引き続き、東京駅の八重洲口で建設中の歩行者用デッキ「グランルーフ」を観ながら散策を続けていきます。東京駅の敷地の皇居側は「丸の内口」、そしてこちら京橋側は「八重洲口」と呼ばれています。丸の内と八重洲とでは、周囲の街並みの雰囲気が全く違います。
大正時代創建の丸の内駅舎と皇居まで伸びている行幸通り、戦前の旧三菱財閥の系譜を引き継ぐ大企業の本社ビルが密集している丸の内と比較すると、八重洲地下街や大丸百貨店など商業施設の割合が多いことが特徴です。
グラントウキョウサウスタワーとグランルーフの構造体の間に、丸の内口側に建っている高さ200メートルのJPタワーが綺麗に見えました。
グランルーフの大屋根の下、高さ7.5メートルの位置に歩行者用デッキの工事が現在進められています。グランルーフの南北両側に建っているツインタワー同士を結ぶルートとなっています。
八重洲口前を走る外堀通りが千代田区と中央区の境界線となっていて、中央区側のエリアが一般的に「八重洲」と呼ばれています。ちなみに、グランルーフやグラントウキョウノース・サウスタワーが建っている場所は「千代田区の丸の内地区」に含まれているのです。
八重洲の地名は、ここに住んでいたオランダ人ヤン・ヨーステンの和名「耶楊子(やようす)」に由来しています。彼は江戸時代に日本に漂着し、後に徳川家康の国際情勢顧問や通訳として活躍し、家康からこの地に邸を与えられたのです。
八重洲口前の外堀通り周辺の地下には日本で2番目に広い地下街である「八重洲地下街」が広がっています。東京駅構内の八重洲寄りにある東京駅一番街と共に、巨大なショッピングゾーンが地下に広がっているのです。
グランルーフの南端部に入居している「JR高速バス乗り場」が小さく見えました。建物内には高速バスのチケット売り場やバスの乗客専用の待合室などが整備されています。
元々の「八重洲」は現在の丸の内に相当する地域のうち、丸ビルと三菱ビルの間に存在する通りの南側を指す地名でした。ヤン・ヨーステンの屋敷も内堀沿いに存在しました。「丸の内」は北側の永楽町と併せて江戸城の外壕の内側を指すこれらの上位的な地理的概念として存在したのです。
グランルーフの北側にそびえ立つ「グラントウキョウノースタワー」を撮影してみました。ホテル国際観光が入居していた国際観光会館の跡地に建設されました。高さ200メートル、地上42階地下4階建てとなっています。
ノースタワーの低層階に入居している「大丸東京店」です。2段階に分けて建替えられ、第1期分では店舗面積34000平方メートルで先行開業しました。その後、第2期工事が完成したことで、2012年10月に46000平方メートルにまで増床しました。
地下1階~地上13階までが大丸東京店、17階~36階が大和証券グループ、37階が日本調剤グループ、38階が日本ビルファンドマネジメント、39階~43階がBNPパリバ・グループが入居しています。
ノースタワーの頭頂部をズームで撮影してみると、「GRAN TOKYO」の文字盤が打ち込まれています。
もともと現在の東京駅八重洲口付近には、江戸城時代の北町奉行所の在所でもありました。「奉行所」とは、江戸時代の警察と裁判所の役割を持った公的機関、それに加えて防災など現代でいう役所全般の職務を担当していました。
1914年(大正3年)には官営東海道本線が新橋駅から延伸する形で東京駅が開業します。当時は、日本橋側(現在の八重洲側)は駅のすぐ東側が外豪であったため、地形的な制約を受けて入口が設置されませんでした。