北山・京の鄙の里・田舎暮らし

北山、京の北に拡がる山々、その山里での生活を楽しんでいます。

ふるさと漫歩で、京北・明石の三輪神社へ

2015-11-28 12:33:32 | 歴史・社寺・史跡など

この「ふるさと漫歩」は京北の文化財を守る会が毎年企画されていて旧六ケ村輪番で地元の文化財を見て歩こうというものです。今年は宇津地区の担当で、「三輪神社」と「宇津城跡」を訪ねようとの企画でした。



地図上の位置は<ここ>です。
(参考情報ですが、ここは熊田川と明石川が合流する辺りは、夏になるとホタルが乱舞します。おそらく京北随一のホタルの見所でしょう)

この11月27日(金)は我が家を8時過ぎに出た時の気温が1℃と車のサイドミラーには白いものが。寒気団が南下して今までの穏やかな気候が急変して初霜がおりました。氷が張っていたよとの声も聞きました。現地に早い目に着くと役員さん達に準備いただいた焚き火が待っていてくれました(^^)懐かしくも身も心もあたたまる風景です。



30人ほどが参加、地元の岡本洋志さんの説明を聞きます。



奈良は櫻井の大神神社から勧請された、ご神体といわれる杉の木を祀り、祭神は大物主命だそうです。祭日は旧暦の9月28日でしたが、戦後は新暦の9月28日に変わったとのこと。現在は我が竹馬の友、藤野公平ちゃんが神主を務めているそうです。

山裾にある鳥居をくぐると、数十m先にご神木の杉の木を囲う玉垣があるだけで、神殿も拝殿も社務所もないシンプルな社です。



このご神木は左右の杉の木に届くような高さがありますが、その幹の太さは昔から20cm程のまま変わらないそうで、案内の岡本さんは73年生きてるが子供の頃から同じ風景だと仰っていました。



安産祈願の神様と謂れ、側の谷川の水で眼を洗うと眼病除けになるとのこと。明治の初め頃ある女の人が岩にとぐろを巻く大蛇を見たそうで、守り神の蛇をみだりにあやめてはならないとされているそうです。また杉の木をご神木として崇めるので、葬儀に使う用材に杉、桧を使うことが禁じられ、松や栗の木を使うとのことです。しかしこれもかって土葬が行われていた頃の話で、最近は葬儀社が準備するのを浸かっておられるそうですが(^_')

毎年8月24日には家先に高い松明を上げ、続いて12本の背丈ほどの竿に松明を取り付けて道路側に並べて上げるそうで、なかなかの風景になることでしょう。もちろん杉桧はだめで松の木が使われます。その後各戸ごとに4~5mもの竿に結わえて松明を高々とあげて氏神様にあげるそうです。これは一度見に行かねばなりませぬ。13才以上の女性は鳥居より奥に入ってはいけないとの言い伝えがあり、今でも女性は鳥居の前で参拝されているそうですが、安産の神様にしては少々冷たい言い伝えではないかしらと思わないでもないですね。大物主命すなわち大国主命は女好きなので女性はあまり近づかない様にとの親切心からか、という話題も出ましたが(^^)

守る会の石井会長は、これが日本神道の神を祀る原型の姿だろうと説明されていました。

その後下宇津へ移動して、庄野勇夫さんの案内で、庄の谷から関電の送電線鉄塔の保守道を辿って宇津城跡へ上りました。宇津城跡についてはこのブログでも何回か触れていますので、今回はパスしておきます。

ただ宇津城跡へ一番楽に登るルートを案内しておきましょう。
下宇津のバス停「粟生谷」から庄の谷に入り、林道を約1km、左岸から右岸へ移る橋を渡って少し行った所に火の用心の看板があるところが関電の鉄塔保守路の取り付きです。この保守路をほぼ鉄塔のすぐ南の尾根に着きます。あとはこの尾根を南に200m程行けば宇津城跡の堀切が迎えてくれます。時々八幡神宮から道なき斜面を直登される話を聞きますが、上に説明したルートが一番便利です。ただ往時の登上ルートは、主郭の虎口や「殿の谷」や「城の坂」といった地名が残っていることから、八幡神宮の西の谷の入口辺りから登ったのではないかと思われますが。



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