
トキワ荘マンガミュージアム
手塚治虫、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫らが上京して間もない頃に暮らしていた伝説のアパート「トキワ荘」が原寸大で復活。
トキワ荘は老朽化で1982年に解体されましたが、証言や写真、映像に基づいて忠実に復元し、1階は企画展示室とマンガラウンジに。
コロナ禍の影響で、2020年3月22日の開館が7月7日に延期されましたが、2021年9月に来館者が5万人を突破するなど人気を博しています。
現代に蘇ったマンガの聖地
1952年12月から1982年12月にかけて、豊島区椎名町5丁目2253番地に存在した木造モルタルの2階建アパート「トキワ荘」。
1953年初頭の手塚治虫の入居から1961年末の石ノ森章太郎の退居までの8年間で、トキワ荘は“マンガの聖地”になりました。
[まんが道大解剖・P113]
[まんが道(文庫版) / 12巻・P196]
手塚治虫先生は、編集者が締め切りを過ぎた作品の原稿の督促で階段を上ってくる音を聞いて、何度となく窓から飛び降りて逃走したとか(笑)
[愛…しりそめし頃に… / 2巻・P118]
裏口階段
松葉から出前が届けられる時に店員が利用するなど、松葉への近道だったトキワ荘裏口の階段も再現されています。
石ノ森章太郎が高校3年生だった1955年8月の夏休みに初めてトキワ荘を訪れた時は、こちらの裏口の階段から入りました。
[まんが道(文庫版) / 9巻・P137]
[まんが道(文庫版) / 14巻・P219]
当時は高い建物も灯りもスモッグも少なかったため、裏口階段のベランダで、石ノ森氏と赤塚氏は毎夜2時間交代でUFO探しをしていたそうです(笑)
電話BOX
当時、トキワ荘の入り口付近に設置されていて、トキワ荘の漫画家たちが編集部との連絡に使用していた電話BOXも復元されています。
落合電話局風トイレ
電話BOX横の公衆トイレのも、当時、トキワ荘前にあった落合電話局を模した壁と窓のつくりになっています。
[まんが道(文庫版) / 10巻・P267]
[まんが道(文庫版) / 12巻・P213-214]
[愛...しりそめし頃に... / 2巻・P82-83]
[愛...知りそめし頃に... / 6巻・P168]
[藤子不二雄Ⓐ展より]
階段
トキワ荘2階へ通じる階段。右側の下駄箱が2階の住人用で、左側の下駄箱が1階の住人用。
[藤子不二雄Ⓐ展より]
【ギシギシ音】
トキワ荘名物の階段のギシギシ音も再現。部屋の中からも聞こえたので、2階の住人はこの階段の音で来客に気付いていたそうです。
[まんが道(文庫版) / 6巻・P264]
[愛…しりそめし頃に… / 3巻・P88]
[愛…しりそめし頃に… / 3巻・P109]
[愛…しりそめし頃に… / 5巻・P6]
廊下
トキワ荘2階の住人が行き来した廊下。この風景はある意味、日本漫画のレジェンドたちの原風景なのかもしれません。
[藤子不二雄Ⓐ展より]
[愛…しりそめし頃に… / 2巻・P151,152]
[愛…しりそめし頃に… / 3巻・P69]
共同炊事場
トキワ荘2階の住人が洗面、炊事などを行っていた場所。
[藤子不二雄Ⓐ展より]
[まんが道(文庫版) / 10巻・P14-15]
徹夜での原稿書き中に共同炊事場に行くと、よく同じく徹夜で頑張っているトキワ荘メンバーと鉢合わせていました。
[愛…しりそめし頃に… / 3巻・P64]
[愛…しりそめし頃に… / 6巻・P63]
藤子不二雄Ⓐは朝起きたらまず洗面台で顔を洗い、ガスコンロでお湯を沸かし、部屋に戻って朝食を食べるというルーチンワークでした。
[愛…しりそめし頃に… / 12巻・P7]
【炊事場風呂】
夏の深夜、お金がなくて銭湯に行けなかった赤塚不二雄が、水をためて風呂替わりにした流しも忠実に再現されています。
[トキワ荘青春物語 / P10-12]
人前で裸になることに抵抗があり、大勢で一緒に入る銭湯が嫌いだった石ノ森氏は、この後しばしば炊事場風呂を行ったそうです(笑)
[まんが道(文庫版) / 14巻・P265]
[章節・トキワ荘の青春/P77]
14号室
1953年春から1954年9月まで手塚治虫が入居、その後、藤子不二雄の二人が住んだ部屋。
【伝説の始まり】
1952年に上京した手塚氏は四谷の八百屋の二階に下宿していましたが、昼夜を問わぬ編集者の出入りの激しさに八百屋の主人から苦情が入るように。
そこで、雑誌の出版社の紹介で、当時新築だったトキワ荘に1953年春に入居しました。
[まんが道(文庫版) / 6巻・P265]
[まんが道(文庫版) / 7巻・P277]
【手塚氏のアシスタント】
当時、手塚氏にはアシスタントがいなかったため、藤子不二雄氏もよくトキワ荘14号室に手伝いに行ったそうです。
[まんが道(文庫版) / 6巻・P161、P164,P166-167]
【両国から引っ越し】
手塚氏は1954年9月に並木ハウスに引っ越しすることになり、同年6月に上京して両国の親戚の家に下宿していた藤子不二雄氏に声をかけました。
[まんが道(文庫版) / 9巻・P137]
さらに手塚は、二人のために敷金3万円(家賃10カ月分)と愛用の机を二人のために、そのまま置いていってくれました。
[まんが道(文庫版) / 9巻・P246-247]
藤子不二雄Ⓐは後年、「手塚先生がトキワ荘の敷金をそのままにしておいてくれなかったら、僕たちは(お金がなくて)トキワ荘には入れなかった」と語っています。
[まんが道(文庫版) / 9巻・P249]
[まんが道(文庫版) / 9巻・P250]
【二畳から四畳半へ】
藤子不二雄両氏は背中が壁にくっつくほどの狭さの二畳の部屋に住んでいたため、四畳半のトキワ荘の部屋の広さに感激したそうです。
[まんが道(文庫版) / 10巻・P24-26]
[まんが道(文庫版) / 14巻・P252]
22号室
新漫画党の党首・寺田ヒロオが、1953年の大晦日から1957年6月まで住んでいた部屋。(机やタンス等は現在は、お休み処に移動しています)
トキワ荘に住んでいた漫画家たちは、「新漫画党」というグループを結成し、漫画誌に共作などを発表していました。
[まんが道(文庫版) / 14巻・P58]
【新漫画党の宴会場】
新漫画党の宴会はいつもこの部屋で行われ、キャベツ炒めと焼酎をサイダーで割った”チューダー“で盛り上がっていました。
[愛…しりそめし頃に… / 12巻・P132-133]
あまりにも騒ぎすぎて、階下の部屋の住人からほうきの柄でドンドンと天井を突き上げられることが何度もあったといいます(笑)
[まんが道(文庫版) / 14巻・P62,63]
[愛…しりそめし頃に… / 12巻・P7]
寺田ヒロオはメンバーから「テラさん」と呼ばれて慕われ、家賃が払えない時にはお金を貸すなど、公私ともに面倒を見る兄貴分的な存在でした。
石ノ森氏も著書の中で、「優しさと頼もしさと、清々しい初夏の太陽の輝きと臭いを持った兄貴」と称しています。
藤子不二雄Ⓐは、「入居してからテラさんに部屋代を貸してもらえなかったら、きっと途中で(家賃が支払えなくなって)トキワ荘を出てたでしょう」と語っています。
[愛...しりそめし頃に... / 8巻・P177,178]
なお、トキワ荘マンガミュージアムから徒歩数分の所にある「トキワ荘お休み処」の2階に、当時の寺田ヒロオの部屋が再現されています。
15号室
トキワ荘に入居した翌年の1955年に隣の部屋が空き、藤子・F・不二雄が14号室から引っ越して住んだ部屋。
[愛…しりそめし頃に… / 4巻・P110、112]
16号室
赤塚不二夫が住んでいた部屋。
1956年5月にトキワ荘に入居した石ノ森氏の部屋に居候し、同年8月に入居。翌年4月に新潟から母親を呼び寄せ、一緒に住んでいました。
赤塚氏は1960年に紫雲荘の2階に引っ越し、その後は母親が住んでいました。
[トキワ荘青春物語 / P13-14]
【テラさんからの6万円】
トキワ荘入居後も売れず、家賃が支払えなくなり、漫画家を辞めて住み込みのボーイの仕事に就こうとしていた赤塚氏。
しかし、テラさんが6万円(家賃1年8カ月分)もの大金を惜しげもなく貸し与えたことで、漫画家を続けることになりました。
[愛…しりそめし頃に… / 5巻・P122-123]
【ナマちゃんで初連載】
石ノ森氏のアシスタント兼炊事係のような存在だった赤塚氏でしたが、1958年にギャグ漫画「ナマちゃん」の連載が決まったことをきっかけに、売れっ子となりました。
[愛…しりそめし頃に… / 6巻・P68]
[愛…しりそめし頃に… / 10巻・P28、30]
17号室
石ノ森章太郎が住んでいた部屋。高校卒業後に宮城から上京し、1956年5月に入居。1961年末まで暮らしていました。
部屋には座り机、ちゃぶ台、本棚、テレビ、窓側の壁にはステレオがありました。
[章節・トキワ荘の青春/P63]
一日一冊は読むことを日課にし、手当たり次第に乱買乱読本していた石ノ森氏。
その後、本が溜まりに溜まって寝るところがなくなり、本の山を崩して平均的に並べてその上に布団を敷いて寝ていました。
石ノ森氏の部屋には、時々小学校6年の姉妹や、家出少年&少女などがよく弟子入り志望、アシスタント志望で訪れることがあり、悩まされたそうです。
藤子不二雄Ⓐの1959年(25歳)の年越しは、夜中の1時半まで石ノ森氏の部屋でトランプをしていたとか(笑)
[愛…しりそめし頃に… / 10巻・P140、146-147]
18号室
石ノ森章太郎のアシスタントだった山内ジョージが、1960年9月から1962年3月まで住んでいた部屋の様子が再現されています。
山内さんは仕事で徹夜した朝、エデンで石ノ森さんにトーストとコーヒーのモーニングセットをごちそうしてもらうのが日課だったとか。
当時、石ノ森氏はディズニー映画などの35mmフィルムを集めていて、アシスタントの部屋に置いていました。
石ノ森氏の部屋の押し入れに中古の劇場用映写機があり、壁に模造紙を貼ってフィルムを上映していたそうです。
19号室
水野英子が住んでいた部屋が再現されています。
1958年に、石ノ森氏と赤塚氏とU-MIA(うまいや/水野、石森、赤塚の頭文字)というペンネームで「少女クラブ」に合作を発表するために4カ月間入居していました。
右側の壁に貼られているのは、入居時に部屋の中が殺風景だと思った水野氏が描いて貼っていたポスターを本人が再現したもの。
後ろを振り返ると漫画を描く石ノ森さんの背中が見え、彼が掛けるレコードの音楽に耳を傾けながら執筆していたそうです。
[トキワ荘青春物語 / P334]
20号室
鈴木伸一、森安なおや、よこたとくおが住んでいた部屋。
こちらも当時の部屋の中が再現されています。テレビの映像も当時の映像が使われていて、昭和30年代にタイムスリップできます。
[トキワ荘青春物語 / P387-388]
【ラーメン大好き小池さんの看板】
トキワ荘に1955年9月から1956年6月まで住んだ鈴木伸一さん。
[まんが道(文庫版) / 14巻・P375]
藤子不二雄作品に登場する”ラーメン大好き小池さん”のモデルになっていて、南長崎公園に看板が設置されています。
夜のトキワ荘
夜になるとトキワ荘の玄関と各部屋の窓に灯りが灯り、昼間とはまた違った雰囲気になります。
[藤子不二雄Ⓐ展より]
[まんが道(文庫版) / 9巻・P324]
[まんが道(文庫版) / 14巻・P394]
編集後記
“漫画家の梁山泊”と呼ばれていたトキワ荘。
今回、トキワ荘マンガミュージアムを訪れて、レジェンドたちが住んだ2階の各部屋をまわっているうちに、“漫画家の寮”のような印象を受けました。
当時、漫画は”悪書”と呼ばれて「マンガを読むと頭が悪くなる」と言われ、悪書追放運動が起こるなどPTAからもマークされていたそうです。
さらに、携帯電話もパソコンもSNSも無かった時代。
そんな時代環境下で、同じ夢と志を持った仲間が隣の部屋や廊下を挟んだ向かい側に住んでいたというのは、とても心強かったことでしょう。
そして、家賃が払えないと快くお金を貸してくれるテラさんという存在もいて、トキワ荘は精神的にも金銭的にも恵まれた場所だったといえます。
テラさんは面倒見の良い兄貴的存在だったそうで、いわば寮長といったところでしょうか(笑)
藤子不二雄Ⓐは、雑誌の記事で「トキワ荘に入っていなかったら、藤子不二雄は存在しなかったかもしれません」と語っています。
赤塚不二夫もテラさんがお金を貸してくれなければ漫画家を辞めていたし、トキワ荘が無かったら日本のマンガ史は大きく変わっていたでしょう。
1階に飾られている漫画家たちのサインの中で、弘兼憲史さんが「世界に冠たる日本の漫画はここから始まった」と書かれています。
まさしく、日本の漫画文化はここ”トキワ荘“で産声を上げて育っていったんだと思います。
トキワ荘マンガミュージアムは、建物の外観や内装へのこだわりが半端なく、各部屋の天井の木目の模様まで再現されています。
トキワ荘の住人が毎朝、目覚めた時にこの天井を目にしていたかと思うと、ちょっと感慨深い気持ちになります。
なお、1階にはトキワ荘解体の前日に、手塚治虫が”リボンの騎士の主人公と自分の姿“を描いた14号室の天井画が展示されています。
「(14号室に住んでいた時)室内にコンロを持ち込んでご飯を炊いたり、煮たきしたりした。あの時の煙は、天井にしみ込んでいるはず」
天井画を描いた時に手塚先生がそう言っていたように、この天井板にはトキワ荘14号室の歴史が染み込んでいます。
また、8月5日からは、ジオラマ作家・山本高樹氏による精巧に作られたトキワ荘のジオラマも展示されています。
各漫画家の部屋の様子がジオラマで忠実に再現されていて、見応え抜群です。
著作権などの問題でマンガミュージアムでは再現されていない当時の藤子不二雄、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、寺田ヒロオの部屋の中の様子がよくわかります。
入館無料で当時のトキワ荘を追体験できるのは、まさしくプライスレスな体験なので、トキワ荘ゆかりの地巡りがてら訪れてみてはいかがでしょうか――。
(事前予約が必要)
【出典】「豊島区立トキワ荘マンガミュージアム」「河北新報」「トキワ荘青春日記」
「漫画に愛を叫んだ男たち」「章節トキワ荘の青春」「@tokiwaso_mm | Twitter」
「まんが道」「愛…知りそめし頃に…」 「まんが道大解剖」「トキワ荘青春物語」
「Fライフ01」「トキワ荘のヒーローたち-漫画にかけた青春-」