1964年8月、東京オリンピックのためギリシャで採られた聖火は、アジア各地の中継地でお披露目をしながら、空路日本へ向かった。
9月。香港から台湾そしていよいよ沖縄へという段でつまずく。台風である。飛行機が出せず、日程が1日ずれた。だが、東京での10月10日の開会式に合わせ、全都道府県を巡るリレーの順路、日時は精密に組み立てられていて変えるのは至難だ。
そこで沖縄のリレー行程が1日分カットされようとした。沖縄は強く反発し「休まず徹夜で走り続ければ回れる」という声も上がった。
結局、沖縄で「分火」し、一つは予定通りリレーをし、一つは先に本土に渡ることになった。沖縄の火は後で空路本土のリレーに追いつき、今度は「合火」するのだ。
沖縄は米施政権下にあった。日の丸掲揚も制限されていたが、かまわずリレーの沿道は旗の波が揺れ、熱狂や感泣の歓呼が続いたという。
しかし、その「祖国」への思いの深さの一方で、本土の都合に合わせた変則措置は裏切られた思いも刻んだ。当時のコザ市長の悲憤にじむ言葉が毎日新聞の記事にある。
「聖火を分火することで、日本国民としての感情は完全にぶち壊された」
中学1年生の私は広島市の近郊で予定通り来た聖火を見た。日曜日の午後、新聞社が配った出来合いの紙小旗と、若い走者たちの青ざめるほど緊張した顔を覚えている。
思えばあれは「合火」後の聖火だったはずだが、当時知る由もない。静かな炎は沿道のつつましい拍手と掛け声に淡い煙を残し遠ざかった。(論説室)
毎日新聞 2008年4月22日 東京朝刊
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