わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

毎日新聞連載コラム「発信箱」2009・09・01~07まで

2009-10-01 | Weblog

戦う相手はそこに=玉木研二


 明治に度々日本の人々を苦しめたコレラの流行には不平等条約が影を落としていた。立川(たつかわ)昭二・北里大学名誉教授の「病気の社会史」(岩波現代文庫)に教わった。

 港での検疫である。この必要は早くから日本の医師らも知っていたが、日本を対等に扱わない不平等条約の時代。治外法権を盾に列強に拒否され、海外からのコレラ侵入になすすべもなかった。

 清国から流行の情報が入った1877(明治10)年には日本政府は検疫や船の隔離などを協議しようとしたが、「いらない」と英国公使パークスらにはねつけられた。

 8月に長崎、9月に横浜と患者が発生し広がる。千葉の漁村では治療に来た医師が惨殺される悲劇も起きた。村民たちはコレラの知識がなく、「胆(きも)取りに来た」という流言に動かされたのだ。

 大流行の79年、外国船が日本政府の指示を無視して横浜に入港、人々の憤激を買う。外国外交官には「日本土着の疫病だから検疫不要」とデタラメを言う者もいたそうだ。列強の高慢と日本の屈辱、無念を知るべしである。

 ようやく99年に治外法権は改まり、日本も検疫体制を整える。それから110年。

 選挙に圧勝した民主党新政権が真っ先に、判断、説明、執行の度量を問われるのは新型インフルエンザとの戦いだろう。明治のように鹿鳴館の舞踏会で夜な夜な外交官の歓心を買い、条約改正に腐心したりする必要はない。だが、あの時代のぎりぎりの切迫感は行動のエネルギーとして分かち持った方がいい。

 首相指名まで待てない。一日の遅滞も許されない、とは何かにつけ政治「業界」の決まり文句だが、これは文字通りだ。相手はそこにいる。(論説室)

 

毎日新聞 2009年9月1日 東京朝刊

 

 

 

選挙に行きたい!=磯崎由美


 69・28%。衆院選小選挙区の投票率が現行制度下で過去最高になった。この数字には、今年20歳になり初の国政選挙に臨んだN美さんの1票も含まれている。

 自閉症のN美さんはレストランの仕事が休みの日、不在者投票に行った。母(53)は娘に各候補者と政党を説明し「いいと思った名前を書くのよ」と送り出した。迷わず投票用紙に向かい大人の責任を果たした娘が、母には誇らしい。「親の私もしっかり選ばなきゃって思いました」

 知的障害者と選挙については04年に千葉県手をつなぐ育成会がアンケートしている。回答者666人中、約35%が投票に行っていた。町が選挙ムードになると投票が気になってくる人。候補者名を書く練習をしてその日を待つ人もいる。ところが現行法では相続問題などに備え法定の成年後見制度を利用すると、障害の程度や事情にかかわらず一律に選挙権を失ってしまう。

 約20年前から立候補者を招き演説会を開いている社会復帰施設・滝乃川学園(東京都国立市)では、今回も約40人が候補者らの訴えに耳を傾け、半数が投票に行った。一方で、親が高齢の人には将来のために成年後見制度をすすめざるを得ない。突然投票できなくなった人に「なぜ?」と聞かれるたびに、職員は「私たちも矛盾を感じているのに、どう説明すればいいのか」と悩むという。

 悪質な施設が判断能力の不十分な入所者を誘導し、特定の候補者に投票させるといった選挙違反も起きている。しかし事件防止を重視するあまり、政治に参加する大切な手段が奪われるのはおかしい。そもそも成年後見制度は障害者や高齢者の暮らしと権利を守るために作られたはずだ。(生活報道部)

 

毎日新聞 2009年9月2日 東京朝刊

 

 

 

政権交代の原動力=与良正男(論説室)


 「もっと気軽に政権交代を!」と本欄で書いたのは03年6月だった。まだ小泉内閣のころ。「気軽にとは、ふまじめな」と当時、随分おしかりを受けたものだ。

 政治記者になった20年前から私は、メディアも含め多くの人たちが、どうも政権交代を大仰に考え過ぎているのではないかと感じてきた。

 政権が行きづまれば自民党が勝手に首相を代えるのではなく、政権党が変わるのが当たり前。しかも、右から左へ世の中が180度変わるのではなく、よりましになる程度で十分ではないか。大事なのは有権者が選挙で代えること--。振り返ればワンパターンと言われながら本欄でもそればかり書き続けてきた。

 読者の集いなどで全国を回ってみて思うことがある。そんな私の話に一番早く理解を示してくれたのは実は地方のお年寄りの方たちだった。一昨年春ごろからだろうか。これまで選挙となれば必ず投票に行って自民党以外には入れたことがないという人たちが「今度だけは絶対自民に入れない」「民主党にも問題があるのは承知しているが、一度交代させてみたらいい」と口々に言い始めたのだ。

 一連の小泉改革で、地方の疲弊や格差問題がクローズアップされると同時に、消えた年金問題が明らかになった時期だ。加えて、その後の後期高齢者医療制度導入がダメを押した。今度の政権交代の原動力となったのは、あのおじいさんやおばあさんたちではなかったかと私には思える。

 もちろん、彼らは気軽に投票したのではない。真剣に政治のあり方を考えた末にチェンジを選択したのだ。その重さを勝った民主党も負けた自民党も考えてみる必要があると思う。


 
毎日新聞 2009年9月3日 東京朝刊

 

 

 

11.25%=福本容子


 「今度の選挙は番狂わせだった」--。鳩山さんが読み違いを認めていた。由紀夫さんではない。おじいさんで当時、自由党総裁だった一郎さん。1946年4月に行われた戦後初の衆院選である。

 初めて女性が参政権を得た総選挙で、いきなり39人の「婦人代議士」が誕生したのだ。鳩山さんはびっくり。新聞もびっくり。「(参政権運動の)闘士、令嬢、色とりどり。喫茶店主など随分変わり種もある」と当時の毎日新聞も随分だけど、フランスの31人に勝った、と喜んでもいた。

 こんなコメントがあった。仏文学の辰野隆東大教授による女性議員を根付かせるための心得。「新時代の飾りものにして議事堂に据えて置くだけでなく、責任ある地位に立たせ責任ある仕事をやらせることだ。そして彼女たちに理想を説かせることである」

 でも、そうならなかった。初回に8・37%あった衆院の女性議員比率は2%前後の低迷が続く。増え始めたのは90年からで、05年の前回やっと過去最多の43人が当選した。

 それでも比率はなお1ケタで世界ランク100位圏外だったのが、今度の選挙でついに2ケタに乗ったのである。当選54人で11・25%。3ポイント足らずの上昇に63年かかったけれど、この2回だけ見たら4年で11人増、2・3ポイントアップ。政党に、起用しようという思いがあれば変えられるのだ。

 少子化対策とか女性の地位向上、とかではない。有権者の半分が女性なのだから(実際は女性が347万人多い)、議員も半分いて当たり前というだけのこと。世の中の問題が複雑でいろいろなのに、同じような人たちだけで政治を長くやりすぎ煮詰まった。同じような人たちとは「一つの党の人たち」だけじゃない。(経済部)

 

毎日新聞 2009年9月4日 東京朝刊

 

 

 

動くか歴史問題=岸俊光


 村山富市内閣の評価はいまだに難しい。在任561日は長くないが、阪神大震災があり、地下鉄サリン事件が起きた。長年対立していた自民党と結び、自衛隊、日米安保で社会党の政策を転換した。

 それでも、戦後50年を機に打ち出した「村山談話」は批判を受けながらも歴代内閣が踏襲し、アジア諸国との信頼関係を築く力になっている。

 その村山さんが、評論家の佐高信さんと対談した「『村山談話』とは何か」(角川書店)は、談話の誕生秘話などを伝える面白い新刊だ。

 「使命がすんだら、この内閣の役割は終わってもいいという腹づもりだったからね」

 政府見解には全閣僚の同意がいる。反対者の罷免も辞さぬ決意からは、まゆ毛の笑顔に隠れたすごみがのぞく。

 本になった背景には、航空幕僚長が政府の歴史認識に反する論文を公にし更迭された事件がある。が、今読むのもふさわしい。政権交代は歴史問題を動かす好機だからだ。

 ドイツに戦後補償の大きな財団ができたのは、社会民主党(SPD)のシュレーダーに首相が代わった後の2000年だった。村山内閣は自社さ連立にせよ、47年ぶりの社会党政権なのは間違いない。

 いわゆる従軍慰安婦問題を扱うアジア女性基金を作った話を聞いたとき、村山さんは慨嘆したものだ。「本当は、慰安婦に限らず強制労働問題などを含めてトータルに償う仕組みにしたかった」と。

 民主党に歴史問題の進展を期待する声が高まっている。国立追悼施設や原爆投下など問題は多々あり、対応も一通りでない。鳩山由紀夫代表は「現政権との違いは、過去の歴史を直視する勇気があることだ」と発言した。注目したい政権交代のポイントだ。(学芸部)


 
毎日新聞 2009年9月5日 東京朝刊

 

 

 


軍縮学会の出番=広岩近広


 日本軍縮学会の第1回研究大会が先月末、一橋大学で開かれた。北朝鮮の核実験やオバマ米大統領が「核兵器のない世界を目指す」とプラハで演説したこともあって、核軍縮が主たるテーマだった。

 北朝鮮を対象にした「核廃棄の検証問題」や「核の共有をめぐる米欧関係」、さらには「核先制不使用の問題点」などについて、5人の会員から報告された。若手研究者に対して「個性的で、独創的な発表だが、説得力をもたせるためには考察を深めてほしい」との意見が出るなど、討論はなかなか活発であった。

 日本軍縮学会が設立されたのは、オバマ演説後の4月11日である。初代会長の大阪女学院大大学院教授の黒澤満さんに取材した際、タイミングの良さに触れると、こう語った。「昨秋から準備を進めていたので、オバマ演説を受けて設立したわけではありません。ブッシュ政権では愚痴も多かったですが、オバマ大統領になって核軍縮の流れが180度変わりました」

 軍縮学会の出番がきたということだろう。

 「軍縮問題をオール・ジャパンで議論するための恒久的なフォーラム」にしたいといい、黒澤さんは電子版の「ニュースレター」に書いている。「官も民も、右も左もすべて集結して、より平和で安全な国際社会を構築するために軍縮をどのように進めるべきかを考えていきたい」

 会員は100人を超え、なお増え続けている。政治家、政府関係者、NGO(非政府組織)、学者、ジャーナリスト……。著名人も多い。

 民主党を中心にした新政権にとって、核軍縮は課題の一つである。日本軍縮学会の存在は増していくに相違ない。私は会場で、そう確信した。(編集局)


 
毎日新聞 2009年9月6日 東京朝刊

 

 

 

切り開く航路=福島良典


 「世界は神が創(つく)ったが、オランダはオランダ人が造った」と言われる。国土の約4分の1が海面よりも低いオランダは大堤防を築いて北海の荒波を防ぎ、治水と干拓によって国土を拡張してきた。

 海だけではない。デルタ地帯に位置するため、上流の工業・生活排水が流れ込み、飲み水の確保が容易ではなかった。だが、「困難があったがゆえに、最新の浄水技術を開発できた」(オランダ国際ビジネス協力庁広報官)。

 今、戦っている相手は地球温暖化だ。幹線道路脇では、風力発電の白い巨大風車が干拓・農工用の古い風車と肩を並べている。街では朝夕、渋滞する自動車の横を自転車で風を切る市民の姿が目立つ。

 目を見張るのは、発想の豊かさだ。オランダ第2の都市ロッテルダムには昨年、床の振動を利用して自家発電するダンスホールがお目見えした。ホールで使う電力の約1割をまかなう予定だという。

 道路をすっぽりとドームで覆い、内部に並べた植物が自動車の排ガスを吸収する「持続可能な高速道路」を建設する構想もある。発生した熱は地下にためて冬の暖房に。騒音も防ぐ優れものだ。

 オランダは1970~80年代、大不況に見舞われたが、雇用創出のためのワークシェアリング(仕事の分かち合い)を他国に先駆けて導入し、危機を乗り越えた。温暖化対策と共通するのは、ピンチをチャンスに変える意志だ。

 江戸幕府がオランダと交易を始めて400周年の今年、日本は政権交代で岐路に立つ。暮らしや環境の保護と経済成長をどう両立させるのか、民主党が描く「国の形」はおぼろげだ。航路を自ら切り開くオランダの国造りの知恵が参考になるかもしれない。(ブリュッセル支局)


毎日新聞 2009年9月7日 東京朝刊