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【デビュー40周年】尾崎豊 / 1965.11.29-1992.4.25

2023年12月02日 | 尾崎豊



 尾崎豊
  1965年11月29日~1992年4月25日

 
 没後30年の月日が流れても輝き続ける不世出のアーチスト・尾崎豊。
 
 十代で3枚ものアルバムをリリースし、後世に残る数多くの名曲を生み出したのは、脅威という他ありません。

 モデル並みの容姿と天性の歌声、尋常ではない振れ幅の喜怒哀楽の表現力、さらに音楽的才能だけでなく、小説や絵画の才能も兼ね備えていた尾崎。
 
 生涯最後のアルバムとなった「放熱への証」のブックレットにはこう書かれています。“生きること。それは日々を告白してゆくことだろう”
 
 この言葉に従い、今年の12月でデビュー40周年を迎える尾崎豊の26年5ヶ月の日々を、ここに告白させて頂きます――。







 幼少期

 
【1965年】(0歳)
 
・11月29日 
 東京都世田谷区池尻の自衛隊中央病院にて誕生。豊という名前は、父・健一さんの恩師だった宮田豊先生から頂いたという。


       
 
 
・12月2日
 腸閉塞を起こすが、母・絹枝さんが気が付いて看護婦さんを呼び、処置を施して一命をとりとめる。
 
・12月6日 
 退院し、練馬区春日町の都営住宅で親子4人の生活が始まる。
 

 

【1967年】(1-2歳)
 
・4月28日 
 絹枝さんが髄膜炎を発症、一時危篤状態に陥る。
 
・5月1日 
 絹枝さんは自衛隊中央病院に入院し、健一さんが病院で寝泊りすることになり、尾崎は健一さんの実家の飛騨高山に預けられる。

 絹枝さんから引き離す時、尾崎は火が付いたように泣き叫んで大変だったという。


     


・7月1日 
 絹枝さん退院
 
・7月30日 
 練馬の自宅に戻る。祖母にすっかりなついていたため、引き離す時に苦労したという。

 また、尾崎は健一さんと絹枝さんの顔を忘れてしまっていて、暫くの間、絹枝さんに抱かれることを気味悪がり嫌がったとか。

 健一さんは、「幼い頃に二度も母親から引き離すような体験をさせてしまい、心に深い傷を負わせてしまったのではないか」と語っている。


     


・8月13日 

 練馬区田柄保育園に預けられる。

 保育園の送り迎えは、絹枝さんが元気な時は仕事の行き帰りに自転車で、絹枝さんの具合が悪い時は、健一さんや康さんが代わりにしていたという。


 
 
【1968年】(2-3歳)
 
・5月8日 
 自宅近くに新設された練馬区春日町第二保育園に転園。
 
 新しい保育園にもすぐ慣れて、元気一杯に通っていたという。「豊ちゃん、豊ちゃん」と園内で人気者だったとか。
 
 
 
 
【1970年】(4-5歳)
 
・7月 
 母・絹枝さんが知り合いからもらってきたオスの三毛猫・チロを飼い始める。

 いつも尾崎の後ろをついて回っていたが、翌年5月に畑で亡くなっているのを健一さんが見つけ、尾崎に見つからないように庭に埋めたという。
 

     


【1972年】(6-7歳)
 
・4月6日 
 練馬区立田柄第二小学校に入学。尾崎は、音楽と国語の成績が良かったという。


 
 
 
・4月中旬
 グランドハイツの原っぱで練習していた尾崎、ついに自転車に乗れるようになる。
 
 
【1973年】(7-8歳)
 
・6月 
 健一さん、庭に巻ワラを立てて尾崎に躰道(たいどう)の稽古をつけ始める。(写真は11歳の頃、朝霞の生家の向かいにあった空き地での尾崎)


     
 
 
【1974年】(8-9歳)
 
・10月 
 尺八を習いはじめる。音程やリズム感に優れ、飲み込みの速さに健一さんを驚かせた。
  
 
【1975年】 (9-10歳)
 
・1月11日 
 音楽に興味をもち、ピアニカを父親に買ってもらう。また、同時期に兄の康さんが弾いていたギターにも興味を持つ。


     
 
 
【1976年】(10-11歳)
 
・8月20日 
 埼玉県朝霞市に一軒家を建てて引っ越す。

 健一さんが材木屋で働いていた時の友人が朝霞で建築会社を営んでいた縁で、相場の半値で建ててもらったという。

 尾崎はこの家にデビュー翌年まで住んでおり、新婚当初には繁美さんと暮らしていた。





・9月 
 小5の二学期から朝霞市立第二小学校に転校。

 しかし、“転校生” “東京”というブランドで女子に人気になり、それを妬んだ男子からいじめられるようになる。





・10月 
 毎朝家を出て、共働きの両親がいなくなる昼に家に戻る登校拒否生活が約半年続く。

 この時、自分の部屋で兄が使わなくなったギターを再び手に取り、本格的に練習を始めた。これが、アーチスト・尾崎豊の原点となった。 


     

 
【1977年】(11-12歳)
 
・4月 
 学級委員に選ばれる
 
・10月16日 
 鉢道協会朝霞大会の少年の部・個人法形にて優勝


【1978年】(12-13歳)

・4月 
 練馬東中学校に越境入学。伸英塾という塾にも通うようになり、中間テストはクラスで3番。

 1500m走でクラスで1番になるなど文武両道ぶりを発揮し、6月になると、クラスの女子から手紙をもらうようになっていたという。
 
 また、尾崎は友達と第二体育館の右隣によく溜まっていたとか。


 
 
・10月 
 フォークソングクラブに入った尾崎、文化祭で体育館でさだまさしの『雨やどり』の弾き語りを披露したところ大ウケし、一躍学校の人気者になる。
 
・12月10日 
 生徒会書記に立候補して当選
 
  
【1979年】(13-14歳)
 
・8月29日
 問題児として、担任の先生の命で山梨で1週間の農業修業へ。写真は出発前の北朝霞駅。
 
 尾崎は、この時の担任の川島先生をとても慕っており、亡くなられた後も、繁美夫人と共にお墓参りに行っている。


     


 同時期に、石神井公園で開催された「カンボジア難民救済チャリティコンサート」に出演。数日前に、池袋のコンサートに飛び入り参加して、主催者に気に入られての出演となった。

 また、この頃、「ASAKADAN(朝霞+憂歌団)」というデュオも組んでいた。


     


・10月 
 友人が長髪を先生に無理やり切られたことに反発し、友人と家出。(『15の夜』の原形)
 
 家出をするために、向山公園に学校の仲間たちが集まったという。尾崎はこの公園で、子供の頃から仮面ライダーごっこなどをして遊んでいたとか。
 
 
 
 
【1980年】(14-15歳)
 
・1月24日 
 学校にて喫煙がバレて、自ら頭を丸めて反省する
 
・2月1日 
 再び学校にて喫煙がばれて謹慎処分となる


【1981年】(15-16歳)
 
・1月15日 
 自衛隊少年工科学校の一次学科試験に合格。

 しかしこれは、尾崎に自衛隊の幹部になってほしかった健一さんが尾崎を受験までなんとかこぎ着けさせたもので、本人の意向ではなかったという。


          


・2月25日
 青山学院高等部に合格

・4月1日 
 青山学院高等部に入学。

 生徒達はいつも財布に10万円の札束を入れているような高校で、尾崎は生まれ持った貧富の差を感じたという。
 

     


・11月 
 最初のオリジナル曲『町の風景』完成
 
・12月26日 
 3人組バンド「NOA」で、新宿ルイードでの初ステージ
 ※ドロップアウターズというデュオも組んでいた
  

        


【1982年】(16-17歳)
 
・6月 
 ピアノを買うため、朝は新聞配達、夜は定食屋で皿洗いのバイトを始める

・8月 
 剣道部高体連秋季大会に出場した際、武道館でのコンサートを夢見て、3階の柱に“尾崎豊”と落書きをする


     


・10月11日 
 CBSソニー送ったデモテープが一次審査に通り、オーディションを受けることになる。

 会場だった信濃町のソニースタジオに、ジーパンにしわくちゃのシャツ、裸足にサンダルという格好で現れた尾崎。

 『ダンスホール』『もうお前しか見えない』の2曲を披露し、その人並み外れた歌唱力と表現力で最優秀アーチストに選ばれ、デビューが決定した。





・12月 
 市ヶ谷にあったCBSソニーのビルで、ディレクターの須藤晃氏と初対面。

 尾崎は約束の時間に1時間以上遅刻し、待ちくたびれて帰ろうとした須藤氏と6階のエレベータ前で鉢合わせた。





 青学の制服を着てカバンを脇に抱え、手には根性焼きの跡がたくさんあったと須藤氏は述懐する。

 尾崎は、周囲を警戒するような目でこう尋ねた。「僕は自分の悩みや生活、心の奥にあるものを歌いたい。そんなこと、日本でもできますか」

 同席していたソニー・ミュージックエンタテインメントの松尾修吾社長が 「君がやればいい」と答えると、初めて大きな真っ白い歯を見せたという。


【1983年】(17-18歳)
 
・1月18日~7月上旬
 須藤氏の元に毎週のように通い、詩や曲の添削をしてもらいながら曲作りについて話し合う。
 
・6月4日 
 喫煙が見つかって停学処分となった夜に渋谷で酒を飲み、その帰りに大学生とケンカをして警察も駆けつける騒ぎを起こし、無期停学となる。





・7月30日 
 無期停学で時間が出来たため、六本木ソニースタジオでデビューアルバム「十七歳の地図」のレコーディングが始まる。

 連日深夜まで作品の練り直しを行い、スタジオでのレコーディングも明け方までかかることもあったという。

 健一さんは「まともに学校に通っていたらとてもこなせなかった」と語っている。
 




・10月18日
 「十七歳の地図」レコーディング終了

・11月16日 
 復学許可が出るが、出席日数が足りず留年が決定。出口の見えない停学期間中、毎日書かされる反省日記に「反省の色が見えない」と言われ続け、尾崎は不眠症になっていた。
 
・11月21日 
 5カ月半ぶりに復学



 デビュー


・12月1日 
 シングル『15の夜』、アルバム「十七歳の地図」でメジャーデビュー。


        


 アルバム発売日、尾崎は喜び勇んで近所の西友(現・マルエツ朝霞店)のレコードコーナーで自分のレコードを探したが、初回プレスが僅か1300枚だったため見つからず。

 落胆した尾崎はCBSソニーで電話し、不在だった須藤氏に「朝霞の西友に、僕のレコードがない」という伝言を残している。





・12月中旬
 横浜の西公会堂でライブをしていた「エイプリルバンド」と初顔合わせ。このバンドが尾崎のバックバンド「ハートオブクラクション」となる。


・12月下旬
 四谷のリハーサルスタジオで、エイプリルバンドと初音合わせ


【1984年】(18-19歳)
 
・1月12日
 学校から再び反省日記を書くことを命じられる。その書き方を巡り「あなたは先生の操り人形なのよ」と言われ、不信感を募らせる。
 
・1月25日
 学校に退学届を出す。

 退学することを絹枝さんに伝えた時、「退学するなら私を殺してから行け!」と怒鳴られたが、尾崎の決意は固かった。

 夜、退学記念パーティーが友人宅で開かれ、『街の風景』を涙を流しながら歌う。


  


・2月11日~14日
 ハートオブクラクションと河口湖のリハーサルスタジオで合宿

・2月12日 
 千葉のマザーズでアマチュアバンドの前座として6曲歌う。客は3人しかいなかったという。
 
・3月15日 
 青山学院高等部の卒業式の日、新宿ルイードでデビューライブを開催。
 
 キャパシティ300人の倍近い観客が押し寄せ、ライブ会場に入りきれなかった人達のために外にモニターが設置された。

 尾崎はライブ前日、学校周辺に告知ポスターを貼って歩き、ポスターにマジックでこう書いた。“みんなよくがんばった!卒業おめでとう!”


         


・3月21日 
 シングル『十七歳の地図』リリース
 

        


・5月30日 
 KBSラジオ「ハイヤングKYOTO」リスナー主催ライブ
 
・6月15日 
 6大都市ツアー「LlVE HOUSE APPEARANCE」(~6月28日)
 
・8月4日 
 「アトミック・カフェ」で、2曲目の間奏時に7mの高さのイントレから飛び降り、左足踵を骨折。

 激痛に耐えながら持ち歌の4曲を歌い切り、自衛隊中央病院に搬送され、手術のため入院。全治3ヵ月と診断され、その後の全てのスケジュールがキャンセルとなった。


         


・8月25日 
 シングル『はじまりさえ歌えない』リリース  
 
・12月3日 
 FIRST LIVE CONCERTツアー(~1985年2月7日)
 



 

 “十代の教祖”へ


【1984年】(18-19歳)
 
・1月21日 
 12インチシングル『卒業』リリース (オリコン初登場20位)


         


・2月3日 
 ひとり暮らしを始めるため、自ら運転する車に布団や日用品を詰め込み、神明坂を通って都内のマンションへと引っ越して行った。





 健一さんは仕事中だったため立ち会っておらず、帰宅後に絹枝さんから「豊、今日行ったわよ」と報告を受けたという。

 引っ越した後、最初に作った歌は『坂の下に見えたあの街に』だった。




・3月 
 NYに1カ月滞在
 
・3月21日 
 2ndアルバム「回帰線」がオリコン初登場1位を獲得。以後、“十代の教祖”としてカリスマ的な人気を獲得していく。


       


・5月6日 
 全国39ヵ所、全39公演のTropic of Graduationツアーが開幕 
 
・7月5日 
 単行本「未成年のまんまで」発売
 
・8月25日
 ツアー最終日、尾崎にとって初のスタジアム・コンサートが大阪球場で開催された。

 2万6000人を動員し、アンコールを含め全18曲、時間は3時間を超えていた。尾崎豊、十代最後の夏だった。





・10月21日 
 12インチシングル『Driving All Night』リリース
 
・10月25日 
 尾崎豊初の短編集「誰かのクラクション」が発売され、30万部を売るベストセラーに。

 ヒルトンホテルに缶詰めにさせたが書き下ろせず、尾崎が自身のラジオ番組で読んでいた自作のストーリー原稿を掲載した。

 見城氏は、“読む本”ではなく“感じる本”をテーマにしたという。





・11月1日 
 全国26ヵ所、全27公演のLAST TEENAGE APPEARANCEツアーが開幕
 
・11月14日、15日
 LTAツアーのハイライト「代々木オリンピックプール2days」で3万人を動員。ファンの間で語り継がれる伝説のMCが生まれた。





・11月27日 
 十代最後のコンサートを釧路市民文化会館で行う。
 
・11月28日 
 3rdアルバム「壊れた扉から」リリース。

 最後の曲『Forget-Me-Not』の歌詞が書けず、一度帰宅した尾崎。締め切りの朝に書き上げた歌詞とともにスタジオに戻り、一発録りで録音したという。
 

          



 二十代の尾崎豊


【1986年】(20-21歳)
 
・1月1日 
 ツアー千秋楽の福岡国際センターでのコンサート終了後、音楽活動を無期限休止
 
・1月14日 
 フジテレビ系列で代々木オリンピックプールでのライブを収録した「早すぎる伝説」を放送。
 
 深夜の放送だったにも関わらず、再放送を希望する署名が殺到した。この放送を見て尾崎のファンになった人も多かったという。





・3月26日 
 「早すぎる伝説」、異例の全国ネットでの再放送
 
・5月14日
 単身渡米、ニューヨークへ。

 当初はロンドンに滞在予定だったが、1986年4月末のチェルノブイリ原発事故により、放射能汚染の危険があるため変更になった。




 尾崎は、1986年5月14日から12月23日までNYに滞在。ミッドタウンに1カ月、ダウンタウンに3カ月、アップタウンに4カ月暮らした。

 滞在中に尾崎が行方不明になり、心配になった健一さんがニューヨークまで尾崎を探しに行く寸前にまでなったこともあったとか。




 尾崎は「NYで精神的にも金銭的にもすっからかんになってしまった」と語っている。

 繁美さんによると、NYでから帰ってきた尾崎は極端に卑屈になり、自分の殻に閉じこもる、猜疑心の強い人間に変わってしまったという。





・7月 
 フィルムコンサートOZAKI TEENAGE FILM 625DAYS「もっともっと速く!」が全国100カ所で上映され、20万人を動員。


        


・7月21日 
 1stビデオ「8 pieces of story」発売
 
・8月21日 
 単行本「失くした1/2」発売





・12月23日 
 NYから帰国



 マザー&チルドレン時代


【1987年】(21-22歳)
 
・2月10日 
 尾崎豊の所属事務所(プロダクション)の「マザー・エンタープライズ」が設立したレコード会社「MOTHER&CHILDREN」に移籍。

 資本金5000万円、社員3人だけの小さな会社で、所属アーチストはハウンド・ドッグ、レッド・ウォリアーズ、ストリート・スライダーズ、尾崎豊などの6組。
 



 
 レコードは原盤会社といわれるプロダクションが音源を制作し、レコード会社が宣伝して販売している。
 
 レコード会社からプロダクションに原盤印税が支払われるが、3000円のCDで300円ほど。
 
 マザーは「物を作り出す努力をしているプロダクションにも、もっと利潤が配分されるべきだ」として、CBSソニーを相手取って裁判を起こす。
 




 そして、新たに設立したレコード会社に尾崎を引き入れようと説得を始めた。

 尾崎に送られてきた手紙には、アーチスト本位のレコード会社を作る必要度がいかに高いかについて書かれていたという。

 また、レコードの利益に対するレコード会社、プロダクション、アーチストの取り分の割合も細かく記されていたため、尾崎は自分が“商品”であることを思い知らされた。





 「全ては金なんだ。だとしたら、自分が叫んできた愛や夢、自由とは一体なんだったのか」 尾崎が苦悩し、葛藤したことは想像に難くない。

 結局、尾崎が数多く抱えるアーティストの一人だったCBSソニーに対して、尾崎が自社の稼ぎ頭のアーティストだったことが熱意と対応の差になり、両親と尾崎はマザーを選択した。
 




 尾崎は、当時についてこう語っている。

 「NYから帰ってきて、答えが出ないまま仕事になってしまって、僕のスタンスの中では最悪の状態だった。

 ただ、つまらない話で、仕事の状況が自分を置いて勝手に変わってしまった。

 せっかく自分がいいスタンスに立ってやろうと思っていたことが全部できなくなった。それが一番辛かった」


・7月1日 
 TREES LINING A STREETツアーが開幕
 
・8月3日 
 二度目の大阪球場コンサートを開催





・8月6日 
 “平和がいいに決まってる!”を合言葉に開催されたチャリティフェス「広島平和コンサート」に参加。



 

・8月22日 
 熊本県野外劇場アスペクタの杮落しとして行われ、7万2千人を動員したフェス「BEAT CHILD」に参加。




 18時の開演後、2組目のアーチストの演奏中に雨が降り始め、11組目の尾崎がステージに登場した頃に雨脚がピークとなった。

 会場一帯に大雨警報が出され、71.5mmという記録的豪雨となり、客席では寒さのあまり失神する者が続出した。

 
・8月29日 
 この年にオープンした有明コロシアムで2daysのコンサートを行い、2万人を動員した。




・9月28日 
 開演前の新潟県民会館の楽屋で倒れ、ツアー中断
 
・10月1日 
 12インチシングル『核 (CORE)』リリース


       


・10月21日 
 ライブアルバム「LAST TEENAGE APPEARANCE」リリース
 
・12月22日 
 朝9時、戸塚警察署の署員が朝霞の生家を訪れ、自室にいた尾崎をその場で覚醒剤取締法違反で逮捕。

 尾崎が使ったトイレに、使用済みの覚せい剤の袋が浮かんでいることを発見した康さんが健一さんに報告したのがきっかけだった。

 
 


 健一さんは朝一番でその袋を持って、戸塚署に通報しに行ったという。

 尾崎は、翌年正月明けに起訴されるまでここの留置所で拘留されており、繁美夫人は何度も面会に訪れたという。
 

【1988年】(22-23歳)

・1月8日
 夕方の報道番組で、尾崎豊の逮捕が一斉に報道された。全国紙の社会面に息子の逮捕の記事が載っているのを見た絹枝さんは、嗚咽したという。
 
・1月11日 
 覚醒剤取締法違反で起訴。尾崎は保釈申請を拒否し、拘置所で過ごすことを自ら選択した。
 
・2月22日 
 東京地裁で懲役1年6カ月、執行猶予3年の判決を受ける。

 判決直後、尾崎を一目見ようと約1000人の女性ファンが地裁正面玄関になだれ込み、一時パニック状態になったという。





 釈放となった尾崎を乗せたバスは、午後1時に東京拘置所の正門をくぐった。

 正門前の土手には500人以上のファンが集結しており、バスが見えると同時に「ユタカー!」「オザキー!」という絶叫が巻き起こった。

 絶叫は次第に手拍子に変わり、最後には『存在』の大合唱になったという。





 釈放後、尾崎豊のファンクラブ「Mind Map Members」で、尾崎からファンへお詫びのメッセージが出された。





・5月12日 
 繁美さんと入籍
 
・6月21日 
 12インチシングル『太陽の破片』リリース


         


・6月22日 
 フジテレビ「夜のヒットスタジオDELUX」に生出演し、『太陽の破片』を熱唱。これが、尾崎にとって最初で最後のテレビ出演となった。




・9月1日 
 3rdアルバム「街路樹」リリース。当初、1987年4月リリース予定だった。

 レコード会社の移籍により、デビューから二人三脚で曲作りをしていたCBSソニーの須藤晃氏と離別し、レコーディングがうまくいかなくなったという。


       


 「あるところまでは来るんだけど、それ以上進まないというか、どうしていいかわからなくなる」

 「やっぱり、須藤さんと一緒にやりたいんです。お願いします。どうかまた一緒にできるようにしてくれませんか?」
 
 尾崎にそう懇願された時のすがるような眼が、須藤氏の胸の奥深くまで刺したという。


・9月12日 
 東京ドームで「LIVE CORE」復活ライブが開催され、尾崎のコンサート史上最多の5万6000人を動員。

 レコード会社の移籍や度重なるアルバム発売延期、ツアーの中断と逮捕という苦難を乗り越えて、再びファンの前に姿を現した尾崎にファンは熱狂した。





 東京ドームでの復活ライブ終了後、尾崎は所属事務所の社長に辞表を出した。

 「アルバムも出したし、コンサートもやった。十分な置き土産も残したし、もうやることはない。馬車馬のように働かされるのはもうこりごりだ」

 しかし、アルバム「街路樹」をひっさげたツアーを予定していた所属事務所は安易に首を縦には振れない。結局、1989年12月の契約期限が切れるまで係争は続くことになる。






 沈黙期間


【1988年】


・11月
 繁美さんとともに、健一さんの故郷の飛騨高山を訪れる。23歳の誕生日はここで迎えた。

・12月1日 
 写真集「WORKS」発売

 
 


【1989年】(23-24歳)
 
・2月21日 
 東京ドーム公演を収めたライブビデオ「LIVE CORE」リリース
 




・5月27日 
 フィルムコンサート「もっともっと速く!」再上映
 
・7月24日 
 長男・裕哉 (ひろや) 誕生 
 

     

 
【1990年】(24-25歳)

・3月 
 プロダクション「ROAD&SKY」に移籍
 
・4月10日 
 レコード会社「CBSソニー」に再移籍

・7月1日
 角川書店の見城徹氏、月刊カドカワ7月号で巻頭70ページぶち抜きの尾崎豊の総力特集を刊行。


      


 薬物事件で社会的制裁を受け、音楽活動を休止していた尾崎豊の大特集を組むことに、社内の人間は大反対したという。

 しかし、この特集号は雑誌に羽が生えたかの如く飛ぶように売れ、 9万部を刷ってほぼ完売した。


     


・10月21日 
 シングル『LOVE WAY』発売
 
・11月15日 
 前作から約2年ぶりとなる5作目のオリジナル・アルバム「誕生」をリリース。オリコン初登場1位を記録し、完全復活を果たした。


      


・12月1日 
 シングル「黄昏ゆく街で」リリース



 アイソトープ時代


【1990年】

・12月19日 
 独立し、個人事務所「アイソトープ」を設立。

 社長室の壁には、健一さんが書いて事務所にFAXで送った“人間万事塞翁が馬”という言葉が書かれた紙が貼られていた。





【1991年】 (25-26歳)
 
・1月21日 
 シングル「永遠の胸」リリース
 
・2月28日 
 小説「普通の愛」発売
 
・3月 
 尾崎豊公式ファンクラブ「Edge Of Street」スタート。

 尾崎は、「ファンクラブの会報を0℃から始めて、人間の体温である36.5℃になるまでは続ける」と宣言したという。




・3月21日 
 シングル『I LOVE YOU』リリース。JR東海のCMに使用され、約50万枚の売り上げを記録。





・5月20日
  全国37会場、56本に及ぶBIRTHツアーが開幕。
 
 1988年9月12日の東京ドーム公演以来3年ぶりのコンサート、1987年のTREES LINING A STREETツアー以来4年ぶりのツアーとなった。


 


・10月2日 
 BIRTHツアーの追加公演 “THE DAY(約束の日)” として、大阪城ホール2days、名古屋レインボーホール2days、代々木オリンピックプール4daysが行われた。
 
 ツアーファイナルの代々木公演の前に、前回(1985年)の代々木公演からの6年の道のりを振り返った時、いつも傍に繁美さんがいたことに気付いた尾崎。

 一時は離婚寸前まで関係が悪化したが、自分を支えてくれていた繁美さんに申し訳ないことをしたと反省し、繁美さんにこう言ったという。

 「『I LOVE YOU』を今までの償いと、これからの二人のために歌うよ」




 そして、BIRTHツアーファイナルのアンコール1曲目。

 尾崎は、ステージに向かって左側の二階席に座っていた繁美さんを見つめ、優しい微笑みを浮かべながら『I LOVE YOU』を歌った――。


・12月29日 
 「アイソトープ」の経理をしていた母・絹枝さんが急死。

 朝霞駅のホームに向かう途中の階段でうずくまり、朝霞厚生病院に搬送されたが、15時20分に急性心不全で帰らぬ人になった。
  




 翌日に通夜、大晦日の31日に葬儀が行われた。尾崎は、火葬場で煙突の煙を見上げていた時と、告別式の読経の時の二度泣いたという。




 
【1991年】(26歳)
 
・2月29日 
 写真詩集「白紙の散乱」発売
 
・3月28日
 絹枝さんの百ヶ日法要。アルバム「放熱への証」のレコーディング終了。『Mama,say good-bye』のマスターテープを絹枝さんの仏前に供える。

 尾崎はまる3カ月の間、ツアーの準備とレコーディング、ファンクラブ運営、事務所の社長業で時間が全て拘束され、1日も休みが無かったという。

 睡眠もほとんどとれておらず、ストレスから酒量も増え、体はボロボロだった。


         


・3月29日
 絹枝さんの納骨法要。雨の中、尾崎は絹枝さんの遺骨を腕の中でずっと抱いており、納骨後も墓前に立ち尽くしたままだったという。

・3月30日 
 ライブビデオ「TOUR 1991 BIRTH」発売
 
・4月25日 
 民家の軒先で泥酔状態で倒れている所を発見され、帰宅した自宅で意識を失い、12時6分に日本医科大学付属病院にて永眠。(享年26歳)





・4月30日 
 護国寺にて追悼式が行われ、雨が降りしきる中、4万人以上のファンが尾崎豊の死を悼んだ。








・5月10日
 6thアルバム「放熱への証」リリース。初回プレス45万枚に対して100万枚以上の予約が殺到し、即日完売した――。
 

       




 

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