北山・京の鄙の里・田舎暮らし

北山、京の北に拡がる山々、その山里での生活を楽しんでいます。

福知山城天守閣再建30週年記念 丹波福知山 明智光秀サミットに参加して...

2016-05-25 18:49:27 | 歴史・社寺・史跡など


28年5月22日(日) 14:00~16:30に開催された、福知山城天守閣再建30週年記念 丹波福知山 明智光秀サミット ~幻の天下人~明智光秀の真実 に参加しました。会場は御霊神社のお隣、福知山厚生会館、約1,000人収容の会場に900人程が参加されたとの新聞報道でした。

京北からは、このサミットがあるよと教えていただいたY先生と周山のFさんの3人で会場に向かいましたが、他にも周山のOさん、Fさんも来ておられました。京北には光秀築城の周山城があり、ゆかりの地です。

御陵太鼓と福知山踊りで幕を開け、松山正治福知山市長の挨拶に続いて、私が一番期待していた、小和田哲男先生の記念講演です。

当日頂いたレジュメに従ってお話の内容を復習しておきますと;
まず、謀反を悪とするのは近世的武士道精神であり、戦国武将は大なり小なり下克上の実践者であること。

その思想的拠り所として「易経」の「顚趾利出否」を挙げられました。
難しい話だったので、帰宅後ググってみると次の様なブログ記事を見つけました;
初六。鼎趾。利出否。得妾以其子。无咎。
○初六。鼎(かなえ)、趾(あし)を顚(さかさま)にす。否(あしき)を出(いだ)すに利し。妾(しょう)を得て其(その)子を以てす。咎(とが)なし。
鼎の一番下に居て足をひっくり返そうとする。正しい姿勢ではないが、鼎の中に溜まっている穢いものを除き去るには都合がよい。変革の後、乱れた秩序を鼎の中に溜まっている穢いものに例えた。変革の後で新しい秩序を整えるには、乱れた秩序を一掃することが必要である。
http://ameblo.jp/kokorokeiei/entry-12130709915.html

また「歴史は勝者が書いた勝者の歴史」であると。これは確かに歴史書を読むときに忘れるなと教えられますね。小和田先生は、光秀は秀吉が天下を取ったために悪く書かれることに、と指摘されます。
その例の中で、信長の朝倉攻めで浅井が寝返って挟むうちになり信長が京へ逃げ帰ったとき、敦賀の金ヶ崎城の退き口で、しんがり役を務めたのは、木下藤吉郎・明智光秀・池田勝正の三武将で、確かに秀吉は城に残ったが、光秀・勝正も背面よりその役目を果たしたそうです。しかし秀吉の働きだけが武勇として語られるのが多いようです。

そして光秀は信長の恐怖政治を終わらせようとした。彼が信長の非道と断じたのは、
・朝廷への圧力
 暦を織田歴に変えようとしたりしたなど
・四国政策の方針転換
 長宗我部との交渉窓口だった光秀はある日突然の方針転換には困ったのであろう。これについては4年ほど前、本能寺の変の「四国説」にかかわる新資料が発見されたと話題になりましたね。http://takatokihojo.hatenablog.com/entry/2014/06/29/010000に詳細が書かれています。また、7/1には京都アスニーで講座があるので予約を入れました http://miyakomanabi.jp/search/index.php?act=detail&id=4441
・武田討伐後の信長の異常行動
 首実検の時の死した武将への非人道的ともいえる行いなど
を挙げておられましたが、光秀が本能寺の変をおこした理由を単独の動機で考えなくてもいい、との先生の指摘には同感です。様々な要因が重なったことでしょう。いろいろな思いが高まっていた光秀が信長が手薄で本能寺にいる状況が彼の今しかない、という決断のタイミングだったのでしょう。ソレにしても信長は天運の強いひとだったのですね。朝倉攻めで浅井に挟み撃ちにあっていたら、その帰りの京から岐阜へ向かう千草越で杉谷善住坊の弾丸が数十センチ近くて当たっていたら、石山本願寺攻めで退却するとき顕如が追撃していたら...など危機一髪を乗り越えてきたのですが...

善政を敷いた光秀、その例として、福知山城下への地子銭免除特権付与、由良川の改修と築堤、挙げられてました。

僅か45分の時間では話ししづらかったと想像しますが、例えそれが3時間4時間に伸びてもこのテーマは論じきれないことでしょう(^_')ただ話し始めが5分遅れたにも関わらず40分で話をまとめられたのはさすがでございました。

さて15分の休憩の後はシンポジウム;
コーディネーターは細川忠興・ガラシャの子、忠隆の子孫、細川隆一郎氏の娘さんでジャーナリストの細川珠生さん。なかなか上手い司会でした(^^)彼女の発言の中でわたしが注目したのは、代々細川家で教えられているのは、「光秀は正義の人だった」というものです。

パネラーは着席順に;
・小和田哲男先生、
・タレントの松村邦洋さん、
 そのモノマネのタレントを活かした発言は座を盛り上げてくれました(^^)徳川三代記の津川雅彦家康や西田敏彦秀忠役のものまねは中々のものでした。
・松山 正治 福知山市長
 私は体育振興会の出でスポーツ施設ばかりに力を入れているように思われる人もいるが、文化遺産も地域の宝として活用するのは大切にしたいという意味の発言はよかった。
・桂川隆裕 亀岡市長
 松山さんが、この中で天守閣があるのは福知山だけだの発言には亀山城の地元として残念そうな反応ではなかったかな(^_')
・中小路 健吾 長岡京市長
 京都縦貫道を、光秀・ガラシャ道、と命名されてたのはさすがでございます。

各市長さんも光秀やガラシャなどに関してはそれなりに勉強されていて、それぞれの市との結びつきについて話をきちんとされていました。

このパネラーの顔ぶれからも、「ガラシャ、光秀、幽斎、忠興の大河ドラマに」との誘致運動のプロモーションに一貫でもあるのは明白です。
http://www.taiga-dorama.com/
私も光秀はNHK大河ドラマの主人公になる価値は十分あり、また是非ドラマを見てみたいと思っている一人です。ここ京北も周山城をはじめ、縄野坂の戦いと山国荘、宇津氏との関連など、光秀とは縁の深い土地でもあり、興味津々です。ただ上のホームページにはゆかりの地のリストが貧弱ですね。周山城は載っていないし、もっと愛知県や福井県などにも手を広げて載せるべきでしょう。

帰り道の車中で、Fさんは、松山市長の、地域の文化遺産をもっと活用しなければ、という考えにしきりに賛意を表明されていました。実際彼女は店に光秀や周山城の史料をおいて訪れる人にアピールして、それを実践しておられます。周山城を訪れられる方は、周山の「亀屋」さんに立ち寄られると便利ですよ(^_')

光秀を主殺しの謀反人とだけ捉えるのではなく、もっと冷静に分析しなければならないのはいうまでもありませんし、実際今の世はその様になっていると思いますが、それでも、悪い奴だという思い込んでいる人もまだまだある様です。これについては別に書きたいと思っています。

余談ながら、私は信長についても我々が持っているイメージも冷静に見つめなおす必要があると思います。時代を切り開いたのは間違いないのでしょうが、果たして言われているほど先進性があったのか、比叡山を焼き討ちするなど無慈悲残虐な人だというのはどうなのでしょう。




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