円谷英二邸跡と祖師谷
小田急線「祖師ヶ谷大蔵駅」から程近い場所に住んでいた“特撮の神様”円谷英二。
ご住居は1999年12月に解体されて現在は駐車場になっており、隣にあった旧円谷一邸も解体され、一般住宅になっています。
本日が円谷英二氏の123回目の誕生日ということで、祖師谷時代の英二氏の歴史と、のちに円谷作品を支える人材との出会いを振り返ります――。
※本記事は「円谷英二と円谷プロダクション」から祖師谷時代の一部を抽出、追記したものです
祖師谷時代の幕開け
1937(昭和12)年8月26日、写真化学研究所、P.C.L.映画製作所、東宝映画配給の3社と、英二氏が勤めていたJ.O.スタヂオ(京都)が合併し、東宝映画が誕生した。
これに伴い、写真化学研究所とP.C.L.映画製作所が東宝東京撮影所、J.O.スタヂオが東宝京都撮影所に改称された。
また、英二氏が開発したスクリーン・プロセス装置を気に入った東宝の取締役・森岩雄氏の要望で、英二氏は同装置とともに同年11月27日付けで東宝東京撮影所に転属。
その後、同年12月27日に都内の借り住まいから、東宝が用意した祖師谷の2階建ての一戸建て住宅に引っ越した。
1937年12月27日のこの日から、33年に及ぶ「円谷英二の祖師谷時代」が始まった――。
不遇の日々
戦意高揚映画の制作
1937(昭和12)年7月の日華事変勃発から日本は戦争への道を歩みだし、東宝が戦意高揚映画の制作に着手したことで、英二氏を取り巻く状況は一変する。
海軍の依頼によって、1940(昭和15)年に英二氏として初めての戦争映画『海軍爆撃隊』を撮影し、この時初めてタイトルに英二氏の名が「特殊技術撮影」と紹介された。
同年9月公開の『燃ゆる大空』では、日本カメラマン協会特殊技術賞を受賞。
翌年12月には太平洋戦争が勃発し、開戦翌年5月には航空兵を募るための陸軍航空本部の御用映画『南海の花束』を公開。
英二氏の特殊撮影は、国民の戦意高揚を目的とした戦争映画というフィールドで急速に需要を増していった。
英二氏一人で始めた特殊技術課も、1942年には特殊撮影係、造形美術係、合成作画係、天然色係に事務係を加えた5係を擁する総員34名にもなっていた。
【ハワイ・マレー沖海戦】
1942年5月、東宝は海軍省から開戦1周年記念作品『ハワイ・マレー沖海戦』制作の依頼を受けた。
しかし、貸してくれたのは洋書の片隅にあった2cm角の地図だけだったため、後は新聞写真を頼りに真珠湾のセットを作ることになった。
英二氏はまず、琵琶湖と浜名湖でのテストで撮影に最適な魚雷の水柱の高さを3mと決めて、その大きさから軍艦の寸法を定めた。
そして、新聞の写真に写っていた軍艦上の人物の身長から真珠湾の建築物の大きさを割り出し、周囲の山を含めた地形の大きさに広げていった。
最終的には第二撮影所のオープン敷地いっぱいに真珠湾を作り上げ、1800坪にも及ぶ大ミニチュアセットの壮観以上の出来栄えに見物客が後を絶たなかった。
セットを見学した陸軍参謀が陸地測量部へ赴任した時、部下にこう言ったという。
「お前たちの作っている真珠湾の地図はなっていない。東宝へ行ってみろ、素人が見事なものを模型に作っている」
本作は日本映画史上空前の大ヒットとなり、国民必見とまで謳われた。
さらに、本作の成功は日本映画界に特撮の重要性を認識させ、英二氏の業績は広く日本の映画界に認められ、“特技の円谷”としての名声を確立した。
召集令状と終戦
1945年8月1日、東宝最後の国策映画となる『アメリカようそろ』の特技撮影を担当していた英二氏の元に召集令状が届いた。
『ハワイ・マレー沖海戦』以来、英二氏の技術を高く買っていた海軍省の計らいで進められていた召集免除の手続きが期日までに間に合わなかったためだった。
軍関係の映画を製作中という理由で8月8日の入隊期日を一週間伸ばし、8月14日に駐屯地の仙台市に向け出発し、翌日到着したが終戦となった。
しかし、動員解除の命令ががなかなか出ず、食事の度に兵舎である国民学校から烹炊所まで砲車に食器や食缶を乗せて通わなければならなかった。
その時、町の人々から「信頼を裏切られた軍人への強烈な冷たい目」が英二氏たちに向けられた。
それまで自分の純粋な映画技術に向けられていた人々からの称賛が、一夜にして戦争協力者への罵倒に変わってしまったことに対する世の人々への不信感。
この体験は、後に“永遠に不変なもの”を求めて、英二氏がカトリックに入信する理由となった。
現在残っている『ハワイ・マレー沖海戦』などの国策映画7作品のネガは、撮影所の敷地に埋蔵して焼却やGHQによる廃棄を逃れたものである。
円谷研究所の創設
敗戦直後、東宝はしばし混乱の時期を迎える。
1946年から労働争議によりストライキが敢行された上に、森岩雄を含む経営陣は戦犯として公職追放となって辞職し、映画制作どころではなくなったのである。
ストライキは延々と続き、映画製作ができない状態が続いた。そして1948年3月31日、ついに公職追放の指定を受けた英二氏は東宝を依願退職した。
【特殊映画研究所】
自宅敷地内に平屋のプレハブ小屋を建てて「特殊映画研究所」(名称は諸説あり)を設立し、映画各社の特撮部分の下請けを始めた英二氏。
戦後の混乱した映画業界の中で、英二氏はまた駆け出しに逆戻りしなければならなかった。
また、下請けであるため収益性が低く、新たに始めた事業もうまくいかず、英二氏も弟子たちも英二氏の実家から送られてきた干し柿で飢えをしのいでいた。
【研究所の移設】
1950年10月、公職追放解除になって東宝に復帰した森岩雄によって東宝撮影所内に部屋を貰った英二氏は研究所を移設。
東宝作品全てのタイトル部分を撮影、予告編などの下請けを行った。東宝映画の「東宝マーク」も、この時期に有川氏とともに制作したという。
また、円谷研究所への外注という形で11月公開の『佐々木小次郎』の特殊技術を担当し、東宝に返り咲いた。
【東宝復帰】
英二氏は1952年2月に公職追放解除となり、作品契約としての東宝復帰第1作『港へ来た男』(同年11月公開)で特殊技術を担当した。
また、東宝特撮の黄金時代を築くことになる製作・田中友幸、監督・本多猪四郎、特技・円谷英二の三者が顔を揃えた第一作でもあった。
【東宝作品に専念】
英二氏の特撮技術を取り入れたい映画会社は多く、特に松竹では大船の撮影所に「松竹映画科学総合研究所」を設置し、英二氏を特殊技術部門に常任嘱託として迎え入れた。
しかし、東宝が『太平洋の鷲』の制作を打診してきたため、常任嘱託を辞任し、東宝作品のみに専任することとなった。
戦後初の大作戦記スペクタクルである本作は、東宝に1億円を超える興収をもたらした初めての作品となった。
【ゴジラ】
1954年には、自身が特撮を手掛けた日本初の怪獣特撮映画『ゴジラ』が空前の大ヒットを記録し、一躍名声を高めた。
英二氏はそれまで東宝撮影所まで歩いて通っていたが、ゴジラ公開以降は、黒塗りの車が迎えに来るようになったという。
翌年の『ゴジラの逆襲』では一枚タイトルで”特技監督・円谷英二”とクレジットされるようになり、以後、特技監督としての地位を確立させた。
【円谷特殊技術研究所】
東宝撮影所への移転により閉鎖されていた自宅敷地内の研究所を1956年に再開。名称も「円谷特殊技術研究所」となった。
円谷特技研究所は平屋のプレハブで、正門を入って左側、旧円谷一邸の場所にあった。
英二氏邸が研究所の事務所になっており、玄関を上がると若者でいっぱいで、「ウルトラQが生まれてくるにふさわしいホットな雰囲気だった」という。
所内には、1ヘッドのオプチカルプリンターや線画台、ミッチェル撮影機、コマ撮り用の機械が設置されていた。
東宝の現場ではできないような手間や時間のかかる合成やコマ撮りなどを、研究所の弟子たちに行わせていたという。
『キングコング対ゴジラ』(1962年)の大ダコが人を掴まえるシーンや、ゴジラが飛び上がってキングコングを蹴り飛ばすシーンのコマ撮りもここで行われた。
中野稔氏によると、英二氏の帰宅時に研究所の電気が点いていないと機嫌が悪くなるので、ムビオラにフィルムをかけないで音だけさせていたとか(笑)
仕事をしていれば、帰宅後に和服に着替えて研究所にやってきてニコニコしていたという。
この円谷特技研究所は1963年4月12日に「円谷特技プロダクション」として会社登記され、現在の円谷プロダクションへと発展していくことになる。
円谷特撮レジェンド誕生地
円谷英二邸は、特撮技術者を志す若者たちの駆け込み寺のような存在でもあった。
1948年半ばには、のちに東宝の二代目特技監督となる有川貞昌が、1950年代末から初頭にかけては中野稔、佐川和夫、金城哲夫などが来訪。
東宝撮影所や円谷研究所で働きながら、円谷特撮作品に不可欠な人材として成長していった。
【有川貞昌】
1948年6月、東宝の録音課での仕事が自分に合っていないと感じていた有川貞昌は、新しい仕事の伝手を紹介してもらうために円谷邸を訪ねた。
妻が東宝でスクリプターをしていた関係で英二氏のことを知り、戦時中に観た英二氏撮影の戦争映画についても聞きたいことがあったという。
有川氏は当時のことを「特殊技術とは何か、素人で何の知識もない私に、丁寧に私の質問に答えて下さいました」と話している。
また、自分が飛行機乗りだったことを告げると、英二氏もかつては飛行機学校にいたこともあり、しばし飛行機談義に花が咲いた。
その後、有川氏は記録映画だと思っていた『電撃隊出動』が模型とミニチュアによって撮影されていたことに驚き、特殊撮影の魅力に引き込まれた。
[怪獣島の決戦 ゴジラの息子より]
円谷の言葉には、大きな魅力と力があった。しかし、この場で即座に東宝を辞めるというわけにはいかない。
「すみません。少し考える時間をください」
と言って席を立った有川。門を開けて帰ろうとすると、「あれっ、……」円谷の家の門が、なかなか開かない。
「門が私に『帰るな』と言っているのか……」
くるっと向きを変えた有川は、また玄関まで戻って、「円谷さん」と大きな声で言った。(中略)
「今、考えが決まりました。お世話になります。東宝はすぐに辞めますから」
[ウルトラQ第19話「2020年への挑戦」より]
有川氏は、翌日に東宝撮影所に辞表を出して、即日研究所に入所したという。
その後、数々の映画、テレビの特撮作品を手がけた有川氏は、東宝の二代目特技監督になるなど昭和期における特殊撮影を代表する一人となった。
しかし、1971年に「オヤジ(英二氏の敬称)がいなくなっちゃったんじゃ、もう東宝にいる意味が無い」と東宝を退社し、系列会社の国際放映に移籍。
晩年は映像関係の専門学校の講師として特撮技術の指導に当たっていたが、2005年9月22日に死去。享年80歳だった。
「研究所時代のあのハングリー精神は、私にとっては不滅です」という言葉の通り、有川氏にとって円谷邸庭のプレハブ小屋が自身の原点だったのです――。
【中野稔】
日大芸術学部に入学した中野稔氏は、将来は映像関係の技術職に就きたいと考えていた。
「夢があって、なおかつ将来の職業として貫くなら、憧れていた円谷英二氏のところに弟子入りするのが一番だ」
そう思った中野氏は、1958年12月のある土曜日、円谷邸をアポ無しで訪問した。
すると、色の浅黒いがっしりした人が出てきて「オヤジ、明日ならいると思うよ」と教えてくれた。これが英二氏の長男の円谷一氏だった。
翌日の日曜日、再訪すると英二氏は在宅しており、家に上がらせてもらった中野氏。
「緊張して一気に話す、特撮に対する僕の思いをやさしい眼差しで聞いてくれたオヤジは、映画界のことを何一つ知らない僕に、撮影所の見学を勧めてくれました」
東宝撮影所では、創立25周年記念映画『日本誕生』の特撮がクランクインしたところだった。
翌年には撮影所でのアルバイトを許可され、『孫悟空』(1959年)が中野氏にとって初めて就いたプロの現場となった。
また、室内作業といわれたオプチカルプリンターやアニメーションスタンドなどを駆使する合成作業全般を学ぶ傍ら、『モスラ』(1961年)では特撮助監督も務めた。
大学卒業後は円谷特技プロに入社し、光学撮影技師として『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『マイティジャック』などで視覚効果の腕を振るった。
その後も、シネマディクトでビジュアル・エフェクツ・スーパーバイザーを務めるなどしていたが、2021年4月4日、肝不全のため死去。享年82歳だった。
中野氏は生前、「俺の身体は円谷英二で出来ているようなもんなんです」と語っていたという。
また、中野氏は亡くなるまでヒゲを生やしてたが、これは晩年の英二氏と交わしたある約束によるものだった。
ヒゲが嫌いな英二氏は、心臓を悪くして入院した時も見舞いに来た中野氏のヒゲをからかうため、「じゃあ、オヤジが退院してきたらこのヒゲ剃りますよ」と約束した。
しかし、英二氏はそのまま仕事に復帰することなく亡くなってしまったため、生涯剃れなくなってしまったという。
【佐川和夫】
日大芸術学部2年だった佐川和夫氏は、1959年1月の正月3が日に円谷邸を訪問。
アポイントを取っていなかったため会ってくれると思っておらず、玄関を開けたら英二氏が立っていて驚きでいっぱいだったとか。
英二に「特殊技術の世界で働いてみたい」と話すと、「厳しい仕事場であり大変な社会だけど、それでよければやってみなさい」と言われたという。
ご家族が教会に行っていて帰ってこなかったので、2時間余りも付き合ってくれて、「円谷研究所に遊びに来ていいぞ」とも言われた佐川氏。
その後、研究所に出入りしているうちに、英二氏から「仕事を手伝ってみないか」と声を掛けられ、英二氏の紹介で特殊技術課にアルバイトで入ることに。
英二氏は東宝で『日本誕生』と『孫悟空』を撮影しており、佐川氏は特撮の撮影部の助手として勉強させてもらうことになった。
当時は最低でもカメラが3台回っており、カメラごとに撮影技師であるチーフがいて、助手が6人いたので、要は人手不足だった。
ひと月ほどするとフィルムに触らせてもらえるようになり、しばらくするとフォーカス、露出の係になったという。
佐川氏はその後、現場撮影から特殊美術、操演、特殊火薬、照明、室内作業、合成素材撮り、オプチカルプリンター合成などの特殊技術を学んでいった。
そして、大学卒業後に円谷特技プロに入社し、『ウルトラマン』では特撮班チーフカメラマンとして活躍し、『マイティジャック』にて特技監督としてデビュー。
マイティジャックでは、最初の特技企画段階からすべてに立ち会ったという。
その後も、『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』『ウルトラマンタロウ』『ウルトラマン80』などで特技監督を務めた。
円谷作品以外でも、『バトルフィーバーJ』『電子戦隊デンジマン』を始めとしたスーパー戦隊シリーズで迫力ある特撮映像を演出した。
【金城哲夫】
1960年の夏に、玉川大学3年だった金城哲夫氏は円谷邸を訪問した。
脚本家になることを志した彼は、在学中の玉川大学文学部の専任講師でシナリオ作家でもあった上原輝男に英二氏との面会を依頼したのである。
その時の様子を山田輝子・著『ウルトラマン昇天』より引用する。
上原が金城をともなった理由を説明すると、英二は片方の耳で聞くように大きくうなずきながら、目をじっと金城にそそいだ。
眼鏡のおくのその視線は細く鋭く、金城の緊張感は次第にたかまっているように見えた。
英二は上原の話を聞きおえ、二、三の質問をしたあと「それではなにか書いたものをもってきてごらん」と、金城の顔を見ながらいった。
どうやら金城の弟子入り志願は聞きとどけられるようであった。ふたりはホッとして円谷家を辞した。
金城氏は英二氏から紹介された東宝映画の脚本家・関沢新一氏や、TBS演技部のディレクターだった英二氏の長男の円谷一氏に師事することになった。
円谷研究所に出入りしながらシナリオ執筆を学んでいった彼は、1962年にTBSのテレビドラマ『絆』で脚本家デビュー。
その後、円谷特技プロへ参画し、企画文芸部の長として『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』などの企画立案や脚本を手掛けることになる。
[ウルトラQ 第2話「五郎とゴロー」より]
20代の若さで企画立案、メインライターとしての脚本執筆、脚本家の台本修正、円谷プロ内外への連絡や調整などを仕切っていたのは驚きである。
『ウルトラマン』『ウルトラセブン』などで監督を務め、“鬼才”と呼ばれた実相寺昭雄氏は、彼のことを「天才」と称していたという。
明るくて人懐っこい人柄から現場のムードメーカーでもあり、当時の関係者は「最初期のウルトラ作品の最大の功労者は金城氏」と口を揃える。
[ウルトラマン 第1話「ウルトラ作戦第1号」より]
金城氏が円谷プロを退社し、1969年3月に沖縄に帰郷した際の送別会も英二氏邸で行われた。
また、英二氏の死後、円谷プロの社長に就任した円谷一氏は1973年2月9日の朝5時頃、寝室で倒れ、搬送された隣の幸野病院で亡くなっている。
盟友だった金城氏は通夜の日、円谷家の庭のテントに呆然と座りつくし、一氏の遺影の前で葬儀の翌々日まで泣き崩れていたという――。
[ウルトラセブン 第1話「姿なき挑戦者」より]
【1966年7月17日】
『ウルトラマン』第1話の放映日である1966年7月17日には、英二邸の居間で、制作に携わったスタッフたちと一緒にテレビ放送を鑑賞した英二氏。
英二氏の日記より引用する。
1966年7月17日(日) 晴れ
今夕は「ウルトラマン」第1回なので、楽しみに放映を待つ。
高野、佐川、それに金城君達も来て一緒に見る。第1回は一の作品。仲々よく出来ているし色もよい。
皆で乾杯して前途を祝う。
現在も残る遺構
1966年6月に放送された『現代の主役 ウルトラQのおやじ』で、在りし日の円谷英二邸前の様子が映ります。
その映像では、円谷邸の扉の前が白いコンクリートで覆われていることがわかります。
現在の円谷邸跡では、その白いコンクリート部分の一部が残っています。
この場所を円谷英二をはじめ、有川貞昌や中野稔、佐川和夫、金城哲夫、満田かずほ、高野宏一などのレジェンドたちが踏みしめていたんでしょうね。
また、半円状の金属レールも残っていますが、これは隣にあった円谷一邸の扉の金属製ガードレールだと思われます。
編集後記
「円谷英二監督とのご縁ができた番組『現代の主役 ウルトラQのおやじ』を撮影したあの円谷家は夢と消えてしまった」(実相寺昭雄)
東宝撮影所から祖師谷みなみ商店街を通って円谷英二邸まで続く道は、英二氏にとって特撮について思考する道でした。
ある意味、円谷英二の特撮的哲学の道だったといえるでしょう。
以下、鈴木聡司著『小説 円谷英二 天に向かって翔たけ・上巻』から引用します。
その日の夕方、いつものようにマサノは買い物籠をぶら下げて、祖師谷大蔵の商店街にいた。
彼女が現在ボンヤリと佇んでいる商店街の通りは、この祖師谷大蔵の駅から東宝撮影所までを一本道で結んでいた。
(中略)
宵闇が次第に迫りつつある黄昏刻、先ほどまで耳障りな音を響かせていた遮断機が開いて、家路を急ぐ人々が線路の向こう側からぞろぞろと押し渡ってくるのが見えた。
彼女が見覚えある人影に気づいたのは、まさにそんな瞬間だった。(あら、ウチの人やないの……!)
路上に長い影を引き摺っている学生や腰弁の群れに混じって、いつものように鼠色のソフト帽を目深に被り、右手を上着のポケットに入れたままの恰好でやってくる夫の姿を彼女は女房らしい目敏さで見い出していた。
英二氏の姿を見て、近づいて「お父さん」と声を掛けようとしたマサノ氏。
しかし、英二氏はロクに顔も見ずに「あぁ、どうもご無沙汰しています」と軽い会釈をして、そそくさと自宅のある方向へと歩き去ろうとした。
呼び止めて話を聞くと、撮影所を出た時からオプチカルプリンターを使ったアイリスワイプのテストショットについてずっと考え込んでいたとのこと。
「考え事に夢中だったせいか、ひどく見覚えのあるのに何処の誰だか思い出せなくて、反射的に会釈だけ済ませたのが自分の女房だったというわけだ」
と弁明した英二氏は、「こりゃ迂闊だったな」と笑ったという。
このエピソードから、自分の妻の顔を忘れてしまうほどの常人離れした英二氏の思考の深度と思考に対する集中力を垣間見ることができます。
【英二氏の精神】
英二氏は、東宝撮影所に転属になってからも苦労の連続でした。
東宝のカメラマンから排斥され、戦争映画の特撮で実績を上げた矢先に公職追放で東宝を退職し、特撮の下請けで食い繋ぐという極貧生活。
しかし、1954年の『ゴジラ』の大ヒットにより“世界の円谷”としての名声を得て、不朽の名作『ウルトラマン』の監修によって“特撮の神様”まで登り詰めました。
円谷英二邸跡地には、そんな英二氏の喜怒哀楽の精神が染み込んでいるようです。
【円谷英二の作品の一つ】
英二氏の自宅には、後に円谷プロの作品を支える数多くのレジェンドが訪問しています。
当時はまだ無名だったにも関わらず、アポ無しで訪ねてきた見ず知らずの若者を快く迎え入れ、話に耳を傾け、その後の世話までした英二氏の器の大きさに驚かされます。
タモリが故・赤塚不二夫の葬儀で「私もあなたの作品の一つです」と述べました。
有川貞昌、金城哲夫、中野稔、佐川和夫を始めとしたレジェンドたちも、円谷英二の作品の一つなのかもしれません。
英二氏が東宝で制作した数々の怪獣映画は、若かりし頃のスティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカスも夢中になって観ていたそうです。
スピルバーグは1968年に来日した際、アポ無しでウルトラセブン撮影中の美センを訪れ、撮影手法についてあれこれと尋ねていったとか。
【円谷英二邸跡地碑】
特撮作品の制作や監修し、特撮文化の発展に多大な貢献をし、世界に夢と感動を与えた“特撮の神様”が暮らした祖師谷。
残念ながら、その第二の故郷とも言うべき場所に、生前の功績を顕彰する記念碑などは建立されていません。
英二氏の故郷である福島の生家跡には「生誕地碑」が建立されています。
1937年に転居してから亡くなるまでの33年間を過ごした“第二の故郷”である祖師谷の地にも、記念碑があってもいいのではないでしょうか。
[作曲家・清瀬保二の居宅跡碑 / 世田谷区砧]
記念碑の建立が難しいのであれば、円谷邸があった通りを“円谷英二ロード”と名付けるとか、駅前の広場に英二氏の胸像を建立するという顕彰方法でもいいと思います。
今の時点では、世界の人々に夢と感動を与えた“世界の円谷英二”の存在を街を挙げて無視されているようで、「ウルトラファンとして悲しい」と言わざるを得ません――。
【出典】「昭和30年代・40年代の世田谷」
「特撮の神様と呼ばれた男」「翔びつづける紙飛行機 特技監督 円谷英二」
「写真集 特技監督・円谷英二」「円谷英二の映像世界」「ウルトラマンの現場」
「特撮円谷組 ゴジラと、東宝特撮にかけた青春」「ウルトラマンの東京」
「円谷英二特撮世界」「素晴らしき円谷英二の世界」「ウルトラQのおやじ」
「日本特撮技術大全」「証言!ウルトラマン」「Pen / 2011年9月1日号」
「空撮特撮シリーズ ウルトラQアルバム」
「ウルトラマンティガ第49話『ウルトラの星』」