諸行無常の響きあり

フィリピンの小さな焼き鳥居酒屋の親父のつぶやき

私の中のフィリピン感

2011年08月14日 12時09分36秒 | つぶやき

ここ最近フィリピン在住日本人の話を聞くことが多い。大概は自分の家庭の中の話や、マニラ近郊の歓楽スポットの話、こちらでの生き方や生活の話・・・・。共通しているのは伴侶がフィリピーナと言うことである。外国、フィリピンの中の日本人として思うことであるが、基本的にここフィリピンの大家族主義の中での葛藤、即ち家族に対する考え方が違うということである。

伴侶であるフィリピーナは亭主や子供の収入は家族全体で使う物と信じて疑わない。普通の成人の日本人であれば家庭を守る為に何がしかの収入を得る手段を考える。年金生活者であればその収入が頼りになるだろう。現役で仕事をしていれば、それが収入源になる。そこで夫婦間の考え方の相違が生まれてくる場合も多い。

子供が幼ければ我が子の将来を考えるのが普通である。日本のように核家族化が進み、兄弟親子共々それぞれの自己の生活が中心になる。日本人的発想なのか、他国の人たちも同じなのかは解らないが、しかしここフィリピンでは親子兄弟は皆家族であり、そこの中で問題が発生すると生活が安定している家庭に頼ることになる。

ここではそれが普通の感覚なのである。親は子供を育てる義務があると言うのは全世界共通だと私は思うが、子供を育てる為にかかる経費を捻出する義務も親にはある。我々日本人と家庭を持っているフィリピーナは確かに生活の安定している家庭も多い。普通は我が子の幸せを喜ぶのは親としては当然のことではあるし、それ以上何を望むことも無いだろう。

しかしここフィリピンではそれが普通の感覚ではなく、我が子が幸せと言うことだけではなく、そこに親兄弟の幸せまでもが同居してくる。そこが最も論点となるところでもあるし、それが原因で家庭が崩壊していくケースも珍しくない。金銭と言う感覚ではなくこちらで言うところのTulong(助ける)という言葉がいつも出てくる。これがカトリックの教えなのか、子供を教育する過程で出てくるのかは定かではないが、この意味合いがいつも引っかかることになる。

全能の神ですら全人類を助けることは不可能であろう。助けると言うことは即ち自分に余裕があって始めて他人に目が行く。この助けると言うタガログ語の意味は、もしかしてもっと深い意味合いがあるのかもしれない。あるKTV店に勤める女性が言っていた。

『私は兄弟や親を助けなければならない、だから私は今必要とあらば体を売って収入を得ることも厭わない』

だそうである。

これがもしフィリピンでの生活の中で普通の考え方として浸透しているならば、まことに恐ろしい洗脳ということになる。親は建前で子供の為と言って、その実普通の娘が稼げる筈も無い金銭を持って家に帰る、これは暗黙の了解でお互いが納得しているとしたら、その考え方のまっただ中おかれる我々日本人は机上論を唱えても全く無駄と言うことになる。

果たして富裕層社会ではどうなのだろう?とある有名私立大学では女性徒のスキャンダル問題が絶えないと言う。親が学校に入れるだけの資金力があり、子供も普通に学校へ通う、しかし本人は更に金持ちの生徒を羨ましく思い、同じような持ち物や同じような生活を夢見る。しかし親から貰うバジェットではとても足りない、したがってやはり世界最古の職業の売春に走る女性徒もいるということである。

最近フィリピンのSNS(FBではない)に登録してロム専で覗くこともあるが、そこに登録している女性達は自己アピールと写真が専門で全く中身の無い内容のプロフィールが多い。男女の出会いを前提としているのであろうが、ある女性からメッセージを貰い貴方に質問がありますと言う内容だった。

『あなたはここのサイトに登録して何を求めているのですか?写真付きのMSGを沢山貰っているのに返事も返さない、どういうつもりなんですか?』

と言うような内容だったと思うが、ド派手な花の写真の中に『貴方の幸せを願います』なんてメッセージを貰ってもどう反応していいか解らない。したがって私は早々に退会したが、その手のサイトを楽しんでいる姿が本当の意味でのフィリピーノなのかもしれない。今私の中で出た結論は、限られた楽しみの中で精一杯楽しむ、そこに他人の反応などは関係ないのだ。一度も会った事も無い人間に対してLove なんていう言葉を平気で使う。これは反応を期待しているのではなく、自己満足なのである。

 

話を元に戻すが、家庭内に置いてのフィリピン人、逆に言えば肩の力を抜き、彼らと同じ生活水準、考え方になれば逆にこれほど頼もしい楽しい人種はいないのではなかろうか・・・・というのが最近私が感じるフィリピン感である。

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