皆さんは8月9日と聞くと何を連想しますか?
多くの方は長崎の原爆記念日を思い浮かべ、あの悲惨さ
を回顧し、二度と同じ過ちを繰り返してはならないと胸に
刻み込む日でありましょう。
今年は65年目の節目の年でもあり、核保有国から初めて
式典への参加があるなど、新たな一歩を踏み出しました。
実は8月9日は日本人にとって忘れるべきではない出来事
があるのです。今日はそのことについて書きます。
1)不可侵条約
この日は、旧ソビエト連邦(以下、ソ連)が不可侵条約
を破棄して旧満州の日本領に攻め込んで来た日です。
ソ連は、1945年5月ドイツが降伏し、後顧の憂いが
なくなり、また日本の戦況が悪化し、敗戦濃厚なのを
見越して、日本と交戦状態に入りました。
当時、満州領には関東軍と帝国陸軍が駐屯していたもの
の、互いの連携も悪く、ソ連は圧倒的な物量作戦を展開
し、日本軍はなすすべもなく敗れたのでした。
2)シベリア抑留
ソ連は、日本人(韓国人を含む)やドイツ人等の兵士、
民間人の男子を捕虜として多数シベリア各地に移送し、
社会インフラ整備のため抑留したのです。
抑留者は概数でしかなく、今も実数は分かっていません。
ソ連側資料によると、日本人約64万人、他国を含めた
全体では何と417万人にも及ぶのです。
主な社会インフラとしては、鉄道、鉱山、学校や病院の
建設、さらには自分たちが入る収容所の建設などがあり
彼らはその整備に従事させられました。
3)三重苦
ツンドラ地帯のシベリアで抑留者たちを襲ったのが、
極寒、飢え、そして重労働でした。
真冬では零下30度にもなり、起居するにも大変な状況
にあり、食料は1日にパンを1個程度と薄いスープしか
支給されず、食べ物を巡って醜い争いも繰り広げられた
そうです。
また機械類も満足に無い中で建設や敷設に従事しなけれ
ばならず、重労働を強いられました。
これら三重苦のために、使役者となった多くの抑留者が
次々と命を落としたのです。
4)国の対応
国家のため犠牲となった抑留者と思えますが、日本政府
の対応は冷ややかであったと言われます。
これまで抑留者は何ら補償を受けられず、また謝罪も
おこなわれたことはありません。
一時期、10万円の旅行券や記念品の贈呈がおこなわれ
たそうですが、生き残って帰国した人たちは、こんな
不誠実な対応を見て、訴訟に踏み切り、何度も法廷で
争って来ました。
しかし、結果は残念ながら原告側の敗訴で決しています。
現在多くが80代となりながら、今も業を煮やす日々が
続いています。ここにも戦争の悲しい一側面が現存して
いるのです。
多くの方は長崎の原爆記念日を思い浮かべ、あの悲惨さ
を回顧し、二度と同じ過ちを繰り返してはならないと胸に
刻み込む日でありましょう。
今年は65年目の節目の年でもあり、核保有国から初めて
式典への参加があるなど、新たな一歩を踏み出しました。
実は8月9日は日本人にとって忘れるべきではない出来事
があるのです。今日はそのことについて書きます。
1)不可侵条約
この日は、旧ソビエト連邦(以下、ソ連)が不可侵条約
を破棄して旧満州の日本領に攻め込んで来た日です。
ソ連は、1945年5月ドイツが降伏し、後顧の憂いが
なくなり、また日本の戦況が悪化し、敗戦濃厚なのを
見越して、日本と交戦状態に入りました。
当時、満州領には関東軍と帝国陸軍が駐屯していたもの
の、互いの連携も悪く、ソ連は圧倒的な物量作戦を展開
し、日本軍はなすすべもなく敗れたのでした。
2)シベリア抑留
ソ連は、日本人(韓国人を含む)やドイツ人等の兵士、
民間人の男子を捕虜として多数シベリア各地に移送し、
社会インフラ整備のため抑留したのです。
抑留者は概数でしかなく、今も実数は分かっていません。
ソ連側資料によると、日本人約64万人、他国を含めた
全体では何と417万人にも及ぶのです。
主な社会インフラとしては、鉄道、鉱山、学校や病院の
建設、さらには自分たちが入る収容所の建設などがあり
彼らはその整備に従事させられました。
3)三重苦
ツンドラ地帯のシベリアで抑留者たちを襲ったのが、
極寒、飢え、そして重労働でした。
真冬では零下30度にもなり、起居するにも大変な状況
にあり、食料は1日にパンを1個程度と薄いスープしか
支給されず、食べ物を巡って醜い争いも繰り広げられた
そうです。
また機械類も満足に無い中で建設や敷設に従事しなけれ
ばならず、重労働を強いられました。
これら三重苦のために、使役者となった多くの抑留者が
次々と命を落としたのです。
4)国の対応
国家のため犠牲となった抑留者と思えますが、日本政府
の対応は冷ややかであったと言われます。
これまで抑留者は何ら補償を受けられず、また謝罪も
おこなわれたことはありません。
一時期、10万円の旅行券や記念品の贈呈がおこなわれ
たそうですが、生き残って帰国した人たちは、こんな
不誠実な対応を見て、訴訟に踏み切り、何度も法廷で
争って来ました。
しかし、結果は残念ながら原告側の敗訴で決しています。
現在多くが80代となりながら、今も業を煮やす日々が
続いています。ここにも戦争の悲しい一側面が現存して
いるのです。