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【33回忌】 尾崎豊の生家跡(練馬)

2024年04月25日 | 尾崎豊



 尾崎豊の生家跡


 尾崎豊が生まれてから小学五年生までを過ごした「春日町第二都営住宅」。

 1965年11月29日に自衛隊中央病院にて誕生した尾崎が退院し、練馬での家族4人の生活が始まったのは12月4日でした。

 本日が33回忌ということで、日本が誇る不世出の天才アーチストが幼少期を過ごした歴史的な場所について紹介させて頂きます――。






 春日町第二都営住宅跡


 尾崎豊が幼少期を過ごした春日町第二都営住宅は練馬区春日町の一角にありました。
 
 健一さんは1959年に結婚して、その翌年に町田市の都営住宅に住み始め、そこから市ヶ谷の自衛隊に通っていました。

 そんな折、自衛隊の中に練馬の都営住宅から秦野市方面の基地に通っている人がいたため、住宅の交換制度を使って、町田と練馬で交換したそうです。
 





 現存する当時の区画


 
 こちらは、尾崎が生まれる2年前(1963年)の生家周辺の空撮写真。

 真ん中の平屋が9つ並んでいる場所が都営住宅で、矢印で示した家が尾崎が生まれてから朝霞に引っ越すまで住んでいた生家。





 そして、こちらが現在の都営住宅跡。

 都営住宅の建物は解体され更地になっていますが、驚くことに当時の区画が半世紀以上経った今も、そのまま現存しています。










 練馬の尾崎家


 尾崎が幼少期を過ごした練馬の都営住宅は六畳二間の平屋でした。

 当時の写真を見る限り、平屋の東側に入口を入ると入口の右に台所があり、西側に六畳の二部屋が連なっている構造になっていたようです。





 健一さんは、日曜大工で住宅の東側に隣接した風呂場も造り、南側には知り合いの大工に頼んで、本格的な四畳半の子供部屋の増築も行いました。
 
 また、庭にコンクリートで四角い小さな池も作ったり、巻き藁を立ててムシロを敷いて、尾崎と兄の康さんに躰道の稽古をつけたりしていました。

 康さんと一緒に焚火をすることもあったそうです。


 
 

【難破船の少年】

 健一さんはよく『桃太郎』や『一寸法師』、『うさぎと亀』などの童話の主人公を「ユタちゃん」に変えて、読み聞かせをしていました。

 中でも尾崎が何度も「読んでちょうだい」とせがんだのは、『難破船の少年』でした。

 (少年と少女が船の上で出会って仲良くなるが、船が嵐で難破してしまい、少年は最後の一艘の救命ボートに少女を乗せて、船と一緒に沈んでいくお話)






【猫のチロ】

 尾崎が4歳の頃、母の絹枝さんが知り合いからもらってきたオスの三毛猫・チロを飼っていました。

 チロはいつも尾崎の後ろをついて回っていましたが、翌年に畑で亡くなっているのを健一さんが見つけ、尾崎に見つからないように庭に埋めたそうです。
 

     



【ギターと尾崎】

 なお、練馬の家の前で尾崎がギターを抱えている写真がありますが、これは、兄の康さんのギターを持ち出しておもちゃにして遊んでいるだけだそうです。

 (本格的にギターの練習をし始めるのは、朝霞に引っ越してから)


     


 保育園~小学校


 
 尾崎は1歳の時から保育園 (田柄保育園) に預けられています。

 絹枝さんが元気な時はバイクで、絹枝さんの体調が悪い時は健一さんが仕事の行き帰りのついでに送り迎えしていました。


           


 尾崎はアッコちゃんという女の子と仲が良く、引越しでいなくなってしまったその日は、一日中メソメソしていたとか。
 
 その後、2歳の時に自宅近くに新設された春日町第二保育園に転園し、1972年4月に田柄第二小学校に入学。兄の康さんと一緒に通っていました。
 
 
     
 

 
 ボロ公園

 
 都営第二住宅跡の右側に柵に囲まれた区画があります。


 

 ここには当時、ブランコやジャングルジムなどがあり、子供たちの間で“ボロ公園”と呼ばれて親しまれていました。

 幼少時代の尾崎はボロ公園で遊びながら、共働きだった両親の帰りを待っていました。



 
 
 兄の尾崎康さんの著書『弟尾崎豊の愛と死と』に掲載されているこちらの写真は、ボロ公園の北側の角付近で撮影されています。

 晩年の尾崎はこの写真をいつも持ち歩き、1992年4月25日早朝に民家で倒れていた時もこの写真を眺めていたそうです。


 ―― その写真をながめる度 分けあった訳の中に それぞれが選んだ生き方を思い浮かべてみる 『誕生』
 
 
    
 
 
 『尾崎豊 THE MEMORIAL』封入のアルバムには、柵の前で父親と一緒に映っている少年時代の尾崎豊の写真も掲載されています。
 
 
   
 

 『尾崎豊 永遠の愛と孤独』や『尾崎豊「誕生」逝ってしまった私の息子に』にも、ボロ公園の柵の前で写真に収まる尾崎の写真が掲載されています。





 ちなみに、尾崎は1986年にNYに長期滞在していた頃、日本に一時帰国して繁美さんととしまえんに遊びに行った帰りに、ここに立ち寄っています。

 (としまえんは、父や兄と一緒にプールに遊びに行ったり、遠足で訪れたりと尾崎にとっては思い出の場所)

 「すげぇ懐かしいなぁ~」と瞳をキラキラさせながら、自分が幼少時代どんな子供だったかを繁美さんに話したそうです。
 

 
 



 ネズモチの木


 ボロ公園から夏休みの土曜日の夜に打ち上げるとしまえんの花火がよく見えたため、花火の音が聞こえてくると都営住宅の住人はこの公園に集まりました。
 
 
     
 
 
 尾崎を始めとした子供たちは、ボロ公園に生えているネズモチの幹によじ登って、花火が少しでもよく見える場所に陣取っていたそうです。
 
 
     


 しかし、木が育ちすぎて電線への接触の懸念が出てきたため、現在は伐採されていて切り株のみが残っています。








【小さな家の大きな愛】

 練馬の生家について、尾崎はこんな言葉を残しています。


 小さな小さな家で生まれ、
 大きくて暖かな愛の温もりの中で育った。

 小さな焚火が出来るほどの庭があった。
 庭は二メートルぐらいの高さの正木という常緑広葉樹で出来た垣根に囲まれている。

 一面を真っ白にする冬の雪化粧も、蝶を舞いこませる春風も、
 照りつける真夏の日差しも、
 空気の縮んでゆくような秋の気配も、

 季節はすべてその庭に訪れ僕に顔を見せた。




      



・春日町第二都営住宅跡(尾崎豊の生家跡)
 ※都営大江戸線「練馬春日町駅」より徒歩10分





 編集後記


 幼少時代の尾崎が暮らしていた頃の都営住宅の区画がそのまま残っているのは驚きというか、奇跡に近いような気がします。

 練馬の生家時代の尾崎的トピックスといえば、母親の絹枝さんが髄膜炎になって入院したため、尾崎が1歳の時に、岐阜県の実家に3カ月預けられたこと。

 そして、父親の健一さんと一緒に自転車の練習をしていた尾崎が、6歳の時にグランドハイツ(元・光ヶ丘公園)で補助輪なしで自転車に乗れるようになったことなどが挙げられます。

 (誇らしげな顔で、自転車に乗りながら家に帰ってきた尾崎の姿が目に浮かびます)





 また、この場所は“尾崎が愛したタカセのケーキ”でお馴染みの、健一さんが買ってきたタカセ池袋本店のケーキで誕生日パーティをやり始めた発祥の地でもあります。

 人は皆、生まれ育った家やその周辺の景色は、原風景として大切にしているように、尾崎もこの場所を生涯大切にしていたことでしょう。

 可能なら、日本を代表する不世出の天才アーチストが幼少期を過ごした歴史的な場所として、史跡名勝天然記念物に指定して保存していってほしいものです。

 なお、本記事で紹介させて頂いた写真が撮影された場所はこちらです。現地を訪れた際に、参考にして頂けると幸いです。







【出典】「尾崎豊ゆかりの地 / 練馬」「弟尾崎豊の愛と死と」「尾崎豊 THE MEMORIAL
    「尾崎豊 永遠の愛と孤独」「尾崎豊「誕生」逝ってしまった私の息子に
    「天国の豊よ、思い出ありがとう
 

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