アンニョン from ソウル~続き

「涙と笑いのソウル生活」のその後

歴史はおもしろい!

2006-11-20 | 韓国生活
9月から行き始めたソウル市民大学。いろいろな角度から見る「韓日関係史」。話を聞けば聞くほど、韓国と日本のつながりの深さにただただ驚かされるばかりです。

今日は、先生が風邪気味だったため、授業の前半は15年ほど前にNHKで放送された「歴史発見」を見ました。これがまた非常に興味深い話だったのです。豊臣秀吉の汚点とされる1592年から7年続いた文禄・慶長の役。最後は、日本軍の敗北で幕を閉じた訳ですが、わずか2ヶ月で釜山から平壌までを征服した日本兵がなぜ敗れたのか?その理由を探ると言うのがテーマでした。この文禄・慶長の役の時に日本に連れてこられた朝鮮人の末裔、陶芸家の沈さん(下の名前忘れました)が、自分先祖のルーツを探る中で発見した興味深い話です。

日本兵が平壌を陥落した後、なぜそれ以上進めなかったのか。それは日本兵の中で、朝鮮側に寝返った兵士が何千人もいたから。文献には“降倭(こうわ)”として登場します。その中でも「金忠善」と呼ばれる人物の存在が朝鮮軍の勝利に大きく影響したと言うのですが。実はこの人物、朝鮮側に寝返った日本人なのです。文献の中では、“沙也可(加)(さやか)”と言う名前で登場します。またの名を“阿蘇之宮越後守(あそのみやえちごのかみ)”。いろいろ調べたところによると、現在の和歌山市にいた、どの大名にも支配されなかった鉄砲隊“雑賀(サイカ)”衆ではないかと。豊臣秀吉により弾圧され、日本のあちこちに散らばったこの集団の一部が、阿蘇に逃げのび阿蘇の大名に仕えて、やがて朝鮮出兵したものの、豊臣秀吉に復讐するために朝鮮側に寝返ったと言うのです。それまで鉄砲が伝わっていなかった朝鮮に、鉄砲製造の技法を伝えたのがこの人物だと言われています。

その後、現在の大邱市にある「友鹿洞(ウロクトン)」へ住み付き、今も彼の末裔「金」氏たちがここに住んでいます。金という名前は、百済の王家の名前なので、彼の貢献がどれほど朝鮮側で評価されていたかが伺えます。15年前の時点では、“沙也可”から数えて14代目のおじいさんがインタビューに答えていました。そこには、“沙也可”のお墓もあるそうですよ。“沙也可”の末裔の一人である「金到烈(キム・チヨル)」さんは、朴大統領時代に検事から法務大臣にまでなった有名な人だそうです。

歴史は知れば知るほど奥が深くておもしろい~ そして韓国と日本のつながりは深いのですよ。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (北の国から)
2006-11-20 23:07:10
おー!その沙也可の話聞いたことある。青龍の道だったかなあ?そんな名前の漫画が有ったがその中に出てきてたぞ!それ自体は歴史の漫画ではないんだけど、現代の日本とそこで韓国から来た警察官のお話でさ・・・何だかあんまり内容覚えていないんだけど残酷な話じゃった~。何がいいたいの?って まあ別に何が言いたいと言う訳ではないのですが・・・・結構知られてない歴史と言うか学校では余り触れないよね。
返信する
Unknown (Miffy)
2006-11-23 19:50:37
学校で触れない歴史が一杯ですよ。韓国に来ると、他の国にいる以上に日本の歴史を勉強しないとだめだなと実感します!
返信する