〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

『高瀬舟』は「読むこと」の問題が満載(2)(更新)

2020-09-27 18:27:24 | 日記
前日の続きです。
(若干書き改めました。)

あらかじめ『高瀬舟』を読んできた読者に、意外と思われることを先に言っておきます。
『高瀬舟』の物語の核心であるはずの喜助の弟殺しの事件の真相は、
京都町奉行所が半年もかけて調べたこと、
ところが、奉行所の捉える枠組みのなかに事件の真相は実は、ない、
まだ隠れたままになっているのです。
いや、奉行が取り調べたこの不思議な事件、
何しろ犯人は毫光の指すように護送の役人には見える、
物語の視点人物である同心の羽田庄兵衛の捉えているパースペクティブ・まなざしにも
捉えられないものだったのです。
弟殺しの罪人喜助自身の内奥に何が起こっているのか、それは彼らには見えないのです。
そこに『高瀬舟』の仕掛け、構造があると考えます。
それでは『高瀬舟』とはいかなる小説なのか、
これから少しずつ、お話します。

喜助は羽田庄兵衛に問われ応える際、〈語り手〉はこれを喜助の長い直接話法で表現します。
それはその言葉の聴き手である物語の視点人物、羽田庄兵衛の枠組みに拘束されない、
喜助自身の内なる声を表現するためです。
そこには半年もかけて繰り返し繰り返し調べられた奉行たちとのやり取りの成果が表れています。
何度も考え抜かれたため、整いすぎるほど条理の整った説明でした。

ところが、その条理の整った説明は、誰が聴いても、同じように事態を再現できるかといえば、
そうはなりませんでした。
奉行は弟殺しの殺人この事件を喜助の「心得違い」、
誤って弟を殺してしまった過失致死だと捉え、
遠島という判決を下しました。
一方、護送の役人、同心の羽田庄兵衛の方は過失致死の考えを斥け、
楽に死なせるための安楽死による殺人と考えたのです。

それでは殺した当人の喜助はこの事件をどう捉えているか、と言えば、
お奉行様が「心得違い」であると判決を下しているので、
その通り、誤って弟を殺してしまった、といささかのわだかまりもなく受け止めています。
そこにはわずかの疑いも残していません。
〈語り手〉は、喜助は同心の庄兵衛にも「温順を装って権勢に媚びるのではない」、
「公儀の役人」を敬っていると語っていました。
喜助は、銭二百文を元手に島で働けるとの喜びを庄兵衛に告白します。
そこにもいささかの偽りはありません。
日頃金銭で不足を憶える庄兵衛から見ると、銭二百文で満足して喜ぶ喜助と自分とは、
まるでそろばんの桁が違うように違っているだけではない、
苛酷な境遇に不平不満がなく満足し、受け入れている、
偉大なる人物ではないかとの思いが起こり、
喜助の姿が仏のごとく、毫光がさすような立派な人物に見えます。
喜助を心から尊敬しているのです。
だからです。
そういうまなざしでこの弟殺しの事件のことを捉えているから、
当初から奉行らと見方が異なるのです。
次は庄兵衛の内なる声、庄兵衛の解釈です。

  弟は剃刀を抜いてくれたら死なれるだらうから、抜いてくれと云つた。
  それを抜いて遣って死なせたのだ、殺したのだとは云はれる。
  しかし、其儘にして置いても、どうせ死ななくてはならぬ弟であつたらしい。
  それが早く死にたいと云つたのは、苦しさに堪へなかつたからである。
  喜助は其苦を見てゐるに忍びなかつた。苦から救つて遣らうと思つて命を絶つた。
  それが罪であらうか。

庄兵衛の解釈では喜助は弟殺しの罪を犯したのではない、
弟を殺したのは弟の苦から救うための行為、
今で言うユウタナジ―、安楽死させたのであり、
「心得違い」などをしていない、むしろ殺す形で苦から救った、「心得」てなしたのです。

それでは奉行はどう見ていたのか。
弟は喉に突き刺さった刃で苦しみ、喜助に早く抜いてくれと、
「敵の顔でも睨むやうな、憎々しい目」になって訴えます。
そこで、喜助は次のように言います。

  わたくしは剃刀を抜く時、手早く抜かう、真直に抜かうと云ふだけの用心はいたしましたが、
  どうも抜いた時の手応は、今まで切れてゐなかつた所を切つたやうに思はれました。
  刃が外の方へ向いてゐましたから、外の方が切れたのでございませう。

この喜助の発言・告白を奉行はしっかりと受け止めて、
事件の出来事を正確につかみ取っています。
すなわち、喜助は弟の苦痛を取り除くため、剃刀を手早く抜こうとして、
引き抜くとき、思わず刃が外に向いて喉笛を切ってしまった、
この後気づくと弟は死んでいた、弟の死はこれが決定した、
つまり、喜助が誤って喉笛を切ったことが致命傷となった、こう判断したのです。
喜助の発言には直接的に殺そうという意志や意識は現れていません。
喉に剃刀の刺さったままの状態はまだ死ぬかどうか、決まったわけではない、
弟の要求に応じて剃刀を抜いた際の手違いで弟は死んだのです。
喜助は図らずも殺したのだから、それは「心得違い」、過失致死なのです。
奉行は庄兵衛のような先入観はありません。
奉行に敬意を抱きながらも、今回の件では「腑に落ち」ない庄兵衛が、
もし、実際奉行に聞いて見たら、奉行は庄兵衛の勘違い、思い込みを
理路整然と「条理」に基づいて説明できるはずです。


ところが、これを語っているナレーターはその奉行とも、庄兵衛とも異なる、
もちろん喜助当人の意識とも異なる、別の解釈に基づいて、
この物語を語り始めていたのです。
いわば、この物語は語られている登場人物たち、
すなわち、奉行・喜助、庄兵衛、ナレーター、この四つのまなざし、
四つの時空のコンテクストがすれ違いながら交差していたのです・・・。

後は次回にしましょう。
 


9 コメント

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Unknown (周非)
2020-09-27 23:38:58
『高瀬舟』に関する先生のご論述から大変勉強になっております。
一つ質問をさせていただきたいと思います。
先生の今日のブログの末尾には、奉行、庄兵衛、喜助、ナレーターの四つの時空のコンテクストがすれ違いなから交差していたと書かれています。その内のナレーターの時空が、奉行、庄兵衛、喜助の三つの時空を内包していると理解してよろしいでしょうか。
教えていただければと思います。よろしくお願い致します。
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周さんへ、 ()
2020-09-28 08:43:03
周さん、コメントありがとう。
 もちろん、ナレーターである〈語り手〉が冒頭から結末までをすべて語っています。物語全体をすべて語る主体を私は〈語り手〉と、もう何十年も呼んできました。
 そのお話の中に作中人物、ここでは庄兵衛が視点人物、喜助はその対象人物、この二人が登場します。奉行は直接登場しませんね。二人の会話をナレーターが語ります。その話法には直接話法、間接話法、自由間接方があります。
研究論文の中には視点人物を〈語り手〉と呼んでいるものを多々見ます。用語がバラバラで、いかに学問として近代文学研究が未発達かが分かると思います。
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Unknown (周非)
2020-09-28 16:19:04
田中先生、ご返事ありがとうございます。
語り手が「地下二階」から、庄兵衛と喜助のそれぞれの時空を囲い込んで語っていると理解していますが、語り手の「時空」の意味とは、語り手が複数の時空を語ることによって語ろうとすること、ということでしょうか。
教えていただければと思います。よろしくお願い致します。
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周さんへ ()
2020-09-28 17:48:27
ご質問に対してお答えします。
そうお考え下さい。
田中の言う〈語り手〉は語られた出来事のメタレベルで働いています。
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付け加えて ()
2020-09-29 10:04:28
ご質問は実は、小説を読む際のごく基本的で原理的なことなのですが、残念ながらその共有が研究者の間にありません。ここに学問の在り方全体の欠陥・弱点が現れている、これがわたくしの立場です。その意味で、周さんのコメントは極めて重要と思われます。
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『高瀬舟』の「作品の意志」 (周非)
2020-09-29 10:53:30
田中先生、ご返事ありがとうございます。
おっしゃったことがよく分かりました。
『高瀬舟』の先行研究を整理していながら、「近代小説」とは何か、「近代の物語」とどう違うか、この根本的問題に対する問題意識自体、ほとんどの研究者たちが持っていないと感じております。
先生の用語でいうと、『高瀬舟』の「作品の意志」が先生のご論によって明確にされていると考えます。
前回のご講義でお話になった、『高瀬舟』に語られた官僚機構を相対化する超越的な生の輝き、生命の根源とはなにかの問題について、更にお聞きしたいと思っております。
よろしくお願い致します。
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周さんへ ()
2020-09-29 14:09:29
はい、基本的で原理的なご質問です。

 近代小説の物語はリアリズムを前提にし、これを推し進めています。これをわたくしは近代小説の本流と考えています。しかし、近代小説の神髄はこのリアリズムを前提にしながらも、本流の物語の枠組みから逸脱して不条理性に挑み、時空の複数性に向かうのです。
 すなわち、物語の時空は座標軸が複数となって現れるのです。これら複数のまなざしが互いにすれ違いながら立体的に交差して、これが劇・ドラマを成すと考えています。

 鷗外は明治22年1月の『小説論』で科学的認識に裏打ちされたリアリズムの外部で捉えられる感覚の絶対性を近代小説の根拠とします。鷗外はその翌年1月から処女作『舞姫』以下の三部作を世に提出しました。最後の小説は『高瀬舟』、『寒山拾得』これに関してはブログでお答えしますね。
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素朴な質問です。 (丸山義昭)
2020-10-03 12:06:11
『高瀬舟』は「読むこと」も問題が満載(1)~(3)を拝読しました。
大変分かりやすく整理されていると思いました。「安楽死」という庄兵衛の見方、お奉行の「心得違い」という見方、お奉行と同様の喜助の捉え方、それらを超える〈語り手〉の領域、ということが段階に沿って書かれていて、ついていきやすいと思いました。
ただ、素朴な質問ですが、一箇所、(1)の
「関係概念である作品の作者と同じですが、……」
とあるところ、「関係概念である作品の作者」というのは、普通に言われる「作者」と同じなのか、違うのか、それから、これに引き続いて、
「作者はタイトルや書名にまで関わっているところが、ナレーターとは異なります。」
とあるところ、タイトルは、一人称小説の場合は〈機能としての語り手〉がつけたもの、三人称小説の場合は〈語り手〉がつけたもの、そう捉えてはいけないのでしょうか。
たとえば、私がこれから授業しようとしている川上弘美『神様』の場合、「神様」というタイトルは、「わたし」という〈語り手〉でなく、〈機能としての語り手〉がつけたもの、と考えているのですが、それでよいでしょうか。以上のことをお聞きしたいと思いました。

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丸山さんへ ()
2020-10-04 10:05:58
以下はわたくしの使い方、いつも言っていることに過ぎません。

「作者」は作品の作者の意味で関係概念、「作家」は生身の人物で実体概念、これらを峻別しています。「作者」は署名し、タイトルまでを含み、記述全て決定します。〈語り手〉はこれを除き、読み手に現れる〈語り―語られる〉相関の力学によって現れる叙述全体を統括していると考えています。
すなわち、ナレーターの〈語り手〉は〈語り―語られる〉相関の枠内での働きとして現象し、タイトルや署名者の記述には関われないと私は考えています。
『神様』は「わたし」という一人称小説、「わたし」が〈語り手〉であり、作中の物語空間に直接登場します。そこではピクニックの相手の熊との時空を共有しています。そこでこの「私」の出来事を語る〈語り手〉を実体概念の「わたし」と峻別して〈機能としての語り手〉と呼びました。実体概念として物語空間に登場する「わたし」とそれを語る〈語り手〉とは区別する必要がありますね。
二人称・三人称ならわざわざ〈機能としての語り手〉などと言わずに済みますが、一人称の場合、「わたし」は作中の物語空間に直接登場しながら、同時に〈語り手〉でもありますから、この生身の〈語り手〉の「わたし」と区別されなければなりません。しかし、これは「作者」ではありませんから、タイトルや署名者は「作者」概念の中に包括しています。こうしたことは使い方の問題です。
念のため、なお、どういうペンネームにするかは、実体概念の作家にとって、極めて重要な場合があります。

なお、疑問があれば、ご質問ください。
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