おととい、詩の欄にUPした2編の詩のうちの「赤い月」に関して少し書いてみたい。
私は藤原新也の著書『東京漂流』以来ずっと彼の愛読者であり続けている。『東京漂流』は私の視点に大きな影響を与えた一冊のバイブルのようなものだった。私の最も敬愛している人の一人で、彼の著書は手にいる限りのほとんどを持っている。
でも、写真集についてはかなり高価なのでビンボー人の私にはなかなか手がでない。悔しい。
去年の秋、彼の新書『黄泉の犬』が出版された。当然ながら私はすぐに買って読んだ。
それはまさに衝撃の書だった。読み終えたとき私は思った「東京漂流を越えたな」と・・・。
にもかかわらずマスコミやメディアは不気味なほどその本を無視し、出版元の文藝春秋さえも
その内容があまりに衝撃的であるせいか、プロモーションすることさえはばかったと思われる。
藤原新也は作家の域を超えた思想家である。彼の本を読めば、この現代のニッポンという国を
最もよく知ることができる。ちなみに彼のサイトにはアメリカのペンタゴンからちょくちょくアクセスがあり、どうやら彼の著書の愛読者がいるらしい。さもありなんである。
前著『渋谷』が出た時はマスコミもメディアもこぞって絶賛し大々的に取り上げたのに、
『黄泉の犬』については、まるで圧力をかけられたように沈黙し黙殺したのだ。
そう、それは“タブー”に触れているからだ。
オウム真理教はなぜサリンを撒いたのか。事件当時はどのテレビチャンネルでも学識者やコメンテーターが雁首を並べ、けんけんごうごうの論争を繰り広げていたのに、あれから12年が経った今も何ら真相の分からぬまま、人々はあの忌まわしい事件をもうすっかり忘れてしまったように見える。彼は風化しつつあるその凪いだ湖面に一つの“試論”という一個の石を投げた。
波紋は確かに広がったはずだ。自然の法則に従えば・・・。でも何らかの力でその波紋は消されたように見える。
藤原新也という人は、まれにみる“覚悟のできた人間”だと思う。
彼の文章が私は大好きなのだけれど、写真もまたあるがままの真実を写し出し、世界を肯定させる不思議な力を持っている。彼はファインダーを覗きシャッターを切る時は、いつも左の目を使うという。彼の左の目によって切り取られた永遠という瞬間に、なぜこんなにも私は魂を揺さぶられるのか・・・それは謎だ。
私は『黄泉の犬』を読み、それにインスパイアされて「赤い月」という詩を書き、歌った。
それは藤原新也の左の目に捧げたものでもある。
私は藤原新也の著書『東京漂流』以来ずっと彼の愛読者であり続けている。『東京漂流』は私の視点に大きな影響を与えた一冊のバイブルのようなものだった。私の最も敬愛している人の一人で、彼の著書は手にいる限りのほとんどを持っている。
でも、写真集についてはかなり高価なのでビンボー人の私にはなかなか手がでない。悔しい。
去年の秋、彼の新書『黄泉の犬』が出版された。当然ながら私はすぐに買って読んだ。
それはまさに衝撃の書だった。読み終えたとき私は思った「東京漂流を越えたな」と・・・。
にもかかわらずマスコミやメディアは不気味なほどその本を無視し、出版元の文藝春秋さえも
その内容があまりに衝撃的であるせいか、プロモーションすることさえはばかったと思われる。
藤原新也は作家の域を超えた思想家である。彼の本を読めば、この現代のニッポンという国を
最もよく知ることができる。ちなみに彼のサイトにはアメリカのペンタゴンからちょくちょくアクセスがあり、どうやら彼の著書の愛読者がいるらしい。さもありなんである。
前著『渋谷』が出た時はマスコミもメディアもこぞって絶賛し大々的に取り上げたのに、
『黄泉の犬』については、まるで圧力をかけられたように沈黙し黙殺したのだ。
そう、それは“タブー”に触れているからだ。
オウム真理教はなぜサリンを撒いたのか。事件当時はどのテレビチャンネルでも学識者やコメンテーターが雁首を並べ、けんけんごうごうの論争を繰り広げていたのに、あれから12年が経った今も何ら真相の分からぬまま、人々はあの忌まわしい事件をもうすっかり忘れてしまったように見える。彼は風化しつつあるその凪いだ湖面に一つの“試論”という一個の石を投げた。
波紋は確かに広がったはずだ。自然の法則に従えば・・・。でも何らかの力でその波紋は消されたように見える。
藤原新也という人は、まれにみる“覚悟のできた人間”だと思う。
彼の文章が私は大好きなのだけれど、写真もまたあるがままの真実を写し出し、世界を肯定させる不思議な力を持っている。彼はファインダーを覗きシャッターを切る時は、いつも左の目を使うという。彼の左の目によって切り取られた永遠という瞬間に、なぜこんなにも私は魂を揺さぶられるのか・・・それは謎だ。
私は『黄泉の犬』を読み、それにインスパイアされて「赤い月」という詩を書き、歌った。
それは藤原新也の左の目に捧げたものでもある。