わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

音楽を言葉に=伊藤智永(外信部)

2008-12-06 | Weblog

 音楽評論家の吉田秀和氏は、大好きな相撲の実況中継を通して音楽を言葉にする方法を学んだ。目まぐるしい動きと一瞬の勝負のポイントを的確に分かりやすく伝えるすべが、音楽批評の勘所に通じるという例えは素人にも得心がいく。

 95歳で現役の吉田氏の歩みを、鎌倉文学館が小さな企画展で紹介している(14日まで、月曜日休み)。感じ入るのは30代までの修業時代、吉田氏が方法論の前に、音楽を言葉にする仕事へにじり寄っていく精神の核を形作っていったことだ。

 詩人・吉田一穂との交友で「本質だけを追求すること」こそ快いと知り、中原中也の詩の朗唱に「小鳥と空、森の香りと走ってゆく風が、自分の心の中で一つにとけあってゆく」言葉の魔力を体感し、ニーチェの著作から「感覚と心情の芸術としての音楽のほかに、精神の科学としての音楽を教え」られた。

 50代で、なお「自分が一向に傷つかないような批評は、貧しい精神の批評だといわなければならないのではあるまいか」と青年のように宣言している。

 後の吉田氏は「~かしら?」と口語調の平明でふくらみある言葉づかいになった。固い心棒ができているからだろう。

 さて、新聞のコラムはとかく社会的教訓の落ちをつけたがる。ネットにあふれる他人を批評する言葉のゆるさ、政治や経済の言葉の薄っぺらさ……。

 興ざめでしょう。そこで、吉田氏が明かす相撲中継以外の名文修業のコツを。夏目漱石、小林秀雄、大岡昇平。共通するのは皆、落語調ということ。

 ちなみに吉田氏は、もう30年以上、FMラジオで一人語りを続けている。





毎日新聞 2008年12月6日 0時00分

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