北山・京の鄙の里・田舎暮らし

北山、京の北に拡がる山々、その山里での生活を楽しんでいます。

松尾峠越え・光厳法皇、松尾姓、薬師寺など

2013-10-12 02:37:05 | 山・峠・街道




松尾峠という峠があります。京都の北山を歩かれている方はご存知でしょう。北山の地図を開いていただくと、これからの紅葉季節で有名な、三尾、すなわち、高雄・槇尾・栂尾の北、愛宕山の東にある峠です。

この松尾峠を越えるルートには光厳天皇というか、その時は光厳法皇が、ここ京北の薬師寺へ、そして常照皇寺へと歩まれた道でもあります。かの太平記に描かれた朝廷が南北に分かれて争われた時代、その政争に巻き込まれ、「地獄を二度見た天皇 光厳院」とも言われる光厳天皇が夢想疎石を師と仰ぎ出家されて後、安住の地を求め、皇室と縁の深かった山国へと向かわれた時に越えられた峠でもあります。

分りにくいでしょうがあえて地図を載せておきます。DLして拡大していただくと少しは理解できるかもしれません。

松尾峠越えの京道


ここには次のような話が残っています。我が下手な紹介より、細野沿革史に記述がありますのでこちらを引用します。

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 細川(細野)宮之辻から田尻を経て高雄に出る峠である。

 北朝五帝の一人、後に山国常照皇寺の開山となられた光厳法皇が戦乱の余波を避ける為、丹波山國庄が御料地として延暦十三年以来朝廷に盡して来た地であることを充分承知して居られたし、又父の帝御伏見天皇から譲り受けられた晩年の禅居の地とすべきを探し求められた後、最良の地と御思いになった結果、嵯峨小倉山から都塵を避けて山深い丹波山國に巡錫の途中細川の住人佐治資友が嵯峨野あたりから愛岩道附近の人と共に出迎え御供をして山城と丹波の国境にある松尾峠の麗迄歩ませられると道中の御疲れが出たのか、旅の玉趾を悩ませ給い錫杖に御すがりになる法皇の御姿を拝し、侍信順覚は資友に向い法皇を背負い奉るべきを令じたので、資友謹んで令を奉じて法皇を背負い奉り峠の頂上に登りつめると、法皇は余程満悦され暫時休憩せられた。おいたわしかった都の空を眺められたのもこの峠が最後で供奉の僧順覚もそっと流れる涙を衣の袖で押えた事であろう。その時法皇は資友に対し「汝はよろしくこの峠の名「松尾」を以て姓とせよと仰せられたと伝承されている。資友は有難く松尾の姓を戴き我が家まで供奉した。次いで法皇は蹕を細川下村畠山治郎兵衛(畠山源市郎の祖先ではない)の家に駐められ福田庵の号を賜わった。其の後法皇は蔵春庵を建立し給えしが総ての事今其の如何なる事なりし加判明しない。
 愛岩道附近の人々に松尾の姓があるのも右の事情による為でもある。
 峠に立ってその昔光厳法皇が憩はれた峠の風景は現在では松が一面に生い茂り遥か山波の彼方には高雄三山の景勝が絵にある様に見える。
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そしてその文書についても紹介されています;

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 松尾姓由緒の古文書
    当家称號勘定之事
 光厳院法皇高野熊野 御順廻有之丹○桑田郡山国江  御幸有之細川之住人佐治資友嵯峨野邊迄出○リニ奉供仕ル 松尾坂中ョリ御足悩順覚差図二面而奉負峠之芝二而御休息汝○如何成者ツト
 御尋有之細川住人佐治資友ト申上汝今ョリ此松尾峠ヲ為へキ称号ト由口宣披下則順覚奉ル可心得トテ添モ
奉邦龍顔ラ細川邑に奉供仕ル實富家称号蒙  院宣奉可奉尊敬右子孫伝来可有之取如件
 建武二年九月                     順覚、記焉○
   細川邑待火
    松尾資友
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先日、西の鯖街道歩きの講座で、愛宕道~田尻廃村~松尾峠~栂尾の西明寺へと歩きましたが、その時、この順覚さんが松尾資友さんに渡されたという文書を、当日その子孫の方に見せていただきました。それがトップの写真です。

光厳法皇は、天竜寺~槙尾~松尾峠~田尻~愛宕道~薬師寺~常照皇寺、というルートを歩かれたはずですが、この薬師寺についてはあまり語られません。もっと語られるべきお寺だと思います。また途中、中江城へ立ち寄られた云々ということを書かれた記事を見たことがありますがこれはどういうことなのでしょう。

京北からの京道、というテーマで設定した講座ですが、歴史的にはこういった、法皇様が越えられた道でもあったのです。常照皇寺の開祖としてしか知らなかった光厳天皇。今年はその650回忌の法要の年でもあります。南北朝や明治以降の皇室や皇統などを考えるに光厳さんについては研究の課題をいろいろ投げかけてくれます。

また、京道という観点からこの峠越えはあまり語られないのですが、このルートの重要性は無視できないと私は考えています。栗尾峠越えが利用されるようになった時代以降には都の西部方面へ行くには大切なルートではなかったかと捉えています。これについては更に考察が必要でしょう。




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2 コメント

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文書 (徘徊堂)
2013-10-12 18:28:44
 師匠に聞かないと分かりませんが、文書の方は見た瞬間におかしな部分があると思われます。もともとは光厳院松尾峠越えの伝承があって、それを後代になって文書としてこさえたのでしょうね。別にこの文書が怪しくても、光厳院を崇敬する気持ちは変わらないです。
 それはともかくとして、古い寺である神護寺(高雄山寺)や高山寺から山国方面に向かうのは、今の162ではなくて松尾峠から田尻、細野から弓槻峠(?)を越えていくのがメインだったのですね。
 前にも書かせて頂きましたが、松尾峠から高山寺に下りたときに、何と美しい景色だと感嘆したところがあったのですが、今はどうなっているでしょう。廃村田尻も長いこと行ってないし、何かウズウズしてきました。田尻の碑が立っている辺り、何か人の声が聞こえてきそうですね。
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京道・文書・田尻廃村など (mfujino)
2013-10-12 22:49:37
徘徊堂さん、このルートは誰がいつ頃利用されたのか興味をもっています。宇津や細野の人には京へ行くのに便利だったのではないでしょうか。また山国や周山の人は栗尾峠のルートが利用されるようになってから京の西部へ行くときには便利だったのでは、と考えています。京へのルートを考えると気今の周山街道162は明治以降のしかも車社会のルートだと私は思っています。例えば中川の人にとっての京道は菩提の滝を通って鷹峯(長坂口)へ出る道が京道でありましたし、また小野郷の人などは供御飯峠を越え杉坂から長坂口へと歩かれたはずです。その証拠に杉坂で育ったMさんの先代が中川は脇道だから本道の杉坂へ居を移されたら、車が通るようになって今の162の方が本道になってしまったと言っておられました。

この文書はどうなんでしょう。文章もおかしいですね。光厳法皇の付き人順覚さんが松尾資友さんに宛てた様になっていますが、当家称號勘定之事、となっているのも気になりますし、何よりも年号がおかしい。光厳さんが山国に来られたのが貞治元年(1362)のはずですが、この文書の日付が建武2年(1335)となっています。恐らく後世に作成されたものではと推測しています。

松尾峠から高山寺への道はペンション愛宕道の一瀬さんにも薦められたのですが、高山寺への下りが荒れているのと、この法皇さんの峠越え、京道という観点から先日は上の地図のルートを歩きました。

田尻の廃村ですが、川向かいに立派なログハウスが建てられていました。廃村の川岸に積まれた石壁は先日の台風の豪雨にもビクともしてなかったですね。

私は太平記の世界はどうも毛嫌いしてしまいますが、光厳天皇さんについては少し勉強したくなっています。

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