ茨城県阿見町には、
大正時代から霞ヶ浦海軍航空隊がありました。

太平洋戦争開戦後は、全国に予科練の訓練地が増えたものの
昭和14(1939)年に横須賀から移転して以来、
阿見町は、終戦までの間、予科練の教育や訓練の中心的存在となります。

予科練の少年は、全国から難関の試験を突破して集まりました。
(映画の影響を受けても、試験は難しいので合格できるかどうかは別、
過酷です)

終戦までの間に約24万人が入隊、うち2万4千人が戦地へ赴き、
特攻隊員として出撃した人も多かったとか。

戦死者は1万9千人・・・なんと8割にも及ぶそうです。

(予科練平和記念館の奥には茨城県名産・レンコン畑。
その向こうに霞ヶ浦が見えます。)


予科練の多くが特攻隊員になった・・・

戦局の悪化に伴い、飛行訓練を受けても、乗る搭乗機がなくなります。
そのため、空の搭乗員になれるとは限らなかったとか。
結果として、多くの出身者が、いわゆる「特攻兵器」の乗員となりました。

たとえば、特攻兵器「震洋」では・・・
「震洋」って、造りやすい木造(ベニヤ板!?)の小型ボート。
そんなペカペカのボートで、敵艦に体当たりさせるんです・・・

予科練出身者は、「震洋」 で出撃するときに、
なんと、航空服を着て、  乗り込んだのだとか・・・
言葉がありません・・・


(昨夏、大津島の回天記念館にて撮影。)


そういえば・・・と思いだしたのが、「回天」。

去年、人間魚雷と言われた「回天」の記念館を訪ねています。
そのときに購入した「回天記念館と人間魚雷『回天』」によると・・・
やはり「回天」の乗務員は予科練出身者が多かったと書かれていました。

巻末にあった「戦没隊員名簿」145名を数えると、
予科練出身者は33名でした。
しかも17歳から23歳で、大半は10代・・・今なら高校生か大学生です。

だから、ここ予科練平和記念館の庭にも
「回天」の実物大模型↓が展示してあったのだと合点がいきました。




ああ・・・あれこれ書いているうちに、こんなに長くなって・・・
本日は、時間切れと相成ってしまいました。
肝心の予科練平和記念館については、またいずれ・・・

おつきあいいただき、どうもありがとうございました。
また、お目通しいただければ、うれしいです。


◆参考:
○『予科練平和記念館パンフレット』
○周南市地域振興部スポーツ課編
『周南市回天記念館開館50周年記念誌ー回天記念館と人間魚雷「回天」』
○古川隆久『戦時下の日本映画ー人々は国策映画を観たか』吉川弘文館

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