77歳の誕生日を迎えた直後に、体調不良を訴えて四日市〇〇病院を受診した『父』
いつも畑仕事をしながらビールを飲むのが好きで、買い出しに出かける私に「ビール買ってきておくれ」と言いました。
そのビールを飲んでから「なんや、おかしいわ、ビールが美味しないしフラフラするわ」と!
様々な検査が終わってから、主治医から話があると呼ばれ、母と共にナースステーションに行きました。
「半年、もつかどうか」と言われて、世の中が引っくり返るような衝撃を受けました!
「手術が終わったら、皆(我が家と妹家族)揃って迎えてくれよ」と笑顔で言った父でしたが、もう手術はできないと言われてました。
仕事をしながら、私は心の中で「父が亡くなるはずがない!」と唱え続けていました。
最初の入院は1ヶ月間でしたが、中旬に入院して翌月の中旬に退院が決まったので、二か月分の入院費請求が来ました。
月をまたいで入院すると、入院した月と退院した月の医療費がかかるのです。
(後期高齢者だったので、入院費は1ヶ月〇万円と決まっていました)父は高い方の額でした。
退院時に山ほどの薬を処方されて、本当に(嫌がる父に)飲ませるのに苦労しました
「こんなに飲ませて、食欲もないのに大丈夫でしょうか?」と質問しましたが「食べてなくても薬は必ず飲ませてください」と言われました。
父に薬を水と共に飲ませて、私が「飲んだ?」と聞くと「飲んだ」と口を開けて見せる父でしたが・・掃除をするとベットの下に錠剤の薬が沢山転がっていました~
(口の中に隠しておいて、誰にも気づかれないように捨てていたようなのです)
体調が良い日は朝から散歩に出かけ、帰宅すると冷蔵庫を開けて「きょうは気分が良いわ」と言いながらアイスクリームを食べていました。
でも、次第に体力がなくなってきて、どんな時にも家族が支えないと動けなくなってきました。
夜中にも何度も「〇〇ちゃん、〇〇ちゃん」と私を呼ぶので、起きて行って「何?」と聞くと「水」「アイスクリーム」「小豆が食べたい」と言います。
長男達が「母さんは仕事があるから、僕たちを呼んで」と言って、手伝ってくれました。
通院時は、病院に車を横付けして、母と二人で支えて院内の車椅子に座らせました。
「病院は嫌だ、家が明るくて良い」という父に、二度目の入院時は「個室で自宅と同じ環境にしてあげます」と看護師さんが言ってくれました。
長男が日程表を組んでくれて、家族全員で交代で父を看ました(絶対に父を独りにしないように!)
長男も私も仕事がありましたから、体力的にも精神的にも極限になり・・倒れそうでした~
あれから9年の月日が流れましたが、介護保険って何だったんだろうって思います。
車椅子も介護用ベットも借りることもなかったです(せめて、車椅子でも貸してくれていたら)
父の年金からは介護保険料が引かれていたのに、何の恩恵も受けないままでした。
義父さんを肺癌でなくされた知人も「何にも介護保険のお世話にならなかったと義母が怒っていた」と言っていました。
車椅子のステッカーを貼って走っている車を見かける度に、ふと考えることがあります。
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