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【追悼・飯島敏宏監督】ウルトラマン創世の地「旅館はなぶさ」

2021年10月20日 | ウルトラ関連


 旅館はなぶさ


 祖師ヶ谷大蔵にあった円谷プロご用達の旅館「はなぶさ」。

 金城哲夫氏や上原正三氏をはじめとした円谷プロの脚本家たちが、缶詰になって集中して脚本作りをする際によく利用していました。

 飯島敏宏氏も、円谷プロと打ち合わせる時は必ずここで行っていたそうです。

 そして、ウルトラマンの企画書作り、第1話の脚本作成、クランクイン当日の打ち合わせが行われた “ウルトラマン創世の地” でもあるのです――。






 伝説の旅館があった場所


 左側の画像中央の林に囲まれている建物が「旅館はなぶさ」。

 当時の住宅地図を調べてみると、祖師谷商店街にある「さか本そば店」の裏に旅館の敷地が広がっていたことがわかります。



[出典 goo地図(古地図)]




 
 『ウルトラマン』の企画書作り


 はなぶさでは、のちに伝説の国民的特撮テレビ番組となる『ウルトラマン』の企画書作りが行われていました。 

 金城氏と山田正弘氏によって練り上げられていたタイトルは『科学特捜隊ベムラー』で、1966年1月下旬に『レッドマン』に変更になったそうです。

 白石雅彦・著『ウルトラマンの飛翔』に抜粋されている山田氏のエッセイを引用します。


 その夏(1965年)から秋にかけては3日とあけずに金ちゃん(金城氏)とつき会う羽目となる。

 ときには、祖師谷の旅館「はなぶさ」に3日、4日と連泊となった。

 今残っているノートをみると、このときからレッドマンの企画づくり間をとおして、考えだした話の数は軽く50をこえている。




 『ウルトラマン』第1話の脚本書き


 ウルトラマン第1話「ウルトラ作戦第1号」の脚本。

 このウルトラマンが初めて登場する重要な回の脚本は、金城氏が1966年5月11日から13日にかけて、はなぶさに泊まり込んで書き上げました。





 彼が学生時代から師事していたシナリオ界の大御所・関沢新一氏が書き上げた第1話の脚本の評判が悪く、全面的に書き直すことになったためです。

 上原正三・著『金城哲夫 ウルトラマン島唄』から引用します。
 
 
 金城は、その夜から「はなぶさ」にこもって第1話の手直し作業にとりかかった。

 一監督や制作サイドの意見を採り入れながらやるうちに手直し程度ではなくなり、三日もかかる全面書き直しの作業になった。

 出来上がったシナリオは原型をとどめないほどで、金城のオリジナル作品となった。

 円谷一監督がやって来て原稿に目を通す。緊張の金城。

「これです」一発OKだった。「ヒエー!」金城は奇声を発して、精魂尽き果てた感じで畳に大の字になった。





 関沢氏の脚本のト書き一行も残さない大幅な改稿を行ったため激怒されてもおかしくなく、金城氏は関沢邸の出入禁止も覚悟していたそうです。

 しかし、原稿を読み終えた関沢氏は愛弟子の労をねぎらい、彼の提案で第1話は関沢氏と金城氏の共同脚本という形になりました。






 ウルトラマン打ち合わせ


 1966年3月16日、『ウルトラマン』の撮影がクランクイン。

 「ウルトラマン 1996+ Special Edition」に掲載の製作日報によると、当日の午後3時から夜9時まで、はなぶさで飯島組の打ち合わせが行われています。

 

[出典 ウルトラマン 1996+ Special Edition / 金田益実・編



 飯島監督は、企画文芸室が円谷プロのどこにあったのか全く思い出せなかったそうです。

 それは、飯島監督と金城氏との打ち合わせがいつも旅館はなぶさだったためで、「そこが円谷プロの企画文芸室だったと言っていいかもしれません」と話しています。

 以下、飯島敏宏+千束北男・著『バルタン星人を知っていますか?』より引用します。


 僕が初めてはなぶさ旅館に行ったのは、山田正弘さんの『ウルトラQ・虹の卵』の構想が出来たというので金城さんと一緒に打ち合わせに行ったときです。

 案内されたのは、数人が泊まれる広い部屋でしたが、
万年床になっている布団が寄せられた隙間みたいなところでの打ち合わせでした。

「ご存知でしょう?竹は花が咲くと枯れてしまうの・・・」(中略)
「え?そうなんですか・・・」

 金城さんがたちまち引き込まれて、膝を乗り出します。

 (中略)

 これも「はなぶさ文芸室」での山田正弘先生の産物でしたが、結局、これは、脚本になりませんでした。





 「さか本そば店」の裏にあった旅館はなぶさ。

 飯島監督の著書の中にも、はなぶさでの打ち合わせ中に、山田氏が突然「お腹空きません?」と言って、近くの豚カツ屋で腹ごしらえをする記述があります。

 夏場の打ち合わせ中、蕎麦を食べに「さか本そば店」にも立ち寄っていたのでしょうか――。





 編集後記


 伝説の国民的特撮テレビ番組『ウルトラマン』創世の地「旅館はなぶさ」。

 飯島監督は著書の中で、はなぶさを漫画家が集団で暮らしていたことで有名な「トキワ荘」に例えています。

 また、彼は生前こんなことを話していました。

 「不安でしょうがない時は、“大丈夫、大丈夫、大丈夫”って言うんです。カッコよく言うと“Go straight on”。とにかく進むんですよ」

 これは、スペシウム光線の名前や構えを始めとした重要な部分が全く決まっていない状態で3本持ちでウルトラマンのクランクインを任された時のことだと思います(笑)

 その結果が、伝説の特撮ヒーロー番組の基本的な雛型と人気怪獣バルタン星人を誕生させることになるわけですから凄いことです。





 また、この場所はウルトラシリーズだけでなく、『マイティジャック』などの他の円谷作品の脚本書きにも利用されていました。

 以下、上原正三・著『金城哲夫 ウルトラマン島唄』 から引用します。

 
 「むつかしい」金城がめずらしく弱音を吐いた。

 「長いから?」

 「うん、ヤマの作り方が。ドラマ部分と特撮部分がどうもうまくいかないんだ。今夜もはなぶさだよ」
    
 多忙な先輩作家に対しては注文にも限度がある。(中略) あとは金城が手直しするハメになる。

 手慣れた仕事とは言え1時間ドラマともなると分量が多い。それでも金城は一晩で直しを終えてケロっと出社して来た。  


 過去の住宅地図を調べてみたところ、はなぶさは1962年の地図にはすでに存在しており、1976年の地図では空き地になっていました。

 金城氏が1972年4月に、はなぶさで『帰ってきたウルトラマン』の第11話「毒ガス怪獣出現」を書き上げていることから、1970年代前半まで存在していたようです。

 今は別の建物が建っており、跡地碑なども無いため、当時の面影は全くありません――。




【出典】「金城哲夫 ウルトラマン島唄」「ウルトラマンの飛翔
    「ウルトラマン 1996+ Special Edition」「駿河屋.jp
    「バルタン星人を知っていますか?


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