ITエンジニアの九十九折(新)

これまで経験したことや考えを思いつくままに綴って行こうと開設しました。マラソンをするように長く続けて行くつもりです。

203.もう一つの8月9日

2010-08-31 | Voices
皆さんは8月9日と聞くと何を連想しますか?
多くの方は長崎の原爆記念日を思い浮かべ、あの悲惨さ
を回顧し、二度と同じ過ちを繰り返してはならないと胸に
刻み込む日でありましょう。

今年は65年目の節目の年でもあり、核保有国から初めて
式典への参加があるなど、新たな一歩を踏み出しました。

実は8月9日は日本人にとって忘れるべきではない出来事
があるのです。今日はそのことについて書きます。

1)不可侵条約
 この日は、旧ソビエト連邦(以下、ソ連)が不可侵条約
 を破棄して旧満州の日本領に攻め込んで来た日です。
 ソ連は、1945年5月ドイツが降伏し、後顧の憂いが
 なくなり、また日本の戦況が悪化し、敗戦濃厚なのを
 見越して、日本と交戦状態に入りました。

 当時、満州領には関東軍と帝国陸軍が駐屯していたもの
 の、互いの連携も悪く、ソ連は圧倒的な物量作戦を展開
 し、日本軍はなすすべもなく敗れたのでした。

2)シベリア抑留
 ソ連は、日本人(韓国人を含む)やドイツ人等の兵士、
 民間人の男子を捕虜として多数シベリア各地に移送し、
 社会インフラ整備のため抑留したのです。

 抑留者は概数でしかなく、今も実数は分かっていません。
 ソ連側資料によると、日本人約64万人、他国を含めた
 全体では何と417万人にも及ぶのです。

 主な社会インフラとしては、鉄道、鉱山、学校や病院の
 建設、さらには自分たちが入る収容所の建設などがあり
 彼らはその整備に従事させられました。

3)三重苦
 ツンドラ地帯のシベリアで抑留者たちを襲ったのが、
 極寒、飢え、そして重労働でした。

 真冬では零下30度にもなり、起居するにも大変な状況
 にあり、食料は1日にパンを1個程度と薄いスープしか
 支給されず、食べ物を巡って醜い争いも繰り広げられた
 そうです。
 また機械類も満足に無い中で建設や敷設に従事しなけれ
 ばならず、重労働を強いられました。
 これら三重苦のために、使役者となった多くの抑留者が
 次々と命を落としたのです。

4)国の対応
 国家のため犠牲となった抑留者と思えますが、日本政府
 の対応は冷ややかであったと言われます。
 これまで抑留者は何ら補償を受けられず、また謝罪も
 おこなわれたことはありません。

 一時期、10万円の旅行券や記念品の贈呈がおこなわれ
 たそうですが、生き残って帰国した人たちは、こんな
 不誠実な対応を見て、訴訟に踏み切り、何度も法廷で
 争って来ました。
 しかし、結果は残念ながら原告側の敗訴で決しています。

 現在多くが80代となりながら、今も業を煮やす日々が
 続いています。ここにも戦争の悲しい一側面が現存して
 いるのです。
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箱根の山は天下の剣

2010-08-25 | Weblog
Words&Words00036

「箱根の山は天下の剣 幽谷関も物ならず」

→先日、家族旅行で旧東海道を1時間近く
 歩いて来ました。

 その際、立ち寄った茶店に掲げてあった
 額に書かれていた有名な言葉です。

 この作詩は滝廉太郎だったのでしょうか。
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人間は一介の生物に過ぎない

2010-08-11 | Words&Words(言葉の断片集)
Words&Words00035

「どんなに科学万能になっても、人間は自分が神様の
 ようになれると思ったら大間違いで、やはり愚かし
 い一介の生物に過ぎない」
 手塚 治虫

出典:『ぼくのマンガ人生』(岩波新書)

→言わずと知れた手塚治虫ですが、根源には生命の
 尊厳という重いテーマが横たわっているようです。

 鉄腕アトムに代表されるような科学技術万能主義
 では決してないということが重要だと思います。
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202.名古屋Kさんの思い出

2010-08-04 | Weblog
この夏、一枚の暑中見舞いの葉書を受け取りました。

しかし、そこには衝撃的なひと言が添えられていたのです。
昨年の暮れにKさんは亡くなっていました。

私はそのとき、ようやく20年来続けて来た年賀状のやり
取りが今年途絶えた理由を知ったのです。

年初、Kさんから年賀状が来ないことを知ったとき、私
はまったく違う理由だと考えていました。

でも、そこに過酷な理由が存在することを知らないだけ
だったのです。思い出を簡単に振り返ってみます。

1)駆け出し時代
 Kさんは、私が駆け出しの20代前半の頃、新卒で入
 った会社で出会い、私を大人のレールに載せてくれた
 恩師でもありました。

 仕事への取り組み方や人生に処する姿勢について、熱
 っぽく、口酸っぱく語っている光景が印象深く思い出
 されます。

2)手ほどき
 親子ほどの年齢差があったのに、親しくして下さり、
 ジャズやクラシック音楽への誘いを受け、一緒にコン
 サートにも出掛けました。

 ジャズ喫茶にも何度か入り浸り、コーヒーをすすり
 ながらジャズや人生談義に耳を傾けたものでした。

 でも一番の極めつけは、銭湯通いだと思います。
 日曜日の午後4時の開店に合わせて、男二人で洗面器
 を抱えて、当時住んでいたアパートの近所にあった
 銭湯に一番風呂に入るため、よく出掛けました。

 また自炊生活で野菜の摂取の仕方を教えてくれたのも
 Kさんでした。1DKの小さなキッチンに立ったまま、
 ビール片手に、もう片方で茹でたばかりの野菜をつま
 み上げ頬ばる姿が目に浮かびます。

3)人とのつながり・出会い
 Kさんは同じアパートに住む住人に最年長だったことも
 あり話しかけ、そうして知り合いになった人を何人か私
 に紹介してくれました。その中の一人が、男性合唱団
 コールファーマーのメンバーYさんです。
 彼とは出会って15年以上も経っていながら、今でも
 毎年1回は彼らのリサイタルに通っています。

 きっと安アパートで、お互いに裸同然の素の付き合いが
 できたことが縁を深めるのに良かったのだと思います。

4)別れの日
 数年経ち、Kさんが名古屋に戻ることになってアパート
 を引っ越す日に東京駅まで見送りに行き、長い時間、
 プラットフォームで過ごして別れを惜しみました。

 何だか父親と別れるような気がして離れがたい気持ちが
 あったことが思い出されます。

 そして帰り道、これからは自分で自立して、しっかりと
 生きて行かなくてはならないと決意したように思います。

5)そして現在
 あれから何年の月日が過ぎ去ったのでしょう。
 私を取り巻く環境も大きく変化しました。結婚して家族
 もでき、仕事上の責任も増して来ました。

 しかし、Kさんの教えはおそらく有形無形に私の中で
 血肉化して受け継がれているものが多いように感じます。

 あの快活な笑い声を聞くことも、笑顔を見ることもでき
 なくなりました。

 それでも自身が幾らか成長し、そして成熟期を迎えよう
 としている今、Kさんとの思い出がとても懐かしく感じ
 られます。

Kさん、息子同然に可愛がっていただき本当に有難う
ございました。言葉では言い尽くせませんが、どうぞ
安らかにお眠りください。
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