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「西郷隆盛の史跡」

2018年01月07日 | 歴史関連



 西郷隆盛の史跡



 明治維新150周年を迎え、2018年1月7日からNHK大河ドラマ「西郷どん」が始まるということで、鹿児島にある西郷隆盛の史跡を紹介します――。



 西郷隆盛の銅像



 西郷隆盛没後50年祭記念として、鹿児島市出身の彫刻家で渋谷の「忠犬ハチ公」の制作者・安藤照が8年をかけて製作した銅像。





 わが国初の陸軍大将の制服姿で、城山を背景に仁王立ちする高さ8メートルの堂々たるモニュメントで、1937(昭和12)年5月23日に完成しました。


      


 本体は5.76mで土台が1.21m、築山は7.27mとなっています。


      



 西郷南洲翁宅地跡



 西郷隆盛が29歳の時に移り住んだ場所。ここに来る前々年、祖父、父、母と相次いで失い、加治屋町の屋敷を売って借金の返済に充てたといわれています。





 この屋敷で弟の吉次郎や従道の結婚式を行い、妹が嫁ぎ、西郷自身も1865年にイト婦人と結婚しました。






 私学校跡



 1873年10月、征韓論に破れ、下野して鹿児島に帰って来た西郷隆盛は農夫として静かに暮らそうとしましたが、西郷を慕って帰郷した若者たちに祭り上げられ、私学校を設立。





 明治9年(1876)末頃は県内のすべての郷内に設立され、青少年の多くが学びました。西南戦争では私学校周辺は激戦地となり、当時の弾痕跡が今も石塀に残っています。





 私学校は年々巨大化し、反政府の気運を高まらせ、ついに過激生徒が暴走。政府火薬庫の襲撃によって西南戦争をを引き起こし、私学校はわずか4年でその歴史を閉じたのです。
 





 西郷隆盛洞窟



 西南戦争の時、西郷隆盛が私学校の幹部達とともに過ごした洞窟。





 薩軍と政府軍との城山攻防戦という西南戦争の終盤戦において、政府軍の城山包囲網の中、西郷隆盛はこの洞窟で5日間過ごしました。

 



 西郷が最後まで薩軍の指揮をとっていた場所として、1974年に鹿児島県の史跡になりました。現在の洞窟の規模は、奥行きが4m、間口が3m、入口の高さは2.5m。
 




 洞窟を出た時の西郷の出立ちは、妻のイトが縫ったしまの単衣に白い兵児帯。この直後、7ヶ月にも渡る大乱の最期を迎えることになりました。






 西郷隆盛終焉の地



 鹿児島市城山町にある西郷隆盛が命を絶った場所。  





 1877年9月24日、城山洞窟を出て300mのところで政府軍の銃弾を受けた西郷隆盛は「晋どん、もうここらでよか」というひと言とともに、私学校の幹部の介錯で自害しました。





 薩長同盟や江戸城の無血開場など大局を見据えた沈着冷静な歴史的大判断を行い、明治維新に大きく貢献した西郷隆盛。49歳の若さでした――。





    
 西郷公園



 鹿児島空港から徒歩3分という好立地にある公園。





 薩摩藩の別邸を彷彿とさせる門構えで、西南戦争を描いた53枚の錦絵をはじめ、西郷隆盛や明治維新に関する資料、軍服にまつわるエピソードなどが展示されています。





 西郷公園の特徴はなんといっても、人物像として日本一の大きさを誇る西郷隆盛像。





 鹿児島空港を見据えるように立つ西郷さんの銅像は、鹿児島に来られる方を出迎え、そして見送るようにそびえたっています。 






 編集後期



 2005年に高知、2008年に山口、そして2018年に鹿児島を訪れて、幕末維新の立役者となった三大雄藩を制覇することができ、幕末ファンとしては感慨深い。。

 日本という国のために、犬猿の仲だった長州藩と薩長同盟を結ぶという私怨を超えた大局的な歴史的判断を下した西郷隆盛の度量の大きさには、敬服するばかりです――。



【記事引用】「維新のふるさと 鹿児島市」「西郷隆盛洞窟」「西郷隆盛終焉の地」「西郷公園

  

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