goo blog サービス終了のお知らせ 

都立代々木高校<三部制>物語

都立代々木高校三部制4年間の記録

【5Ⅱ-05】 スト決行の日

2014年10月22日 16時18分48秒 | 第5部 地殻変動
<第2章>新聞販売所の叛乱
[第5回] スト決行の日

新聞販売所の学生店員による<叛乱>が始まりました。
6月25日の朝刊から配達を拒否し、ストライキに入りました。<スト派店員>は、いまでは<アジト>となったアパートに午前6時、全員集まり今後の対応を打ち合わせました。

私たちの待遇改善策に対し店側は何ら善処せず旧態依然の経営態度を示すだけで、むしろ労働条件の強化策を打ち出して来ました。その対抗手段として「新聞配達拒否」の行動を実行したわけですが、今後の私たちの動向は店側の出方次第となります。そこで「今後のスト継続にあたって、奨学金を得ている学生や自己都合などの店員には何ら縛りはなく自らの考えで現場(配達)に戻るのは自由」との確認がなされました。
そしてリーダー格の学生店員から、私ともう一人の二名が新聞本社へ出向いて「スト決行の現状とここに至る経緯」を報告するように指示を受けました。何故、私が指名されたのか分かりません。同行する店員と打ち合わせ落ち合う場所を決め、午前7時半に会合は解散となりました。

スト前日、24日の夕刊に私たち勤労学生店員の実情と新聞店に対する待遇改善を求めた経緯など新聞不配に向けた「文書」を配布しました。この文書に対する購読者からの問い合わせや文書の現物を入手したのでしょう、ことの重大さに気づいた店側から再度話し合いの提示があり、当日午後8時から店側と待遇改善を求めた学生店員との協議の場が設けられました。
しかし話し合いは平行線に終わり、約2時間後の午後10時に決裂しました。結果的に私たちは当初予定の翌朝の新聞からの「不配行動に入る」ことの確認をし、実行に移したわけです。

日頃、早朝起きて朝刊を配り帰店後、朝食を摂って登校するといった日常生活が、「新聞配達拒否」の行動に入ったことで、現実が<非日常>の状態になったわけです。いつもであれば<ズル休>モードに入る私なのですが、この日だけは何故か「気持ちの揺り戻し」を図ったのか無性に学校へ行きたくなり、事実、1時間だけ受講し早退しました。学友の何人かに「いま職場がスト状態なんだ…」と伝えましたが、皆は「そうなの…」といった顔をしたまま何も聞いてきません。これには助かりました。ストに至る経緯や今後の動向を尋ねられたら何と答えてよいものか…と思案したこともあったので、多くを語らず早目に学校を出ることができました。

待ち合わせ場所で落ちあい、二人は午後2時に有楽町の新聞本社へ向かいました。来意を告げ応接室へ通され待っていると販売店の統括責任者D氏が現れ、座ると同時に「何ごと?」と尋ねます。そこで私が「私たちの販売店は今朝からストに入っており、新聞を配達しておりません」と話しました。するとD氏は「なんだって…」といったかと思うと、すぐさま立ち上がってドアを開け消え去りました。しばらく経ってからD氏は戻ってきましたが、多分、事実確認と当面の対応策を講じていたのでしょう。そこで問われるまでもなく、ストに至った経緯と現状について手短に話しました。実際に応接間にいたのは30分位だったでしょうか。お互い長居をするほどでもない状態でしたので早々に退室しました。
このとき私は、D氏に対し何故か冷静に話しが出来たことに驚いていました。そして今回のストを伴う事態の推移に、何故か覚めた目で見つめている自分を発見したのです。そのことを見据えたうえなのかは解りませんが、リーダー格の学生店員から新聞本社への対応を私に指名したのかも知れません。

■スト決行前日に配布した「文書」
手元にスト決行前日に購読者へ配布した「文書」があります。B4版のワラ半紙に謄写版で3500枚を印刷しています。ストに加盟した店員が配達する世帯数から割り出した数字でしょう。今日、改めて読み直してみますと、当時の新聞配達所の待遇の実態が強烈に蘇ります。【写真↓=部分掲載】(画面をクリックすると拡大)



私自身は中学を卒業した足で新聞店に入店し、生活と職場が混在一体となった世界で生きてきたので「待遇が悪い」などと言ったところで、どのように対応してよいものか全く分からずじまい。中卒の身にとって他の世界も知らないし、ともかく現状の生活に自分の体質を合わせていくしか方法はないわけです。その点、大学に通っている店員は幅広く世界を見ており、新聞店の住込みも「通過点のひとつ」位に考えていたのかも知れません。
でも、「それにしてはひどい労働条件だ」という思いが根底にあったのでしょう。配布した「文書」には現況の分析と、「待遇改善」への要望が簡潔明瞭にまとめられています。

『お知らせとお願い』と題した文書では、冒頭に「私たちアルバイト学生は、皆様と店主側の厳しい要望に沿うように尽くしてまいりました。どなたも御指摘下さいますように、新聞アルバイトは非常に特殊、且つ重労働だといわれます」と前置きしたうえで、新聞配達に伴う時間帯や作業実態の現状を述べています。そのうえで「それにひきかえ、我々の待遇は手取り1万5千円のみ。6畳(3~4人)におしこまれ、更に時間の不均衡からくる睡眠不足、学業時間の不足、低賃金、特殊労働からくる過労に悩み続けてきました」、更に「専業店員と我々との待遇条件等は、単に給料面からだけをとっても差があまりにもあり過ぎることです」と問題点の整理を行っています。

続けて「さて今般、私たちは、これらからくる不正当を正すために最終的な申入れをいたしましたが、店主側は形式的にのみ退け、私たちの意向はまったく無視されました」と述べたうえで、「店主側の提示」として私たちの「要求」(給与の「一律50%以上」の賃上げ)を認めるが、その条件として ①新聞購読の拡張をすること ②現行の食費に3千円を加算 ③健康保険料、その他の条件を提示してきました。その結果、「僅か千円~2千円のアップ」で店側の回答を呑むことを強いてきたわけです。
そこで文書には、「これでは私たちの要求は改善されるどころか、増々厳しくなります。私たちは、もはやこの陳腐な形式と疲労を忍従することはできません」と述べたあと、「私たちは配達を支える直接の足であり、私たちの目的は何よりも安定したアルバイトのもとで通学し、学業に専念することです。店主側は、条件が気に入らなければ『やめるしかない』と申します。正当とは思えない条件をのみ主張する店主側の態度に、もはやこれ以上、私たちは忍従することはできません」
そこで、「店主側に納得させるために最適な手段としてストを決行することに致しました」と結ばれています。

■店主の思いとの落差
私が働いていた新聞配達所の店主は、当時、60歳半ばか70歳位で高齢に感じました。年齢的に戦前から裸一貫で新聞配達一筋に苦労を重ね、東京郊外の高級な住宅街の販売区域を任せられ今日に至ったと思われます。外観は筋肉質の重厚な身体とテキ屋の親分肌の凄味のある面構えが特徴でした。それだけに商売に対する考えは徹底しており妥協を許さない姿勢は、私などの若造にとっても魅力ある風貌として映っていました。
しかし、今回の待遇改善に対する私たちの要求に対しては、店主自らが営々と培ってきた新聞配達業の基本というものが通じなくなってきた…つまり時代の要請に乗りきれなかったのではないかと思います。このことは新聞配達業に限らず、あらゆる業態で戦前・戦後に一貫して商売道を続けてきた人々に共通している認識で、「俺の目の黒いうちは、店員(社員)に勝手なことは言わせないぞ」といった思い込みがあったのではないでしょうか。

戦前・戦後の激しい弾圧を潜り抜けて労働者の権利意識は強まり、そのことが労働法のなかに反映されています。「工場法」を引き合いにだすまでもなく、産業革命期において苛酷な労働を強いられた工場労働者を保護することを目的として制定されたこの法律は、「1日8時間・週48時間労働」を定めるなど、労働条件・労働時間規制が進んでいます。しかし戦後20年を経たとはいえ60年代末当時は、いまだ学生など若年労働者に対して過酷な労働を課している実態は時代に逆行していたと言わざるを得ません。
また、店主や専従店員などは新聞配達に関する仕事に専念していればよいのですが、私たち学生は学業に専念することを前提に労働し、その対価で生活しているわけです。ここに私たちと店側、店主との考えに大きな落差があるわけです。

――やがてストは長期化していきました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする