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尾崎豊ゆかりの地 / 練馬

2019年04月25日 | 尾崎豊



 尾崎豊の原風景



 尾崎豊が幼少期を過ごした練馬。今年はデビュー35周年ということで、練馬にある「尾崎豊ゆかりの場所」を紹介します――。





 都営住宅跡


 
【尾崎豊の生家跡】

 尾崎豊が幼少期を過ごした春日町第二都営住宅があった場所。(詳細はこちら)

 
 
 
 現在は、都営住宅の建物は解体され更地になっていますが、驚くことに当時の区画がそのまま現存しています。





 なお、尾崎が暮らしていた家があったのはこちらで、六畳二間の平屋でした。
 
 
    
 

 尾崎が生まれる2年前(1963年)の生家周辺の空撮写真を見ると、周りが田んぼだらけののどかな場所だったことがわかります。



[出典 goo地図(古地図)


 健一さんは、日曜大工で住宅の東側に隣接した風呂場も造り、南側には知り合いの大工に頼んで、本格的な四畳半の子供部屋の増築も行いました。
 
 また、庭にコンクリートで四角い小さな池も作ったり、巻き藁を立ててムシロを敷いて、尾崎と兄の康さんに躰道の稽古をつけたりしていました。


 


【ボロ公園】

 都営第二住宅跡の右側に柵に囲まれた区画があります。


 

 ここには当時、ブランコやジャングルジムなどがあり、子供たちの間で“ボロ公園”と呼ばれて親しまれていました。

 幼少時代の尾崎はボロ公園で遊びながら、共働きだった両親の帰りを待っていました。

 
 
 兄の尾崎康さんの著書『弟尾崎豊の愛と死と』に掲載されているボロ公園の前で撮影されたこちらの写真は、尾崎が死の間際に眺めていました。
 
 
    
 
 
 『尾崎豊 THE MEMORIAL』封入のアルバムには、柵の前で父親と一緒に映っている少年時代の尾崎豊の写真も掲載されています。
 
 
   
 

 『尾崎豊 永遠の愛と孤独』や『尾崎豊「誕生」逝ってしまった私の息子に』にも、ボロ公園の柵の前で写真に収まる尾崎の写真が掲載されています。





 ちなみに、尾崎は1986年にNYに長期滞在していた頃、日本に一時帰国して繁美さんと豊島園に遊びに行った帰りに、ここに立ち寄っています。

 「すげぇ懐かしいなぁ~」と瞳をキラキラさせながら、自分が幼少時代どんな子供だったかを繁美さんに話したそうです。
 

 
 


 
【ネズモチの木】

 ボロ公園から夏休みの土曜日の夜に打ち上げるとしまえんの花火がよく見えたため、花火の音が聞こえてくると都営住宅の住人はこの公園に集まりました。


     
 
 
 尾崎を始めとした子供たちは、ボロ公園に生えているネズモチの幹によじ登って、花火が少しでもよく見える場所に陣取っていたそうです。

 しかし、現在は残念ながら伐採されてしまっており、切り株になっています。
 
 
     


 ※都営大江戸線「練馬春日町駅」より徒歩10分



 田柄 (たがら) 保育園


 
 1967年8月、尾崎が1歳の時から預けられ、1968年5月に自宅近くに新設された春日町第二保育園に転園するまで通っていた保育園。

 絹枝さんがバイクで送ったり、健一さんが仕事の行き帰りのついでに送り迎えしていたそうです。
 
 
 
 
 アッコちゃんという女の子と仲が良く、引越しでいなくなってしまったその日は、一日中メソメソしていたとか。
 
 
 
 


 

 春日町第二保育園


 
 1968年5月、尾崎豊が2歳の時、田柄保育園から生家の近くに新設された保育園に転園しました。
 
 
 
 
 新しい保育園にもすぐ慣れて、元気いっぱいに通っていたそう。「豊ちゃん豊ちゃん」と園内で人気者だったとか。
 
 
 
 
 また、保育園の遠足や休日に、家族でとしまえんをたびたび訪れていました。
 
 
 
 
 


 田柄第二小学校


 
 1972年4月に田柄第二小学校に入学。
 
 
 
 
 兄と一緒に通えるということで尾崎はとても喜び、4月中旬にはグランドハイツの原っぱで練習して自転車にも乗れるようになりました。
 
 
 
 
 小5の1学期までをここで学んだ尾崎は、朝霞への引越しに伴って、二学期から朝霞第一小学校に転校しました。
 
 
 
 
 


 官舎公園


 
 田柄防衛省宿舎の傍にある公園で、中学時代の尾崎とその仲間の溜まり場になっていたそうです。
 
 
 
 
 
 


 練馬東中学校


 
 尾崎が朝霞から越境通学で通っていた中学校で、生家から徒歩5分ほどの所にあります。
 
 
 
 
 尾崎たちは、第二体育館の右隣によく溜まっていたとのこと。中3の時、仲間と家出したことが『15の夜』のモチーフになりました。
 
 
 
 
 尾崎はフォークソングクラブに入り、中1の時に文化祭で体育館で全校生徒の前で弾き語りを披露したところ大ウケして、一躍学校の人気者になったそうです。
 
 
 
 
 


 春日町バッティングセンター


 
 中学時代の尾崎がよく通っていたバッティングセンター。練馬東中学の真向かいにあります。
 
 
 
 
 
 


 豊玉公園(タコ公園)


 
 練馬駅近くの公園で、巨大なタコのすべり台があることから「タコ公園」と呼ばれており、尾崎も子供時代に父親とよく遊びにきていました。
 
 
 
 
 尾崎はここで、河内師範に躰道(たいどう)の稽古をつけてもらっていた。のちに谷原町の練馬体育館で稽古が行われ、亡くなる1年くらい前まで稽古を受けていたそうです。
 
 
 
 
 


 向山 (こうやま) 公園


 
 『15の夜』の舞台になった公園。

 尾崎と保育園、小中学校と同じだった菊池剛氏が中学校の頭髪検査でひっかかり、髪の毛をムチャクチャに切られて家出。

 菊池を探しに学校の仲間たちが10人くらい集まったため、結果的に集団家出となったようです。
 
 
 
 
 保育園時代は、父親と公園まで遊びにきて、仮面ライダーごっこで高いところから跳んで遊んでいたそうです。
 
 
 
 
 


 光が丘公園(旧グラントハイツ)


 
 「グラントハイツ」という名称の米軍キャンプだった場所。

 日本陸軍が帝都防空を目的に建設された成増飛行場が戦後、GHQによって接収され、アメリカ陸軍の家族宿舎となりました。





 1973年10月の日本への返還後、しばらく広大な空き地になっており、尾崎はここで父親の健一さんと一緒に自転車の練習をしていました。


  
 [出典 地理院地図 (1975年) ]


 中学の頃に家出をした尾崎たちは、この公園内にあった車のスクラップの中で寝ていたところ、見回りに来た先生たちに見つかって連れ戻されたそうです。


 
 
 


 

 下赤塚駅


 
 尾崎豊が中学時代、朝霞から練馬東中学に越境通学していた時に使っていた駅。学校をサボって、下赤塚駅のベンチによく座っていたそうです。
 
 
 
 



 石神井(しゃくじい)公園


 
 尾崎は幼少期によく家族で石神井池に遊びにきています。ボートに乗るのが好きだったそうです。
 
 
 
 
 また、中2の時には、石神井公園内の野外ステージで開催されたカンボジア難民救済コンサートで歌を披露しています。
 
 
 
 
 数日前に池袋でチャリティコンサートに飛び入り参加した際、主催者に気に入られて石神井公園での本格出演となったとのこと。
 
 
 
 
 なお、石神井公園の野外ステージはリニューアルされています。
 
 
 
 
 この写真は、高校時代に学校のステンドグラスを割って停学処分となった時に気分転換にと父親に連れられて訪れた時のもの。
 
 
 
 
 ※西武池袋線「石神井公園駅」より徒歩6分


 
 

 編集後記


 
 練馬の尾崎ゆかりの地巡りは、練馬春日町駅を起点にするといいかもしれません。

 練馬春日町駅から生家跡まで徒歩10分ほどで行けますし、生家跡から尾崎の母校である練馬東中学校まで徒歩5分ほど、光ヶ丘公園までは徒歩30分くらい。

 ちょっと疲れますが、尾崎の生まれ故郷であり原風景だった練馬の生活圏の距離感を体で感じることができるのでおススメです。
 
 ※石神井公園はちょっと離れた場所にあるので、電車で訪れた方が無難かも
 
 
 
 
      「尾崎豊 THE MEMORIAL
 

 

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