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「尾崎豊 追悼式 / 1992.4.30」

2024年04月30日 | 尾崎豊
 
 
 尾崎豊追悼式


 1992年4月25日に尾崎豊が突然この世を去ってから5日後の4月30日に、文京区にある護国寺で執り行われた追悼式。
 
 その追悼式の様子が描かれた「Say good-by to the sky way」「尾崎豊 夢のかたち」の2冊を参考にして、当日の様子をまとめてみました――。
 
 




 肌寒い朝

 
 1992年4月30日木曜日。
 
 昨日とは打って変わったように肌寒い朝だった。空は重たい雨雲で覆われて、今にも泣き出しそうな子供の顔のように見えた。
 
 深夜に降りだした雨はいったん止んだが、朝になってまた降り出してしまった。まるで真冬に逆戻りしたかのような冷たい風が、暗い扉の隙間から忍び寄ってくる。
 
 黒い喪服姿の女性や、普段着姿の男性グループ、白い花束を抱えたカップルは誰も皆、無口にうつむいていた。
 
 自分ではわからない何かの力に背中を押されながら歩いているようにも見える。
 
 営団地下鉄・有楽町線の護国寺駅へ向かう電車の中で、停車の度に追悼式に参列すると思われる人々が続々と乗り込んでくる。
 
 「こちら側の出口は通れません!あちら側へお回り下さい!」
 
 「護国寺へ行かれる方は、もう一つ手前の駅で下車し直して下さい!尾崎豊さんの葬儀の参列者の列の最後尾は、東池袋と江戸川橋のどちらの駅にもあります!」
 
 他の喪服姿の人達と並び、一斉に護国寺の駅で下車すると、駅のホームで駅員がメガフォンを通して叫んでいた。ヒビ割れたような乾いた大声だった。
 
 ホームには、身動きができないほどの人間が溢れ返っていた。
 
 そして、駅員の言う“こちら側”も“あちら側”も、全く見当がつかないほどの人垣に埋もれていて、立ち往生するしかなかった。

 



 4万人を超える参列者


 何度も繰り返される駅員の指示に従って、一旦下車した人達は電車に乗り直したり、反対側の出口へと渦を巻いて移動してゆく。
 
 文句を言う人は一人もいない。先を急ごうと人波を押しのける人もいない。
 
 黙々と下を向いて歩く人。不安気な瞳を泳がせて人波についてゆく人。何か重大なイベントに出向くかのように緊張している人。友人や恋人に肩を抱かれて倒れそうになりながら歩く人。
 
 それぞれが自分の気持ちを整理しかねているようにも見えた。
 
 きっと尾崎は、自分の最期がこんな形で騒がれ、掻き分けなければ辿り着けない人波を周りに作られようとは、予想だにしていなかっただろう。
 
 正午からの追悼式のために、平日にも関わらず午前8時には徹夜組200人を含む5000人が詰め掛け、最終的には4万人を超える人々が、たった一人の男のために押し寄せたのだから。
 
 雨は追悼式が始まる正午にはさらに強くなって、全ての世界に叩きつけるように降り続いていたが、ファンの出足は衰えなかった。
 
 傘の行列は、護国寺を起点に、北はサンシャインシティを越える約2.5キロ、南は江戸川橋を越える約1キロに広がり、3.5キロの長さに連なった。
 
 彼は皆、学校を休み、仕事を休み、子供を預け、友人との約束を取り消し、確かな自分の意志でやって来たのである。
 
 
 
『卒業』の大合唱



 
 
 
 正午から、護国寺本堂前の祭壇で追悼式が始まった。
 
 アストロビジョンに映し出された尾崎豊の遺影に吸い寄せられるようにして、それぞれの人々がうごめいていた。
 
 「間隔を開けずに詰めて並んで下さい!傘はささないで!」
 
 そんな警備員の指示に従い、傘をささずににずぶ濡れになって立ち尽くすファン達の唇は、何かを決意したように蒼ざめて震えていた。
 
 本堂前に設置された巨大なアストロビジョンに彼のライブ映像が映し出されており、映像の中の尾崎は、今にもギターを持って飛び出してきそうだった。
 
 ファン達は皆、その映像をじっと見つめながら次々に献花を続けた。
 
 だが、カーネーションを献花したファン達はなかなかその場を立ち去ろうとしない。何かに縛りつけられたように動けないでいる。
 
 そのために人の流れは止まり、後に続く献花の列は遅々として進まない。それでもファンの間から不満の声は出なかった。
 
 激しい雨に打たれて、ある者は献花の順番を待ち続け、ある者は足りないカーネーションを次に待っているファンに渡してあげようとしている。
 
 
 
 
 
 
 そして、しばらくすると誰かが『卒業』を歌い始め、誰もタクトをふらないのに4万人のファンが大きくはないがためらわず、はっきりと歌い、それがいつしか美しい大合唱になった。
 
 この追悼式をじっと見つめていた葬儀社のある関係者はこう咳いた。
 
 「こんなことは初めてです。大きな葬儀は何度も経験しましたが、ここまで大きな葬儀も初めてならば、たばこの吸い殻ひとつ落ちていない整然とした葬儀も初めてです。私は感激しました」
 
 彼の年齢は60歳を過ぎていたが、最後にこう言った。

 「これを機に、尾崎さんのCDを聴いてみることにします。これだけ多くの人たちを厳粛にさせる尾崎さんの歌をどうしても聴いてみたい」
 
 
 
 通夜


 記帳場所は四つに分けられ、それぞれ「遺族」「友人」「音楽関係者」「マスコミ関係者」と大きな文字で書かれていた。
 
 控え室へ曲がる通路の右手正面に、彼の遺影が高々と掲げられ、両脇に愛用のギターを立てかけた棺が置かれている広い部屋が目に入った。
 
 入口の扉の周りには、関係者や友人からの花輪が飾られていた。
 
 パイプ椅子がたくさん並べられた関係者専用の控え室には、彼の遺影を常時映し出しているモニターテレビが前後に二つ置かれ、静かな音楽が流れていた。
 
 葬儀が始まる旨のアナウンスが入った。
 
 正午を少し回っていた。まわりを見渡すと、ぎっしりと関係者がつまった控え室のあちらこちらからすすり泣きが漏れていた。
 
 マイクを通した合図で一斉に頭を垂れ、沈黙を保つ。
 
 
 
 
 一分間の黙祷が済むと、「故人の思い出深い曲をお聴き頂きたいと思います」と、彼の生前のヒット曲『I LOVE YOU』が静かに流れ出した。
 
 この曲は、テレビドラマ「北の国から」で挿入歌としても、またストーリーの中にも盛り込まれて使用されている。
 
 1991年春にはJRのコマーシャルソングとしても使用され、リバイバルヒットを果たしている。
 
 すすり泣きが漏れる中、初めに葬儀委員長であるソニー・ミュージックエンタテインメントの松尾修吾社長の挨拶があった。
 
 
 
 風になった少年


 松尾氏は『風になった少年』と題し、弔辞を読み上げた。
 
 「風になった少年。紺色の制服姿の君と初めて会った時は、まだ幼さの残る礼儀正しく、無口な少年だった。まだ高校生だった。
 
 うつむきかげんではにかんだ様子で、周囲を警戒するような目で我々を見ていた。
 
 君が「僕は自分の悩みや生活、心の奥にあるものを歌いたい。そんなこと、日本でもできますか」と尋ねたので、「君がやればいい」と答えたら、初めて大きな真っ白い歯を見せてくれました。
 
 君は与えられたフィールドを全力で走った。そのフィールドは君にとって狭すぎたのかもしれない。
 
 君は無謀と思えるほどの全速力で十年間を駆け抜け、疲れも知らずに飛び続けて、とうとう風になってしまった気がする。(中略)
 
 君が遺した6枚のアルバム、音楽的業績は不滅のバイブルになることは必至だろう。君は“人は愛に脆く”と歌った。
 
 今、われわれは脆き、心から冥福を祈るだけである。さようなら」
 
 
 
 吉岡さんの挨拶


 次に、親友でもある俳優の吉岡秀隆さんの挨拶が続く。吉岡さんは途切れがちなか細い声で、まるで目の前に尾崎がいるかのように語りかけ、つぶやいた。
 
 「尾崎さん・・・。尾崎さんに書く最初の手紙がまさか弔辞になるなんて、思ってもみませんでした。今、アイソトープの尾崎さんの部屋でこれを書いています。
 
 尾崎さんのいないあの部屋にも、僕ひとり押しつぶすには充分な思い出がつまっていて、それでなくともままならない体が、いよいよどうにもなりません。
 
 尾崎さんがいなくなって、人間の涙はとどまることを知らないことを知りました。自分がこんなにもちっぽけで無力なことを知りました。
 
 人は哀しみに出会ったとき、眠れない日々が続くということも知りました。尾崎さんは、どれほど眠れない夜を過ごし、涙を流したことでしょう。
 
 聴く人の人生そのものを変えてしまうほどの歌を自らの命を削るように伝えようとする尾崎さんは、僕に表現するということの本当の意味を教えてくれました。
 
 何かを恐れ、前へ進めない時、僕の背中を押して「大丈夫、大丈夫」といって笑いかけてくれました。
 
 尾崎さんは「人が評価されるのは、その人が死んだ時なんだろうな」と言っていましたね。転んでも転んでも走り、立ち上がっていく尾崎さんが好きでした。
 
 自分の一番生きたい時間を自分らしく生きた尾崎さんを尊敬しています。
 
 誰が何と言おうと、僕の知っている尾崎さんは、誰からも傷つけられることなく僕の中に生き続けています。
 
 尾崎さんは人一倍寂しがり屋だったから、これからはみんなの一人一人の胸の中で静かにゆっくりと休むことでしょう。
 
 尾崎伝説はまだ始まったばかりです。最後の最後まで言えなかった言葉を贈ります。尾崎さん、ゆっくり休んで下さい・・・」
 
 吉岡さんの飾らない言葉に、一層すすり泣きが激しくなった。吉岡さんも言葉を詰まらせ、涙を堪えていた。
 
 
 
 茫然自失のHeart Of Klaxon


 遺族、友人などの献花が済むと、10分間の休憩が入った。
 
 控え室に座りきれない人達が廊下にまで溢れた。尾崎の元バックバンド「ハートオブクラクション」のメンバーもいた。
 
 リーダーのR氏は相当ショックを受けているようで、目を真っ赤に腫らしながら茫然自失の表情だった。
 
 「祈ったよ。おまえがオレを憎んでいても、愛していなくても、たとえ一方的な愛だとしても、オレはおまえを愛してる。だからもう、何も考えないで静かに安心して安らかに眠れって。そう祈ったから・・・」
 
 メンバーのZ氏はうつむいた。耳たぶが朱色に染まっていた。
 
 
 
 
 
 
 「アイツは、俺たちがどれほどアイツのことを愛してたかなんてちっともわかっちゃいなかった。
 
 何年かかってでもいい。俺たちが愛していることをアイツに伝えてやりたかったよ。誤解なんだ。俺たちはアイツを裏切ったりなんかしてない。
 
 本当なんだ。それを伝えたかった。
 
 だけど、もうアイツは死んじまった。もう・・・。だから言ってやったんだよ。おまえを愛してるって。天国のアイツにさぁ」
 
 
 
 告別式


 彼の曲が流れる中、関係者が次々と献花をしてゆく。
 
 『太陽の破片』、『ふたつの心』、『優しい陽射し』、『太陽の瞳』、『MARRIAGE』、『ダンスホール』などが繰り返し流される。
 
 兄の康さんは、元裁判所書記官らしく、聡明なはっきりとした口調で最後に謝辞を述べた。
 
 「デビュー前は、深夜に宇宙、宗教、学校のことなど、とりとめのないことをよく話した。事の本質を突き止めようとする面や、内面を真っ直ぐ凝視しようとするところがあった。(中略)
 
 26歳という死はあまりにも早かったが、彼はその生涯を全力疾走で駆け抜け、天寿を全うしたと思う。豊の見つめたものは、全て作品の中にあります。
 
 彼の伝えたかったことを、それぞれの胸で解釈して下さい」
 
 尾崎豊の枢には、彼の全てのCD、愛用のギター、ジーパン、シャツ、サングラスなどが納められ、大好きだったシャンパンがかけられた。
 
 午後2時半。列席者全員の献花が終わると、出棺の時間になった。
 
 霊枢車に枢が納められると、「出棺です」という大きな声とともに、鈍い鐘の音が突然、ガンガンガンガーンと大きく響き渡った。
 
 その時、見守っていた列席者の間から悲鳴のような大きな泣き声が上がり、別れを惜しむファンが一斉に霊柩車に押し寄せた。
 
 
 
 失くした1/2


 当日、警備に当たった大塚署の調べでは、参列者の数は約3万5000人。
 
 だが、護国寺の入り口が封鎖されて追悼式に参列できず、路上で立ちつくし、泣き叫び、崩れ落ちた若者達の数を加えれば、その数は4万人以上になった。
 
 多くの「尾崎豊を知らない人たち」は、この大勢の若者たちの追悼に驚愕していた。
 
 尾崎豊の歌を通して何かを得たものたちは、例え彼の肉体が滅びようとも、それぞれの胸の中で“尾崎豊”という名前に込められている情熱やメッセージを絶やさないことだろう。
 
 そして、1992年4月30日午後4時。
 
 多くの人々の胸に刻まれ続けたアーチスト・尾崎豊の肉体は、東京都新宿区にある落合斎場で荼毘に付され、永遠に帰らぬ人となった。
 
 彼が存在した1/2にあたる精神のみを遺して――。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 編集後記

 
 この作品は、尾崎豊の追悼式に参列したファンが、当日の様子と、その後を記録したノンフィクション・ドキュメンタリーです。
 
 この作品には追悼式当日、テレビや雑誌では紹介されなかった尾崎ファン同士による心温まるエピソードやファンの感情の変遷が事細かに記されています。
 
 追悼式会場となっていた護国寺周辺では、降り続く雨に打たれながら、深い哀しみと喪失感に打ちひしがれているファンが大勢いました。

 その姿を見て、「何とかしなければ」という使命感から、ファンによる追悼コンサートを企画し、実現へ向けて奔走した尾崎ファンの熱い闘いの歴史がありました。


【風化しない理由】

 尾崎豊の存在や、残した楽曲が没後30年の月日が流れても風化しない理由とは一体何なのか。

 時代に迎合しない普遍的な楽曲、魂の叫びの様な圧倒的なステージング、モデルの様な容姿、聴く人の心を打つ歌声、そして、どんな困難にも負けず夢を捨てない生き様。

 特に、尾崎のステージングに込められた尋常ではない喜怒哀楽の振れ幅と、彼の“生”をそのままぶつけるような歌唱スタイルは不世出なものを感じます。

 楽曲、ステージング、容姿、歌声、歌唱力、生き様が一線を画していて、唯一無二のオリジナリティを獲得している。
 
 そこに、彼の存在や楽曲を後世へ伝え続けようとするファンの熱い想いと志ある行動が掛け合わされて、永遠に色褪せない光り輝く存在であり続けているのかもしれません――。
 
 
 
 
 

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