次回の朴の会のオンライン講座は当初4月24日の予定でしたが、
5月1日1時半からにさせていただきます。
詳細は改めてご案内しますが、作品は森鷗外の『舞姫』を取り上げる予定です。
森鷗外の『舞姫』は近年、そのモデル問題の考証が膨大に行われていて、
新たなライトが当たっています。
もちろんそれが『舞姫』という文学作品の新たな価値や意義を発掘する
契機になることが望ましく、これを踏まえておきますが、
コロナ禍の中、改めて作品の価値・意義を捉え直しておきたいと思います。
一言で言えば、『舞姫』の一人称の〈語り手〉の帰国する途中、
「余」は手記を綴っていますが、これは何を語ろうとしていたでしょうか。
身籠ったエリスは自分が見捨てられることを知って発狂、
しかもそれでもなお「余」、太田豊太郎を気遣っている。
「余」はいかなる人物で、何を語ろうとしていたのか。
これを私はどう読んでいるか、もう何度も『舞姫』論を発表してきました。
人生の最後、自身の中で決着を着けたいと思っています。
前回の拙稿の『なめとこ山の熊』論もそういう思いで書きました。
天沢退二郎さんたち、賢治研究との決別の思いと、
賢治研究の恩恵にあずかっていることの大きさ、その双方を意識しました。
賢治は世界観の転換を自らの魂で語っています。
これにご関心のある方は、拙稿「『なめとこ山の熊』の行方―先に死のうとする熊と小十郎―」を
前回の記事に掲載していますので、ご覧ください。
私個人の最近の作品の読みは、都留文科大学と大学院の研究紀要にそれぞれ掲載しています。
大学の紀要に魯迅の『故郷』論、大学院の紀要に村上春樹・あまんきみこの作品論です。
今度は『舞姫』をどう読むかをお話します。
5月1日1時半からにさせていただきます。
詳細は改めてご案内しますが、作品は森鷗外の『舞姫』を取り上げる予定です。
森鷗外の『舞姫』は近年、そのモデル問題の考証が膨大に行われていて、
新たなライトが当たっています。
もちろんそれが『舞姫』という文学作品の新たな価値や意義を発掘する
契機になることが望ましく、これを踏まえておきますが、
コロナ禍の中、改めて作品の価値・意義を捉え直しておきたいと思います。
一言で言えば、『舞姫』の一人称の〈語り手〉の帰国する途中、
「余」は手記を綴っていますが、これは何を語ろうとしていたでしょうか。
身籠ったエリスは自分が見捨てられることを知って発狂、
しかもそれでもなお「余」、太田豊太郎を気遣っている。
「余」はいかなる人物で、何を語ろうとしていたのか。
これを私はどう読んでいるか、もう何度も『舞姫』論を発表してきました。
人生の最後、自身の中で決着を着けたいと思っています。
前回の拙稿の『なめとこ山の熊』論もそういう思いで書きました。
天沢退二郎さんたち、賢治研究との決別の思いと、
賢治研究の恩恵にあずかっていることの大きさ、その双方を意識しました。
賢治は世界観の転換を自らの魂で語っています。
これにご関心のある方は、拙稿「『なめとこ山の熊』の行方―先に死のうとする熊と小十郎―」を
前回の記事に掲載していますので、ご覧ください。
私個人の最近の作品の読みは、都留文科大学と大学院の研究紀要にそれぞれ掲載しています。
大学の紀要に魯迅の『故郷』論、大学院の紀要に村上春樹・あまんきみこの作品論です。
今度は『舞姫』をどう読むかをお話します。