当時明治大学 タイオフィスの齊藤正雄先生のご案内でパフラットの中華街で中国廟の案内をしていただき、そのあと3人でインド料理を食べに行った。
写真左が齋藤先生。そして私と 山ちゃんこと山口正喜先生
確か1990年タイにいらしてタッマサーット大学東アジア文化研究所で講師や研究員をしていた。
授業の中で完結させずに、外の風を教室に持って来る、なかなか日本語教師にはいない特筆すべき先生であった。
このBlogでもご報告したとおり、2022年6月に急逝された。
1990-1991までタッマサーット大学。その後山田義塾の日本語教育の責任者などを経てサイアム大学で教えていた。
確か1991年に63歳になり、大学からこれ以上定年を延長しない旨の通告を受け、ビザの残存期間が1か月しかないため、急いで転職を探していて私も少しお手伝いしたが、なかなか急いでタイで再就職先を探すのは難しく、5月には日本に帰る決心をされた。
日本では大阪に滞在し、(おそらく知人がいらしたのだと思う)日本語学校に改めて入り、日本語教師の資格を取った。(7か月くらいかかったと思う)
2022年1月福山に良い就職先が見つかったということでネットでお祝い会をしたのだが、経営陣にご不満で数か月で辞めてしまった。
その後ブリスベンの日本語をオンラインで教える学校の仕事をしていたが、急にZoomに入ってこなくなったので、おかしいと思った学校のオーナーが緊急時連絡先の次男「ジロウ君」に連絡をとった。当初FBのMessage機能を使って連絡してきたが、私は数日気が付かなかった。
ジロウはオーナーさんの協力を得て、福山市駅前交番に連絡をとって警察官が自宅に向かったら亡くなっていらしたそうだ。
私のところにはタイ在住の甥御さんからご連絡があった。「はじめまして」とご挨拶したところ、90年代に渡しと会ったことがあるとことだった。
山ちゃんには2人の子供がいた。多分2000年にタイ人女性と結婚2人の男の子を設けた。
お兄ちゃんは私が勤務する大学の4年生である「タロウ君」
*12年前二人の息子をバイクで迎えに行く山ちゃん :https://youtu.be/ZnSqgH_iz6k?si=vCejAts97ynDsOdT
タロウ・ジロウともに 日本に支援者= 熊本亮子先生がいて、支援してくださっている
この穴シノ続きはまたの機会に。
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