シオドア・スタージョン再評価の発端となった作品集『海を失った男』を、
今回改めて取り上げてみた。
「SF作家としてのスタージョンの栄光と悲惨を、そこに見る。」
これは本書『海を失った男』に収録された「三の法則」について、編者でもある
若島正氏があとがきで書いた文章の一節である。
ここから「SF」という一語を除けば、それがそのまま本書全体を評する言葉に
当てはまるのではないだろうか。
内容の出来不出来やジャンル性よりも「スタージョンらしさ」を前面に出したことが
この作品集における最大の特徴であり、収録作のムラや甘さといった要素も含めて
「シオドア・スタージョン」という作家の輪郭をくっきりと描き出している点については
全く異論の無いところである。
一方、それらが「ジャンル小説」あるいは単に「小説」としてのバランスやまとまりを
欠いていても、そこに「スタージョンらしさ」さえ見出せれば、それだけで一定の評価を
与えてしまう傾向を生んだ一因も、この作品集にあると思う。
孤独、飢え、愛、そして憎悪といった要素を「スタージョンの味」として評価し賞味する
読み手の姿(そこには私自身も含まれる)を思うとき、このような「作家スタージョン」の
受け止め方について、ふと逡巡してしまうこともあるのだ。
いまや我々はスタージョンの作品を「小説」としてではなく、スタージョン自身として
読んでしまっているのではないだろうか?
優れた小説には避けがたいこととはいえ、スタージョンに関しては特にその傾向が
顕著に感じられる。
そしてふと考えるのは、この行為はスタージョンに対する「墓読み」ではないだろうか、
ということだ。
この作品集の収録作を読み、その中の一語一文からスタージョンの人生を読み取って
思いをめぐらせる時、スタージョン自身はこんな読まれ方を望んでいたのだろうかと
考えてしまうことがある。
そして私は、そこに作家としてのスタージョンの「栄光と悲惨」を感じてしまうのだ。
前置きはこのくらいにして、以下に各作品の感想を述べる。
「ミュージック」
本書の巻頭を飾る傑作。わずかなページの中にスタージョンの得意とするモチーフが
詰め込まれ、濃密で異様な世界を醸し出している。恐るべき小品。
「ビアンカの手」
『一角獣・多角獣』にも、同題で収録あり。
この一作の中にスタージョンの書いた全ての小説が含まれているとも言える、彼の代表作。
本作で早すぎる頂点を極めたスタージョンは、以後の作で繰り返し同様のテーマを掘り下げ、
分類し、拡張し続けた。その意味では彼もまた「ビアンカの手」に捉われていたのだ。
これもまた作家スタージョンの栄光であり、そして悲惨である。
「成熟」
創造の天才であるロビンは、一方で自分と異なる人間とその社会を理解できず、
将来という概念も認識できない「未熟」な精神の持ち主、つまり「子供」である。
この作品におけるスタージョンの興味は、SF小説であれば真っ先に取り上げるべき
彼の「能力」ではなく、医学的治療によって「大人」になり始めたロビンの変化と、
その「成熟」への過程に向けられている。
故にSF作品としては詰めが甘い上に、ラストも凡庸だ。しかしその凡庸さがかえって
胸に沁みてくるのも、スタージョンという作家の特異性ゆえかもしれない。
そして作中でロビンが女医に投げかける問いは、性愛に寄らない「シジジイ」を標榜する
作者の肉声であり、また我々の社会に対しての辛辣な皮肉ともなっている。
「シジジイじゃない」
『一角獣・多角獣』にも、「めぐりあい」のタイトルで収録あり。
ただし編者の若島氏は前訳に異議を唱えており、今回は編者自身による新訳である。
『一角獣・多角獣』で読んだ時は「仮想現実」のイメージが強かったが、今回は
「1対1の関係に対する不安と怖れ」や「愛という名の共生関係」というテーマを
よりはっきりと認識できた。
それは同時に、またもSFという枠からはみ出していく「スタージョンらしさ」を
否応なく認識させられることでもあるのだが。
「三の法則」
編者も指摘しているとおり、エイリアンとウイルスについての要素が無ければ
普通に見られるTVドラマのような話。
ただし構成要素はスタージョンの得意なものばかりが使われており、これらを
駆使することによって作者の語る「性別や恋愛感情に捉われない人間関係」が
ゆっくりと形成されていくプロセスは、いささか強引だがなかなか面白い。
といっても、「三」で構成される人間関係の典型例を「父」「母」「子」によって
構成される家族と見なす時、スタージョンが求めていたのは結局「家族愛」であり、
彼にとっての至高の関係はそこに尽きるのだという気もしてくる。
あるいはこの「三の法則」とは、裏を返せば「シジジイじゃない」でも垣間見えた
「ペアでいることの苦痛」の表明であるとも受け取れる。
そういえば、以前にSFマガジンで柳下毅一郎氏がディッシュの書いたエッセイを
取り上げていたとき、スタージョン宅に泊まったときの話が紹介されていた。
それによると、スタージョンはディッシュを夫婦の寝室に招き入れるだけでなく
さらに同じベッドに入るよう勧めたという。
これを読んだ時は「変な性癖の人だったんだ」と感じたものだが、今から思えば
彼は本気で「三の法則」を信じていたのかもしれない。
「そして私のおそれはつのる」
孤独な老女と粗暴な少年の交流は、少年がある少女に恋したことによって大きな
転機を迎える…という、スタージョンの代表作「人間以上」のバリエーションとも
とれる作品。教育という側面も含め、少しゼナ・ヘンダースンの雰囲気もある。
作中で陰陽思想やヨガの瞑想がでてくるあたり、スタージョンはこの頃東洋思想に
興味を持っていたようだ。もっとも、これより後に書かれた「ルウェリンの犯罪」
(『輝く断片』所収)では、ヨガに対して否定的ともとれる描写が見られるのだが。
なお、作品の配置的に「落ち」が見えてしまう点だけは、少々いただけなかった。
「墓読み」
一見して奇譚めいた出だしだが、実は素直に情に訴えかける「しみじみ泣ける話」。
その一方で、「墓を読む」というテーマを通じて、書くことと読むことの意味を
強く問いかけてくる物語でもある。
淡々としているところはスタージョンらしくない気もするが、実は本作品集中で
この作家の特質が一番よく出ている作品かもしれない。
この話は読むたびに複雑な気分になってしまい、一本の作品として解説するのが
とても難しい。今回の記事の冒頭で書いた文章にも、そんな心理が反映している。
墓読みのプロセスをじっくり語るくだりは、実はスタージョンが言葉というものを
あまり信用しておらず、非言語的なコミュニケーションを理想としていたことを
示唆しているようでもある。
「海を失った男」
冒頭とラストのシーンが重なることで浮かび上がる、「ここではない世界」の風景。
その光景が象徴する「絶望的なまでの孤独」と、主人公が放つラストの叫びこそ、
超絶技巧の文体や「意識の流れ」以上に美しく、また胸を打つものだと思う。
あるいはそれを「美しい」と感じるのは、SFを愛する者に限られるかもしれないが。
解説ではNWを引き合いに出しているが、むしろバラードの作品と絵的に似ている程度で
難解な話ではない。ちなみにバラードによるNW宣言は、この作品より後に書かれている。
二人称の文体についてはウルフ先生で慣れているので、特に問題なし。
こういう話を読むと、また「デス博士」が読みたくなってくる。
「ジャンルという枠を超えたスタージョン」の数々を読んだ後に思うのは、これとは逆に
「ジャンル作家としてのスタージョン」を見てみたいということである。
例えばSF作品では「皮膚騒動」「ポーカー・フェイス」それに「極小宇宙の神」など、
名の知られた作品が収録されずに残っている。未訳の作品もまだまだありそうだ。
作品の良し悪しよりも、今はただ「SF作家としてのスタージョン」を読んでみたい。
いつか誰かがそんな作品集を編んでくれることを、期待している。
今回改めて取り上げてみた。
「SF作家としてのスタージョンの栄光と悲惨を、そこに見る。」
これは本書『海を失った男』に収録された「三の法則」について、編者でもある
若島正氏があとがきで書いた文章の一節である。
ここから「SF」という一語を除けば、それがそのまま本書全体を評する言葉に
当てはまるのではないだろうか。
内容の出来不出来やジャンル性よりも「スタージョンらしさ」を前面に出したことが
この作品集における最大の特徴であり、収録作のムラや甘さといった要素も含めて
「シオドア・スタージョン」という作家の輪郭をくっきりと描き出している点については
全く異論の無いところである。
一方、それらが「ジャンル小説」あるいは単に「小説」としてのバランスやまとまりを
欠いていても、そこに「スタージョンらしさ」さえ見出せれば、それだけで一定の評価を
与えてしまう傾向を生んだ一因も、この作品集にあると思う。
孤独、飢え、愛、そして憎悪といった要素を「スタージョンの味」として評価し賞味する
読み手の姿(そこには私自身も含まれる)を思うとき、このような「作家スタージョン」の
受け止め方について、ふと逡巡してしまうこともあるのだ。
いまや我々はスタージョンの作品を「小説」としてではなく、スタージョン自身として
読んでしまっているのではないだろうか?
優れた小説には避けがたいこととはいえ、スタージョンに関しては特にその傾向が
顕著に感じられる。
そしてふと考えるのは、この行為はスタージョンに対する「墓読み」ではないだろうか、
ということだ。
この作品集の収録作を読み、その中の一語一文からスタージョンの人生を読み取って
思いをめぐらせる時、スタージョン自身はこんな読まれ方を望んでいたのだろうかと
考えてしまうことがある。
そして私は、そこに作家としてのスタージョンの「栄光と悲惨」を感じてしまうのだ。
前置きはこのくらいにして、以下に各作品の感想を述べる。
「ミュージック」
本書の巻頭を飾る傑作。わずかなページの中にスタージョンの得意とするモチーフが
詰め込まれ、濃密で異様な世界を醸し出している。恐るべき小品。
「ビアンカの手」
『一角獣・多角獣』にも、同題で収録あり。
この一作の中にスタージョンの書いた全ての小説が含まれているとも言える、彼の代表作。
本作で早すぎる頂点を極めたスタージョンは、以後の作で繰り返し同様のテーマを掘り下げ、
分類し、拡張し続けた。その意味では彼もまた「ビアンカの手」に捉われていたのだ。
これもまた作家スタージョンの栄光であり、そして悲惨である。
「成熟」
創造の天才であるロビンは、一方で自分と異なる人間とその社会を理解できず、
将来という概念も認識できない「未熟」な精神の持ち主、つまり「子供」である。
この作品におけるスタージョンの興味は、SF小説であれば真っ先に取り上げるべき
彼の「能力」ではなく、医学的治療によって「大人」になり始めたロビンの変化と、
その「成熟」への過程に向けられている。
故にSF作品としては詰めが甘い上に、ラストも凡庸だ。しかしその凡庸さがかえって
胸に沁みてくるのも、スタージョンという作家の特異性ゆえかもしれない。
そして作中でロビンが女医に投げかける問いは、性愛に寄らない「シジジイ」を標榜する
作者の肉声であり、また我々の社会に対しての辛辣な皮肉ともなっている。
「シジジイじゃない」
『一角獣・多角獣』にも、「めぐりあい」のタイトルで収録あり。
ただし編者の若島氏は前訳に異議を唱えており、今回は編者自身による新訳である。
『一角獣・多角獣』で読んだ時は「仮想現実」のイメージが強かったが、今回は
「1対1の関係に対する不安と怖れ」や「愛という名の共生関係」というテーマを
よりはっきりと認識できた。
それは同時に、またもSFという枠からはみ出していく「スタージョンらしさ」を
否応なく認識させられることでもあるのだが。
「三の法則」
編者も指摘しているとおり、エイリアンとウイルスについての要素が無ければ
普通に見られるTVドラマのような話。
ただし構成要素はスタージョンの得意なものばかりが使われており、これらを
駆使することによって作者の語る「性別や恋愛感情に捉われない人間関係」が
ゆっくりと形成されていくプロセスは、いささか強引だがなかなか面白い。
といっても、「三」で構成される人間関係の典型例を「父」「母」「子」によって
構成される家族と見なす時、スタージョンが求めていたのは結局「家族愛」であり、
彼にとっての至高の関係はそこに尽きるのだという気もしてくる。
あるいはこの「三の法則」とは、裏を返せば「シジジイじゃない」でも垣間見えた
「ペアでいることの苦痛」の表明であるとも受け取れる。
そういえば、以前にSFマガジンで柳下毅一郎氏がディッシュの書いたエッセイを
取り上げていたとき、スタージョン宅に泊まったときの話が紹介されていた。
それによると、スタージョンはディッシュを夫婦の寝室に招き入れるだけでなく
さらに同じベッドに入るよう勧めたという。
これを読んだ時は「変な性癖の人だったんだ」と感じたものだが、今から思えば
彼は本気で「三の法則」を信じていたのかもしれない。
「そして私のおそれはつのる」
孤独な老女と粗暴な少年の交流は、少年がある少女に恋したことによって大きな
転機を迎える…という、スタージョンの代表作「人間以上」のバリエーションとも
とれる作品。教育という側面も含め、少しゼナ・ヘンダースンの雰囲気もある。
作中で陰陽思想やヨガの瞑想がでてくるあたり、スタージョンはこの頃東洋思想に
興味を持っていたようだ。もっとも、これより後に書かれた「ルウェリンの犯罪」
(『輝く断片』所収)では、ヨガに対して否定的ともとれる描写が見られるのだが。
なお、作品の配置的に「落ち」が見えてしまう点だけは、少々いただけなかった。
「墓読み」
一見して奇譚めいた出だしだが、実は素直に情に訴えかける「しみじみ泣ける話」。
その一方で、「墓を読む」というテーマを通じて、書くことと読むことの意味を
強く問いかけてくる物語でもある。
淡々としているところはスタージョンらしくない気もするが、実は本作品集中で
この作家の特質が一番よく出ている作品かもしれない。
この話は読むたびに複雑な気分になってしまい、一本の作品として解説するのが
とても難しい。今回の記事の冒頭で書いた文章にも、そんな心理が反映している。
墓読みのプロセスをじっくり語るくだりは、実はスタージョンが言葉というものを
あまり信用しておらず、非言語的なコミュニケーションを理想としていたことを
示唆しているようでもある。
「海を失った男」
冒頭とラストのシーンが重なることで浮かび上がる、「ここではない世界」の風景。
その光景が象徴する「絶望的なまでの孤独」と、主人公が放つラストの叫びこそ、
超絶技巧の文体や「意識の流れ」以上に美しく、また胸を打つものだと思う。
あるいはそれを「美しい」と感じるのは、SFを愛する者に限られるかもしれないが。
解説ではNWを引き合いに出しているが、むしろバラードの作品と絵的に似ている程度で
難解な話ではない。ちなみにバラードによるNW宣言は、この作品より後に書かれている。
二人称の文体についてはウルフ先生で慣れているので、特に問題なし。
こういう話を読むと、また「デス博士」が読みたくなってくる。
「ジャンルという枠を超えたスタージョン」の数々を読んだ後に思うのは、これとは逆に
「ジャンル作家としてのスタージョン」を見てみたいということである。
例えばSF作品では「皮膚騒動」「ポーカー・フェイス」それに「極小宇宙の神」など、
名の知られた作品が収録されずに残っている。未訳の作品もまだまだありそうだ。
作品の良し悪しよりも、今はただ「SF作家としてのスタージョン」を読んでみたい。
いつか誰かがそんな作品集を編んでくれることを、期待している。
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