北山・京の鄙の里・田舎暮らし

北山、京の北に拡がる山々、その山里での生活を楽しんでいます。

京北矢代中の「あやめ小塚」

2006-07-15 13:53:06 | 歴史・社寺・史跡など
「京北の昔がたり」の中、周山の2番目(page 88)に「源三位頼政とあやめ塚」と題して次のような物語が紹介されています.

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今からおよそ850年の昔、近衛天皇、15才の御時、仁平3年(1153)4月のこと.毎夜妖怪が出没、病床の帝を苦しめていた.この妖怪退治は源頼政に白羽の矢が立ち、当時55才の彼は見事「鵺」を退治した.回復した近衛天皇はその褒美として官女「あやめ」と劔一振り、その矢の代として「矢代」の領地を与えた.その後矢代の庄に治承の変まであやめと仲むつまじく暮らし、2人の子をもうけた彼は平清盛の力により三位のまで位をあげた.治承4年(1180)の戦いに以仁王の平家討伐に加わり、平家の大軍に我が子仲綱・兼綱も討死し、宇治平等院で77才の生涯を閉じた.頼政討死の報を知り大いに悲しんだ泣き続けるも思いを新たに夫・子供を弔うため大きな宝筐印塔を建てた.当時は平家全盛期、やがて平家の役人に矢代の領地は取り上げられ館や塔も取り壊された.あやめは捕らえられたのか逃げのびたのかは定かでない.平家の世も去った後矢代の庄の人は散乱した宝筐印塔を組み直し「あやめ塚」と呼びその霊を慰めた.
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というものです。

当日は五本松から漆谷を抜ける旧高浜街道、矢代中の個人宅の庭にある塚を訪ねました。誰でもお参り出来るようにきれい仕上げられた植木のある小石の敷き詰められた道がつけてありました.お隣の家のおじさんの話によると、昔道路脇に散乱していた宝筐印塔を、寺の和尚さんにこんなことしていたらあかん、といわれ戦後間もない頃に現在の姿にされたとの事.2軒の庭を一部ずつ割いて現在の姿にされたそうです.ただちょっと奥まっていて、それを目的に行く人でないと分かりにくい.



この砂利道のゴミを拾うのはいいがこっちの屋敷内(写真の左の方)に棄てていく人もいるとの話を聞いたのは残念ではありました.

かわいい五輪の塔ですね、まさに小塚です.

このあやめ御前は絶世の美人だったそうな、、しかしあやめ塚というのは伊豆の温泉地(長岡温泉)にもあり、そこでは毎年お祭りまであるという、、、「源頼政」「あやめ御前」などで検索するといっぱい出てきます.新潟や広島の地名も、、先日書いた阿倍貞任伝説の北行説、義経のチンギスハン説、楊貴妃の墓、、英雄やきれいな人には多くの伝説が出てくるもんですね.

この塚の由来などが記されている古文書は兵乱を避けるため近くの松寿寺から高雄の仁護寺へ移されているとのこと、、、

等々いろいろありますが、「矢代」という地名の由来がわかったことでよしとし、続きは日本のエーゲ海でのヴァカンスから帰ってからということに.( ^_')b

あやめ小塚の地図です.ここをクリックしてください

ここ矢代では日吉神社の「矢代田楽」が有名でいろいろ保存活動がなされてますが、これは秋に見に行きたいと思っています.昨日は美山は田歌の八坂神社で「祇園神楽」も見てきました(^・^)


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1 コメント

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矢代の由来 (kawagen)
2006-07-15 15:36:56
牛窓に行かれるのですか。牛鬼や何やの伝承を追って、忙しくされるかも知れませんね。矢代の由来、楽しみにしております。以前、矢代中に小学校があったことを知り、日本の第一次産業が、本当にこの四半世紀で衰退してしまったと思ったことがあります。では気を付けて、楽しんできて下さい。
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