北山・京の鄙の里・田舎暮らし

北山、京の北に拡がる山々、その山里での生活を楽しんでいます。

京都市内の桜を見て、帰りは林間の道をドライブ

2007-04-04 00:49:33 | 随想・近況
銀行に用事があり京都市内に車を走らせました.用事を済ませた後、丸太町通りから川端通りを北上.桜が綺麗に咲いていましたね.まだ2~3分咲きの木から7分咲き位のものもあり、今週末が見頃でしょうか?

宝ヶ池で遅い昼飯をすませ、大原方面へ.途中の山にもこぶしが少し咲いていたような.大原を通り越して、477に左折して百井へ.百井峠から鞍馬の奥へ、花脊峠を通り花脊から京北へと帰りました.この大原を走る367号線を離れてからの477号線は国道のイメージとは程遠く、特に百井峠越えは一応舗装された林道、という雰囲気でした.

367から百井~花脊~黒田への道はおそらく昔の人が歩いた道が車道になり国道になったのであろう.黒田から周山方面への今の道は桂川沿いに走るが、集落から集落へと繋がるには昔は峠道を越えていたのが、近代になって車道が通るようになったのではなかろうか?途中、ショートカットする為トンネル工事に取りかかっているところもあった.ただこの工事、トンネルまでの橋の部分は2年前に出来ているのに、トンネル自体の工事はまだ始まっていない.着手からなんと長い日時がかかるのであろうか、、?

走りやすい道路を造るという事はどこの文化・産業地域とどこを結ぶか、ということなのであろう.今はまだ考えがまとまらないけれど、道をどう作るか、というのはその道に関わる地域の文化に大きい影響を及ぼすことになる.また大都市圏と田舎を結ぶ便利な道が出来たとき、その田舎が大都市圏から吸収するよりも、吸収される部分が大きいのであろうなあ、、などなど、複雑な気持ちを持ちながら車を走らせていた.その地域で生きて行くには、便利な道路を使って産業を興すか、都市圏のベッドタウン化して従属化していくのか(それは悪いことではないけれど、、)、その道をどう生かすかの姿勢も人によっていろいろだろうなあ、、

どうも考えがまとまらない.難しい問題だ.でも色々脳を刺激してくれたドライブではあったかしら、、( ^_')

アルバイト先での勤務態勢が変わり、自由時間が少なくなります.京北の勉強はサボっています(*_*) 今年は常照皇寺の桜の様子もNHKの朝の番組で実況中継されるはずですし、このブログでもいろいろ報告したいと思います.桜に限らず、こぶしや山桜のきれいな様子も.


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2 コメント

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狭い道路は遥かに。 (道草)
2007-04-04 20:50:38
花背別所・大布施・広河原は私には懐かしい地名です。まだ小学校(当時は国民学校ですが)へ入学する前から、父の仕事の都合でこれらの地域へ何度か旅(私にはまさに旅でした)をした経験があります。周中では広河原から越境入学の同級生が一人居ました。地域的には広河原分校なのに、何故か彼だけは本校へ来ていたのです。同級生の中では体格が一番良くて、陸上競技や野球などの万能選手に加え生徒会の役員もしていました。北高では柔道部で活躍し、口丹波ではかなり名が通った選手でした。しかし、拓大の柔道部で靭帯を痛め断念したそうです。今は東京に住んでいるにも拘わらず、同窓会へは皆勤です。私はやや避け気味なのですが・・・。
それはそうとして、私は学生時代に廃村の八丁へ何度か行きました。広河原までバスで行き、そこから峠を越えて小塩へ出る山歩きでした。当時の八丁には崩壊した2軒の藁屋根の骨組みが残っていて、壁の破れた箇所に貼り付けてある古新聞の記事が読めました。比較的新しい一棟の白壁の蔵があって、そこでは寝泊りが可能でした。八丁への山歩きは一人の時もあり、二人の時もあり、その前には会社の連中を案内して行ったこともあります。しかしいつしか、どこかの大学山岳部の小屋が廃屋の横に建てられて、すっかり景観を壊されてから(私的に)は二度と行かなくなりました。現在は弓削からの林道が拡張されて、児童のハイキングにも利用されていると聞きますが。そう聞いてからは余計に、あの廃村の八丁にもどれ程の魅力も感じなくなりました。
全国の道路が新設や拡張され舗装され立派になったのは、やはり田中角栄の「列島改造論」以来一層の拍車が掛かったのではないですか。それに連れて道路族が跋扈し利権を漁って、収拾がつかなくなったのだと思います。
その影響か、宇津でもご多分に漏れず中地の三叉路には信号まで作られていて、同窓会で訪れた折りに見て驚きました。信号は規則正しく点滅するのに(当たり前ですが)、舗装され広くなった道路を通る車などまるで見られなかったからです。弓槻から細野へ抜ける弓槻谷(ゆづきたん)も車が通れるようになりました。いつでしたか細野で火事があり、宇津からも消防団員が手押しポンプを持って、弓槻谷を越えて応援に駆けつけたことがあります。私達も後ろから必至で(勝手に)着いて行きました。ただ、現場へ到着した時は残念ながら(不謹慎ですが、その時はそう思ったのです)火は消えた後でした。農家は全焼して、その後そこの主人は何処かへ引越し、それからは宇津村で道路補修(当時の道路は地道で、頻繁に穴凹が空きました)の仕事をされていました。極端に腰が低くて、我々腕白坊主共に出会っても平身低頭で挨拶をされていました。道路の穴凹は砂利で埋めても(置くだけなので)、トラックが跳ね飛ばして直ぐに水が溜りました。今にして思えば空しい仕事です。
京北地区の道路も、その頃と比べると隔世の感があります。ただ、ハード面だけが先行してソフト面の計画や施策がまるで無視されているから、現況の如き無惨な結果をもたらしているのではないですか。これが仏像などなら、仏作って魂入れずなどと呑気に済ませても実害はありませんが、国土の改造となれば、それ以降が無策では禍根や実害が大き過ぎます。全国的に実例は山積しているでしょうけれども、問題の新幹線栗東駅もそうでしようし、過去に実現したご存知の羽島駅は「大野伴睦駅」として定(悪)評があります。私が残念がっている八丁の林道や魚が渕への車道など、まるでスケールの小さいことかも知れませんが。
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「道」雑感 (mfujino)
2007-04-09 22:14:09
道草様
「道」というのは重い意味がありますね.道は何と言っても発達するに越したことはない.道が発達することはやはり便利です.今の時代でいえば、道路、になりますね.また鉄道や空路もありますし.あ、海や湖、川の道もありますね.この、道、はどんどん発達して欲しいと思います.ただそこにはお金の問題が絡んできます.新幹線の栗東駅などが最近の事例でしょうか.岐阜羽島駅を作ってそこを拠点に新しい交通体系が出来たのでしょうか?角栄さんの列島改造論自体は素晴らしいとおもいます.でもその裏には利権が絡んでいました.またどんな道をつくるか、理念があって欲しいですね.駅を作るにしてもです.大野伴睦さんは「岐阜羽島駅をつくらせた政治家」としてしかその名を残さなかった.少なくとも私にとっては、、
話が脱線しそうなのでやめますが、高速道を走って、街中を走り、山の中を走り、変化に富んだドライブをしていると色々な思いに浸れます.
周山中学校へはバス通学しました.「田舎のバスはおんぼろ車、でこぼこ道をガタゴト走る、、、」の世界でした.道草さんのコメントを読ませていただき懐かしさもこみ上げてきました.
八丁の話が登場しましたが、廃村八丁、に関しては面白い話が沢山あります.また気が向いたら書きたいと思います.道草さんはよく山歩きをされたのですね.随筆集「冬の実」のなかの「夏椿の下に」、楽しく読ませていただきました.魚谷峠へは祖父谷を?それとも中津川の谷からでしょうか?道草さんのような甘い山行でなく、私の北山歩きは殆ど単独行でありました.
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